私たちはしばしば、「自分のこと」と「他人のこと」を明確に区別し、両者を天秤にかけるように考えがちです。「自分の利益(自利)」と「他者の利益(利他)」は、どちらかを選べばどちらかが犠牲になる、トレードオフの関係にあると。しかし、東洋の深遠な叡智は、その二元論的な見方を優雅に飛び越えていきます。そして、こう囁くのです。「他者を助けることは、究極的には、自分自身を助けることなのだ」と。
この逆説的な真理の根底にあるのは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学が説く「不二一元論」の世界観です。これは、すべての存在の根源は一つである、という教えです。個々人の魂の本質である「アートマン」と、宇宙の根本原理である「ブラフマン」は、本来、同一である(梵我一如)。つまり、表面的な肉体や人格のレベルでは「私」と「あなた」は別々に見えますが、その最も深いところでは、私たちは分離不可能な一つの「いのち」を分かち合っているのです。
この視点に立てば、他者を助けるという行為の意味は一変します。それは、まるで自分の右手が、かゆい左手を掻いてあげるようなものです。右手が左手に「何か見返りをくれ」とは要求しないでしょう。なぜなら、両者は同じ一つの身体に属しており、左手の快適さは、身体全体の快適さに繋がることを「知っている」からです。同様に、他者の苦しみを取り除くことは、私たちという大きな「いのち」の一部を癒すことであり、その喜びや安らぎは、巡り巡って必ず自分自身にも還ってくるのです。
大乗仏教における「菩薩(ぼさつ)」の生き方も、この「自利利他円満」の思想を体現しています。菩薩とは、自らの悟りを求めるだけでなく、すべての生きとし生けるものが救われるまで、この世に留まって人々を助けることを誓った存在です。彼らにとって、他者の救済(利他)は、自らの悟り(自利)から切り離されたものではなく、悟りへと至るための道そのものなのです。
この叡智を、私たちは日常生活の中でどのように実践できるでしょうか。その鍵となるのが、「カルマヨガ(行為のヨガ)」です。カルマヨガとは、行為そのものに喜びを見出し、その結果に対する執着を手放す実践です。誰かに親切にする時、「感謝されるだろうか」「何かお返しがあるだろうか」といった見返りを一切期待せず、ただ、その行為を捧げもののように、純粋な気持ちで行う。
例えば、道端に落ちているゴミを拾う。電車でお年寄りに席を譲る。困っている同僚の話を、ただ黙って聴いてあげる。これらの行為を行う時、あなたは「私」という小さな自我の枠を超え、より大きな流れの一部となります。その瞬間、行為の主体は「私」ではなくなり、宇宙の慈悲が「私」という道具を通して現れた、という感覚が訪れるかもしれません。
また、他者の中に、あなたがどうしても許せない部分や、強く心を揺さぶられる部分を見つけた時、それはあなた自身の内側にある「影(シャドウ)」、つまり未解決な課題の投影であることが少なくありません。あなたが他者に見る苦しみや欠点は、実はあなた自身の魂が癒しを求めている部分なのです。ですから、相手を批判する代わりに、その人の中に安らぎと幸福があるようにと祈る「慈悲の瞑想」を実践することは、結果的にあなた自身の内なる影に光を当て、自己を統合していくプロセスに繋がります。
他者を助けることは、善行を積んで徳を貯めるような、功利的な計算ではありません。それは、分離という幻想から目覚め、「すべては一つである」という真理を、身体を通して体験するための、最もダイレクトでパワフルなヨガの実践なのです。他者の痛みは、私の痛み。他者の喜びは、私の喜び。この感覚が深まるほど、あなたの心は広がり、世界のあらゆる存在との深いつながりの中で、揺るぎない安らぎと愛を見出すことになるでしょう。


