三つの道:行為の道、知識の道、信愛の道 – 解脱への多様なアプローチ

ヨガを学ぶ

『バガヴァッド・ギーター』が人類の精神史において不滅の光を放ち続ける理由、それはこの聖典が、人生という複雑怪奇な戦場で立ち尽くす私たち一人ひとりに対して、具体的かつ多様な「生き方の地図」を差し出してくれるからに他なりません。物語の舞台は、まさにこれから始まろうとする大戦のさなか。主人公アルジュナは、敵陣に敬愛する師や親族の顔を見出し、「戦う」という自己の義務(ダルマ)と、親しき者を殺めることへの倫理的・情緒的葛藤との間で引き裂かれ、戦意を喪失してしまいます。

このアルジュナの苦悩は、単なる古代叙事詩の一場面ではありません。それは、何をなすべきか、何が正しいのか、人生の意味とは何かという根源的な問いの前で立ち往生する、現代人の心の風景そのもののようです。キャリア、家庭、社会との関わりの中で、私たちは日々、義務と感情、理想と現実の狭間で懊悩します。その絶望の淵にいるアルジュナに対し、彼の御者として傍らに立つ親友クリシュナ(実は至高神ヴィシュヌの化身)が授ける智慧こそが、『バガヴァッド・ギーター』の核心です。

クリシュナが示す最終目的地は「解脱(モークシャ)」、すなわち輪廻のサイクルからの解放であり、苦しみの根源的な消滅です。しかし、驚くべきことに、クリシュナはその目的地へ至る道を一つに限定しませんでした。彼は、人間の気質や生きる状況の多様性を見据え、大きく分けて三つの道(マールガ)を提示します。それが、「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」「ジュニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)」、そして「バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)」です。これらは互いに排斥しあうものではなく、むしろ補完しあい、時に深く絡み合いながら、同じ一つの頂を目指す登山道のようなものです。この講では、それぞれの道の思想的背景、実践の核心、そして現代を生きる私たちにとっての意義を深く探求していきましょう。

 

第一の道:カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ) – 日常の営為を解脱の階梯とする

まずクリシュナがアルジュナに説くのが、カルマ・ヨーガの道です。現代のヨガスタジオで「カルマ」という言葉を聞くと、どこか宿命論的な「業」を思い浮かべるかもしれませんが、ギーターにおけるカルマ・ヨーガは、より能動的で解放的な思想です。

カルマ・ヨーガとは何か?

その定義は、「行為の結果に対する執着を放棄して、自己の義務(ダルマ)を遂行すること」に尽きます。重要なのは、行為そのものを放棄する(サンニャーサ)のではない、という点です。クリシュナは、弓を捨てて無為に座り込もうとするアルジュナを諌め、「何もしないでいるよりも、行為する方がはるかに優れている」(3章8節)と断言します。人間は、呼吸をする、食事をする、思考するなど、生きている限り何らかの行為(カルマ)から逃れることはできません。であるならば、問題は「何をするか」よりも「いかに行為するか」にあるのです。

カルマ・ヨーガの核心は、行為から生まれる結果、すなわち成功や失敗、賞賛や非難、利益や損失といったものに心をかき乱されず、ただ、今ここでなすべきことを淡々と、しかし誠実に行うことにあります。行為の果実への期待こそが、私たちを喜びや悲しみ、怒りや不安といった感情の波に翻弄させ、心を束縛する鎖となるのです。その鎖を断ち切る智慧が、カルマ・ヨーガです。

思想的背景:ヴェーダ儀礼主義の革新

この思想の革新性を理解するためには、ヴェーダ時代の思想的背景に目を向ける必要があります。ヴェーダ時代後期、祭官(バラモン)階級が執り行う祭祀(ヤジュニャ)という「行為(カルマ)」は、現世利益(子孫繁栄、富、勝利など)や来世の天界での幸福を得るための極めて重要な手段でした。この儀礼万能主義(カルマ・カーンダ)は、行為とその結果を強く結びつける思想です。

ウパニシャッドの哲人たちは、こうした外面的な儀式よりも内面的な思索を重視し、世俗を捨てて森に分け入り、知による解脱(ジュニャーナ)を目指しました。しかし、すべての人が家や社会を捨てて林住期を送れるわけではありません。

ここにギーターの独創性があります。ギーターは、儀礼という特定の行為だけでなく、戦士の戦い、商人の商い、職人の手仕事、家庭での務めといった、社会生活におけるあらゆる日常的な行為を、解脱へと至る神聖な「ヨーガ(結合の実践)」へと昇華させたのです。これは、出家主義的なウパニシャッドの理想と、在家の社会生活とを統合しようとする、画期的な試みでした。

現代を生きる私たちとカルマ・ヨーガ

「汝のなすべきことをなせ。しかし、その結果に執着するな」(2章47節)。このギーターの中心的なメッセージは、成果主義や過剰な競争に疲弊した現代人にとって、深い癒しと実践的な指針を与えてくれます。

私たちの多くは、仕事の評価、SNSでの「いいね」の数、他者との比較といった「結果」に一喜一憂し、そのプロセス自体を楽しむ心の余裕を失っています。カルマ・ヨーガは、私たちに行為の動機を問い直させます。それは自己の利益や虚栄心を満たすためなのか、それとも、ただ純粋になすべきことをなすという、自己のダルマの遂行なのか。

日々の仕事を、単なる給料を得るための手段ではなく、社会への貢献、自己の技術の研鑽、あるいはイーシュヴァラ(自在神)への捧げものと見なすとき、その行為の意味は一変します。掃除、洗濯、育児といった家庭での務めもまた、家族への愛の表現であり、解脱へと至る神聖な実践となりうるのです。カルマ・ヨーガは、私たちの日常という平凡な舞台を、精神的な修練の場へと変える、錬金術的な智慧と言えるでしょう。

 

第二の道:ジュニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ) – 智慧の光で無明を断つ

アルジュナの苦悩は、行為への葛藤であると同時に、「私とは誰か」「何が実在するのか」という認識の混乱にも根差しています。親族や師を「私のもの」とみなし、彼らの身体的な死を絶対的な終わりと捉えることから、彼の悲しみは生まれています。これに対し、クリシュナはジュニャーナ・ヨーガ、すなわち智慧による解放の道を説きます。

ジュニャーナ・ヨーガとは何か?

ジュニャーナ・ヨーガとは、真なる自己(アートマン)と、この宇宙の根源的な実在(ブラフマン)が本質的に一つであるという究極の真理を、単なる知的な理解に留まらず、直観的に体得することによって解脱を目指す道です。ここでいう「ジュニャーナ(智慧)」は、書物から得られる情報や知識(ヴィジュニャーナ)とは区別されます。それは、物事の本質を꿰뚫く洞察力であり、迷妄の根源である「無知(アヴィディヤー)」を滅する光です。

ギーターによれば、苦しみの根本原因は、私たちが本来の自己(アートマン)を、移ろいゆく身体や心、感情や思考と同一視してしまうことにあります。アートマンは、生まれもせず、死にもせず、焼かれもせず、濡れもしない、永遠不滅の実在です。一方、肉体や精神現象は、物質的な自然(プラクリティ)から生じたものであり、常に変化し、いずれは滅び去ります。この両者を混同し、「私が死ぬ」「私が苦しむ」と考えることが、あらゆる恐怖や悲しみの源泉なのです。ジュニャーナ・ヨーガは、この「不滅なるもの」と「移ろいゆくもの」とを明確に識別する智慧の探求です。

思想的背景:ウパニシャッド哲学の継承と発展

この思想は、まさしくウパニシャッド哲学の「梵我一如」の教えを直接受け継ぐものです。「汝はそれなり(Tat Tvam Asi)」というウパニシャッドの奥義を、ギーターは戦場という極限状況の中で、より実践的な文脈から語り直します。

また、六派哲学の一つであるサーンキヤ哲学の影響も色濃く見られます。サーンキヤは世界を純粋精神である「プルシャ(神我)」と、根源的物質である「プラクリティ(自性)」の二元論で説明します。ジュニャーナ・ヨーガにおけるアートマンと身体・精神現象の識別は、サーンキヤ哲学のプルシャとプラクリティの働きの識別知(ヴィヴェーカ)と深く響き合っています。ギーターは、これらの深遠な哲理を統合し、解脱への道筋として再構成したのです。

現代を生きる私たちとジュニャーナ・ヨーガ

情報が洪水のように押し寄せる現代において、何が真実で、何が虚偽なのか、何が本質的で、何が表層的なのかを見抜く力は、これまで以上に重要になっています。ジュニャーナ・ヨーガは、私たちに内面への旅を促し、「本当の自分とは何か?」という根源的な問いへと立ち返らせます。

私たちは日常的に「私の意見」「私の感情」「私の身体」という言葉を使いますが、ジュニャーナ・ヨーガは「その『私』とは一体誰なのか?」と問いかけます。怒りや悲しみに飲み込まれているとき、その感情を観察している「もう一人の自分」がいることに気づく。身体の痛みに苦しんでいるとき、その痛みを客観的に見つめている意識の存在に気づく。この観察者としての自己、観照者としての純粋意識こそが、アートマンの現れです。

瞑想や内省を通して、自己を現象と同一視するのをやめ、自己を純粋な観照者として確立していく実践は、感情的な混乱やストレスからの解放をもたらします。カルマ・ヨーガが行為の「やり方」を変えるものであるとすれば、ジュニャーナ・ヨーガは世界の「見方」そのものを変革する、パラダイムシフトのヨーガなのです。真の自己が不変であることを知れば、外界の変化に一喜一憂することがなくなり、行為への執着もまた、自然と消え去っていくでしょう。

 

第三の道:バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ) – 全託の愛による神との合一

カルマ・ヨーガが意志の道、ジュニャーナ・ヨーガが知性の道であるとすれば、バクティ・ヨーガは「心」、すなわち感情と情緒の道です。クリシュナは、難解な哲理や厳格な自己制御だけでなく、より直接的で、万人に開かれた道をも示します。それが、神への絶対的な愛と献身(バクティ)による解脱の道です。

バクティ・ヨーガとは何か?

バクティ・ヨーガとは、人格を持つ至高神(ギーターにおいてはクリシュナ)を愛し、信じ、そのすべてを神に委ねることによって、神との合一を果たし、解脱へと至る道です。この道は、人間の持つ最も強力なエネルギーの一つである「愛」や「献身」といった感情を、抑圧したり否定したりするのではなく、むしろそれを神へと向けることで、精神的な浄化と解放の原動力へと転換させます。

バクティの実践は多岐にわたります。神の名を歌い、唱えること(キールタン、ジャパ)。神の姿や物語を心に思い描くこと(スマラナ)。神像を礼拝し、供物を捧げること(プージャー)。神の栄光を語り、聞くこと。そして、自らのすべての行為を、神への奉仕(セーヴァ)とみなすこと。これらの実践を通して、信奉者は「私」という小さな自我意識を溶解させ、広大な神の愛の海に合流していくのです。

思想的背景:大衆的信仰運動の萌芽

バクティという概念はヴェーダにも見られますが、ギーターにおけるバクティは、後のインド全土を席巻する熱狂的な「バクティ運動」の思想的源流となりました。ウパニシャッドが説く非人格的で抽象的なブラフマンは、高度に知的な探求を要するため、必ずしも万人の心に響くものではありませんでした。

しかし、ギーターは、その究極の実在が、慈悲深く、美しく、愛すべき人格神クリシュナとして現れうることを示したのです。これは、哲学的な高みと、大衆の素朴な信仰心とを繋ぐ、画期的な橋渡しでした。遠い存在であった神が、友として、師として、恋人として、私たちのすぐ傍にいるという思想は、多くの人々の心をとらえ、インドの宗教文化に計り知れない影響を与えました。

現代を生きる私たちとバクティ・ヨーガ

ギーターのクライマックスにおいて、クリシュナは「一切の法(ダルマ)を捨てて、ただ私一人のもとに帰依せよ。そうすれば、私がお前を一切の罪悪から解放してあげよう。憂うることなかれ」(18章66節)と宣言します。この「全託」のメッセージは、自己の力だけで人生の重荷を背負い、孤独や無力感に苛まれている現代人にとって、魂を揺さぶる響きを持ちます。

バクティ・ヨーガは、私たちに「コントロールできないことがある」という事実を受け入れさせ、それを超越的な存在に委ねる謙虚さを教えてくれます。それは、思考停止や無責任とは全く異なります。むしろ、人事を尽くして天命を待つ、という境地に近いでしょう。

愛する対象に没頭するとき、私たちは時間を忘れ、自己を忘れます。音楽に、芸術に、あるいは愛する人への奉仕に我を忘れて打ち込む経験は、誰にでもあるはずです。バクティ・ヨーガは、その「忘我」のエネルギーを、究極の愛の対象である神へと向けるのです。理屈や論理を超えた、全身全霊での信頼と愛。それは、不安に満ちた現代社会を生き抜くための、強力な心の拠り所となりうるでしょう。

 

三つの道の統合:多様な人間性への温かい眼差し

クリシュナは、これら三つの道を別個独立のものとして提示しているわけではありません。むしろ、それらは相互に浸透しあい、一つの円環をなしています。

執着なく行為を遂行するカルマ・ヨーガは、その行為を神への捧げものと見なすとき、バクティ・ヨーガと深く結びつきます。また、真の自己が不滅であることを知るジュニャーナ・ヨーガは、行為の結果への執着を断ち切るための強力な基盤となります。そして、神への献身的な愛(バクティ)は、信奉者の行為を浄化し、神の智慧(ジュニャーナ)を受け取るための開かれた器となるのです。

ギーターが不朽の聖典たるゆえんは、解脱への道を一つに絞らず、人間の多様な気質を深く洞察し、それぞれに合ったアプローチを提示した点にあります。活動的な気質の人(ラジャス優位)にはカルマ・ヨーガが、知的な探求を好む人(サットヴァ優位)にはジュニャーナ・ヨーガが、そして情緒豊かで愛を重んじる人にはバクティ・ヨーガが、それぞれ自然な道として響くでしょう。

山の頂は一つであっても、そこに至る登山道は無数にあります。ある者は険しい岩壁をよじ登り、ある者は緩やかな森の小道を歩み、またある者はロープウェイで一気に頂を目指すかもしれません。どの道が優れているという議論は意味をなしません。大切なのは、自分に合った道を選び、一歩一歩、真摯に歩み続けることです。

この多様性の肯定こそ、『バガヴァッド・ギーター』が現代を生きる私たちに贈る、最も貴重なメッセージなのかもしれません。私たちは、自分の仕事(カルマ)を通して、学び(ジュニャーナ)を通して、そして誰かや何かを愛する心(バクティ)を通して、この日常という舞台の上で、解脱へと至る聖なるヨーガを実践することができるのです。アルジュナの戦場は、私たちの生きるこの世界そのものなのですから。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。