私たちは皆、時間の旅人です。しかし、多くの人々が、過去という名の重い錨を引きずりながら、未来という海へ漕ぎ出そうとしています。その錨の正体こそ、他者や出来事に対する「許せない」という感情です。この感情は、まるで目に見えない鎖のように私たちの心身を縛り付け、今この瞬間の自由と、未来の可能性を奪ってしまいます。
ヨガの哲学において、最も重要な指針の一つに「アヒンサー(Ahiṃsā)」、すなわち非暴力の教えがあります。私たちはこの言葉を聞くと、他者を物理的に傷つけないことだと考えがちです。しかし、アヒンサーの本当の深みは、内なる世界、すなわち自分自身の心に対して向けられる暴力に気づくことから始まります。誰かを許さないという状態は、実は、相手に向けて放ったつもりの毒矢が、ブーメランのように自分自身の心に突き刺さり続けている状態に他なりません。その出来事が起きたのは過去の一点かもしれません。しかし、「許さない」と決意し続けることで、私たちは毎日、毎瞬、その毒を自ら飲み干し、自分自身を傷つけ続けているのです。これは、アヒンサーの精神から最も遠い行いと言えるでしょう。
仏教思想においても、「慈悲」の概念は中心的な役割を果たします。ここで重要なのは、許しという行為が、相手に与える「恩赦」や「情け」なのではなく、徹頭徹尾、自分自身の心の平安(サンスクリット語でシャーンティ)のために行う、極めて自己本位で、かつ崇高な行為であるという視点です。相手が許しに値するかどうかは、問題の本質ではありません。あなたが、その重荷をこれ以上背負い続ける必要はない。あなたが、過去の呪縛から解放され、自由に生きる価値がある。そのために、あなたは許すのです。
では、具体的にどうすれば、この重い鎖を断ち切ることができるのでしょうか。それは、筋力トレーニングのように、心の筋肉を鍛える稽古が必要です。まず、静かに座り、呼吸を整えましょう。そして、あなたが許せないと感じている人物や出来事を、安全な距離を保ちながら心に思い浮かべます。その時に湧き上がる身体の感覚(胸の詰まり、胃の収縮、肩の緊張)を、ただ静かに観察します。ジャッジせず、ただ「ここに、この感覚がある」と認めるのです。
次に、その相手に対して、心の中で静かに語りかけます。「あなたの行為を肯定するわけではないけれど、私はもう、この出来事に私のエネルギーを注ぐことをやめます。私は、私の心の平和を選びます」。そして、深く息を吐きながら、その人との間にある黒いエネルギーのコードが、光のハサミで断ち切られるのをイメージします。
さらに効果的なプラクティスが「慈悲の瞑想(メッター瞑想)」です。これは、許せない相手の幸福を、あえて祈るという逆説的なアプローチです。「(相手の名前)が幸せでありますように。(相手の名前)が健やかでありますように。(相手の名前)が平安でありますように」。最初は強い抵抗を感じるかもしれません。それでいいのです。しかし、この言葉を繰り返し唱えるうちに、あなたの心は、相手と自分を同一視する執着のレベルから、両者を客観的に見下ろす、より高い視座へと移行していきます。それは、相手を解放すると同時に、あなた自身を解放する魔法の呪文となるでしょう。
許しとは、過去の出来事を「なかったこと」にする忘却ではありません。むしろ、その出来事があったことを認め、その経験から学ぶべきことを学び、そして、その出来事がもはやあなたの現在の感情や未来の行動を支配する力を失ったと宣言する、能動的で力強い決断なのです。それは、過去を変えるのではなく、過去が未来を縛る力を無効化する鍵です。その鍵を手にした時、あなたの航海は、ようやく真の自由を得て、無限の可能性が広がる大海原へと進み始めるでしょう。


