私たちは、肌という境界線によって、自分と自分以外の世界を隔てています。これは「私」であり、あれは「あなた」。これは「私」の机であり、あれは「外」の景色。この「個別に分離している」という感覚は、私たちが世界を認識するための基本的なOS(オペレーティングシステム)であり、疑うことすらない自明の前提となっています。しかし、もし、この前提そのものが壮大な幻想だとしたら? ヨガや仏教といった東洋の叡智が、その核心で指し示しているのは、まさにこの「分離は幻想であり、万物は根源において繋がっている」という、私たちの常識を根底から覆す真理です。
この思想を最も精緻に体系化したのが、仏教の「縁起(えんぎ)」の教えです。これは、釈迦が悟りを開いた際に見抜いた、宇宙の根本法則とされています。その有名な定式は、「此(こ)れ有れば彼(か)れ有り、此れ無ければ彼れ無し。此れ生ずれば彼れ生じ、此れ滅すれば彼れ滅す」というものです。これは、この世のあらゆる事象は、それ単独で独立して存在しているのではなく、無数の原因(因)と条件(縁)が相互に依存し合って、初めて成り立っている、ということを意味します。
ここに一杯のお茶があるとします。このお茶は、ただ「お茶」として、ぽつんと存在しているわけではありません。この一杯のお茶が存在するためには、茶葉を育てた太陽の光、雨、豊かな大地が必要です。農家の人の労働、それを運び、加工し、販売する人々の尽力も欠かせません。さらには、お湯を沸かすための水、火、そして、あなたが今使っている湯呑み。その湯呑みもまた、陶工の技術や土、窯といった無数の因縁によって成り立っています。このように見ていくと、このささやかな一杯のお茶の中には、宇宙の森羅万象が凝縮されていることが分かります。そして、そのお茶を飲んでいる「私」自身もまた、両親、祖先、食べた物、吸っている空気、読んだ本、出会った人々といった、無限のネットワークの一部として、今この瞬間に存在しているのです。
この「縁起」の理は、インド哲学におけるアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(非二元論)の思想とも深く響き合います。そこでは、個人の本質であるアートマン(個我)と、宇宙の根本原理であるブラフマン(宇宙我)は、究極的には同一である(梵我一如)と説かれます。あなたが感じている「私」という分離した意識は、大海に浮かぶ波のようなもの。波は一時的に個別の形をとっていますが、その本質は海そのものであり、海から離れて存在することはできません。私たちは皆、同じ一つの生命の海から生まれた、異なる現れの波なのです。
この深遠な真理を、私たちはどう日常に活かせばよいのでしょうか。それは、世界を見る「解像度」を上げ、あらゆるものごとの背後にある「繋がり」に意識を向ける稽古から始まります。
食事をする時、ただ空腹を満たすための作業としてではなく、目の前の食べ物が、どれだけ多くの生命や人々の手を経て、今ここに在るのかに思いを馳せ、感謝する。
誰かとの間に摩擦が生じた時、相手を「敵」として断罪するのではなく、「この人もまた、私と同じように幸福を願い、苦しみを避けようとしている、繋がりの網の一部なのだ」と、共通の基盤を思い出す。
環境問題や社会問題のニュースに触れた時、それを「遠い国の他人事」として切り捨てるのではなく、その問題が巡り巡って自分の生活と無関係ではない、「自分事」として捉える視点を持つ。
ほんの少し、現代科学の知見を借りるなら、量子力学における「量子もつれ(エンタングルメント)」という現象は、この縁起の思想の美しいメタファーとなります。一度相互作用した二つの粒子は、たとえ銀河の果てまで引き離されたとしても、片方の状態が確定すると、もう片方の状態も瞬時に確定するという、不思議な相関関係を保ち続けます。これは、私たちの目に見えるレベルでは分離しているように見えるものも、より深いレベルでは、時空を超えて繋がっている可能性を示唆しているかのようです。
「すべての存在は繋がっている」という理解は、私たちを孤独感や無力感から解放してくれます。あなたは決して、広大な宇宙に一人でぽつんと存在する、無力な存在ではありません。あなたは、生命の壮大なタペストリーを織りなす、かけがえのない一本の糸なのです。あなたの喜びは全体の喜びとなり、あなたの癒しは全体の癒しとなります。あなたの放つ思考、言葉、行動の一つひとつが、見えない網の目を伝わって、宇宙の隅々にまで波紋を広げていくのです。
この大いなる繋がりを実感すること。それこそが、慈悲や思いやり、そして無条件の愛の源泉です。そして、この一体感の中に安らぐ時、あなたは宇宙の無限の豊かさとシンクロし、必要なものはすべて、然るべき時に、然るべき形で、あなたの元へと引き寄せられてくることを知るでしょう。なぜなら、あなたはもはや何かを「外から」引き寄せようとするのではなく、すでにすべてを含んでいる「全体」そのものだからです。


