これまでに、私たちは感情の波を乗りこなし、そのエネルギーを変換し、すべての感情を神聖なものとして受け入れる、様々な智慧を探求してきました。そして、その旅路の最後にたどり着くのは、最もシンプルでありながら、最も奥深い境地です。それは、感情を分析も、評価も、操作もせず、ただ、今この瞬間にここにある感情の生々しい手触りを、全身全霊で「味わう」ということです。
私たちは、経験に対して、あまりにも素早く思考のラベルを貼ってしまう癖があります。喜びが訪れれば「ああ、これは良いことだ。もっと続けばいいのに」と考え、悲しみが訪れれば「これは悪いことだ。早く消えてなくなればいい」と抵抗する。私たちは、経験そのものの中にいるのではなく、経験についての「思考」の中に生きてしまっているのです。それは、素晴らしい交響曲を聴きながら、その美しさに身を委ねる代わりに、「この指揮者はテンポが少し速いな」「あのヴァイオリンの音程がわずかにずれている」と、頭の中で批評ばかりしているようなものです。その批評は、音楽の生きた感動から、あなたを遠ざけてしまいます。
「味わう」という行為は、この批評家を黙らせ、経験そのものと一つになるための、究極の稽古です。それは、ヨガの伝統における「ラサ(Rasa)」の概念と深く響き合います。ラサとは、もともと「味液」や「本質」を意味する言葉ですが、インドの美学では、芸術作品に触れた時に生じる、言葉を超えた根源的な感動や情趣を指します。それは、悲劇を見て流す涙の中にさえ存在する、一種の甘美な味わいです。「味わう」とは、感情のポジティブ/ネガティブという表面的な分類を超えて、その奥にある生命の純粋な「ラサ」に触れることなのです。
この実践は、驚くほど身体的です。感情が湧き上がってきたら、それを「悲しみ」や「怒り」といった言葉で固めてしまう前に、まず身体のどこでそれを感じているかに注意を向けます。胸のあたりが、きゅーっと締め付けられるような感覚ですか? それとも、喉の奥に熱い塊があるような感じでしょうか? お腹の底が、ざわざわと揺れているのかもしれません。その感覚の、温度、質感、大きさ、動きを、まるで未知の惑星を探査する宇宙飛行士のような、純粋な好奇心をもって観察するのです。
良い/悪いの判断をせず、変えようともせず、ただ、そこに「在る」ことを許す。これは、道元禅師が説いた「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに座るという修行の本質にも通じます。座っているときに浮かぶ思考や感情を、追い払うのでも、追いかけるのでもなく、ただ現れては消えていくに任せる。感情もまた、空に浮かぶ雲のようなもの。あなたは、雲そのものではなく、雲が流れていく広大で不動の「空」なのです。この「空」としての自分に気づくとき、どんな激しい感情の嵐が来ても、あなたはもはやその中心で静かでいられるようになります。
引き寄せの法則の観点から見ると、この「今、この瞬間を味わう」という実践は、創造の最もパワフルな起点である「ゼロポイント」に自らを置くことに他なりません。私たちが過去の後悔や未来への不安について「思考」しているとき、私たちのエネルギーは「今、ここ」から漏れ出してしまっています。しかし、今この瞬間の身体感覚や感情を完全に「味わっている」とき、私たちの意識は100%、現在にアンカリングされます。この「今、ここ」という一点に凝縮された意識こそが、過去のカルマの連鎖を断ち切り、未来の可能性の場(量子場)に働きかける、唯一の力なのです。
今、この瞬間の感情を完全に味わい、感じ切ることで、その感情のエネルギーはブロックされることなく、スムーズに流れ、その役割を終えて自然に去っていきます。感情を抑圧したり、抵抗したりするからこそ、エネルギーは滞留し、問題となるのです。感じ切ることこそが、究極の解放なのです。
これは、あなたが人生のあらゆる瞬間を、深く、豊かに生きるための招待状です。喜びの瞬間は、その甘美さを細胞の隅々まで染み渡るように味わう。悲しみの瞬間は、その痛みが心を洗い流していく浄化のプロセスとして、静かに味わう。退屈な瞬間でさえ、その静けさの中に広がる微細な音や光を、丁寧に味わう。
人生は、味わうためにあります。思考のフィルターを通してではなく、あなたの全身全霊という、最高のセンサーを通して。さあ、今、あなたの内側で何が起きていますか? どんな味がしますか? その神聖な味わいを、誰にも邪魔されず、ただ、ゆっくりと堪能してください。そこに、生きることのすべての答えが隠されています。


