カルマの法則を学び、実践していくと、私たちの人生はより意識的で、責任あるものへと変容していきます。しかし、ヨガの最終的なゴールは、カルマの法則を上手に使いこなすことにあるのではありません。その究極の目的は、カルマの法則そのものから自由になること、すなわち、輪廻の輪から完全に解き放たれる「解脱(モークシャ)」です。
これは、法則を無視したり、破ったりすることではありません。それは、水泳選手が水の抵抗や浮力といった法則を完全にマスターし、それを味方につけて自由自在に泳ぐように、カルマという宇宙の根本法則を完全に理解し、そのゲームの盤上から降りることです。この至高の境地へと至る道は、古来より「智慧(ジュニャーナ)」と「愛(バクティ)」という、二つの主要な道筋で示されてきました。
第一の道は、「ジュニャーナ・ヨーガ(智慧のヨガ)」です。これは、徹底的な自己探求と哲学的思索によって、「私とは誰か?」という根源的な問いの答えを見出そうとする、理知的なアプローチです。この道を進む探求者は、やがて、行為の主体である「私」という感覚、すなわち自我(エゴ)そのものが、究極的には幻想であることに気づきます。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の教えによれば、真の行為者は、個人の「私」ではありません。すべての行為は、ブラフマン(宇宙の根本原理)という唯一の実在が、様々な個人の姿を通して行っている、壮大な「戯れ(リーラ)」に過ぎないのです。雨が降り、風が吹き、太陽が輝くのと同じように、行為はただ起こっている。そこに、「私がやっている」という行為者意識が介在するからこそ、その結果としてのカルマが生じ、私たちを束縛するのです。
この究極の智慧に達した賢者(ジュニャーニ)は、もはや自分の行為に執着しません。なぜなら、「自分」という行為者がいないことを知っているからです。彼らの行為は、個人的な欲望からではなく、宇宙全体の調和の流れから自然に湧き起こるものとなり、新たなカルマを生み出すことがありません。それは、水面に跡を残さずに飛び立つ鳥のような、完璧な行為です。
第二の道は、「バクティ・ヨーガ(信愛のヨガ)」です。これは、神や、グル(霊的指導者)、あるいは宇宙のいかなる側面に対して、絶対的な愛と献身を捧げる、情緒的なアプローチです。バクタ(信愛者)は、自らのすべての行為を、愛する神への捧げものとして行います。
料理をすることも、仕事をすることも、子育てをすることも、すべてが神への礼拝となります。そして、その行為から生じるすべての結果、それが成功であれ失敗であれ、喜びであれ悲しみであれ、すべてを「神の御心(みこころ)」として、感謝と共に受け入れ、捧げ返します。
この完全なる明け渡し(サレンダー)によって、バクタは行為の結果に対する執着から解放されます。行為の責任をすべて神に委ねることで、彼らもまた、カルマの束縛から自由になるのです。「私がやっている」という自我の代わりに、「すべては神の思し召し」という、大いなるものへの絶対的な信頼が、彼らの心を支配します。
智慧の道と愛の道は、一見すると対照的に見えますが、山頂を目指す登山道が異なるだけで、最終的に至る場所は同じです。ジュニャーニが「私ではない、ブラフマンだけがある」と知る境地と、バクタが「私はなく、ただ神だけがある」と知る境地は、言葉の違いこそあれ、自我の消滅という点において同一だからです。
カルマの法則から自由になるということは、この世界のただ中で、すべての行為を、完全な智慧と、無条件の愛の表現として行い、あらゆる結果を、風にそよぐ木の葉のように、静かに、そして優雅に受け入れる心の状態に他なりません。それは、何かを「引き寄せよう」とすら思わない、完全なる充足と平和の境地。
この道を歩むことは、一生をかけた、あるいは幾多の生をかけた壮大な旅かもしれません。しかし、その一歩一歩が、私たちを束縛から解放し、真の自由へと近づけてくれるのです。そしてその旅こそが、ヨガが指し示す、最も深く、最も美しい「引き寄せ」の究極の姿なのです。


