私たちの日常は、まるで絶え間なく揺れ動く水面のようです。予期せぬ出来事という小石が投げ込まれるたびに、心にはさざ波が立ち、時には大きな渦が巻くことさえあるでしょう。仕事での失敗、人間関係の亀裂、計画通りに進まない現実。そうした波の一つひとつに私たちは一喜一憂し、「なぜ、うまくいかないのだろう」と天を仰ぐことがあります。しかし、もし、その水面の下に、どんな嵐でも揺らぐことのない、静かで広大な海の深みが広がっているとしたら、私たちの世界の見え方はどう変わるのでしょうか。
ヨガの叡智は、この深海のような静けさへと私たちを導きます。そのための重要な鍵となるのが、「イーシュワラ・プラニダーナ」という教えです。これはしばしば「自在神への献身」と訳されますが、特定の神への盲信を意味するものではありません。むしろ、この宇宙を貫いている、ある種の秩序や摂理、私たち人間の小さな知性を超えた大いなる流れに対する、絶対的な信頼と委ねの姿勢を指し示すのです。それは、「すべては、最終的に、最善の形で整えられていく」という、腹の底からの深い安堵感にも似ています。
この思想は、古代中国の賢人、荘子の思想にも通じるものがあります。彼は「万物斉同」を説き、人間が作り出した善悪、成否、美醜といった二元的な価値判断は、大いなる「道(タオ)」の視点から見れば、すべて等価であると看破しました。蝶になった夢から覚めた荘子が「果たして私は蝶の夢を見ていたのか、それとも今の私は蝶が見ている夢なのか」と問うたように、私たちの現実認識そのものが、いかに限定的な視点に基づいているかを教えてくれます。流れに逆らわず、あるがままに身を任せる「無為自然」の境地。これこそ、イーシュワラ・プラニダーナが指し示す、宇宙との調和した生き方そのものと言えるでしょう。
少し、ご自身の人生を振り返ってみてください。当時は「最悪だ」と思っていた失恋が、結果として最高のパートナーとの出会いに繋がった、ということはありませんか。希望の会社に落ちたからこそ、本当に自分のやりたいことを見つける旅が始まった、という経験はないでしょうか。出来事の本当の「意味」や「価値」というものは、渦中にいる私たちには、なかなか見えないものです。それはまるで、壮大なタペストリーの裏側から、一本のほつれた糸だけを見て嘆いているようなもの。後になって、ある程度の距離を置いて全体を眺めた時に初めて、その一本の糸が、美しい模様を描き出すために必要不可欠な役割を担っていたことに気づくのです。
この「すべてはうまくいっている」という絶対的な信頼を、身体感覚で学ぶ稽古があります。それは、ただ静かに座り、自身の呼吸を観察すること。吸う息も、吐く息も、私たちが意図的にコントロールしているようでいて、その実、生命そのものに委ねられています。心臓の鼓動も、細胞の新陳代謝も、私たちのあずかり知らぬところで、完璧な秩序をもって営まれている。この生命の完璧なシステムに対する信頼を取り戻すことが、人生の出来事に対する信頼へと繋がっていくのです。
ですから、次に何か予期せぬ出来事が起きて心が揺らいだ時、すぐに「良い」「悪い」と判断を下す前に、一度立ち止まってみてください。そして、静かにこう呟いてみるのです。「これも、うまくいっているプロセスの一部なのだ」と。これは気休めの自己暗示ではありません。限定的な自分の視点から一歩退き、より大きな視点、宇宙の視点に立ってみるための、意識的な練習です。すると、焦りや抵抗で固まっていた心と身体が、ふっと緩むのを感じるかもしれません。その弛緩したスペースにこそ、新たな視点や次の一歩へのインスピレーションが流れ込んでくるのです。
絶対的な信頼とは、未来が自分の思い通りになることへの期待とは異なります。それは、どんな展開を迎えようとも、嵐に見舞われようとも、晴れ渡ろうとも、そのすべてが「私」という存在を成長させ、魂を磨くための完璧なプロセスであると受け入れる、深く、静かな覚悟なのです。その信頼の中に根を下ろす時、私たちは人生の波乗りを、もっとしなやかに、もっと大胆に楽しむことができるようになるでしょう。


