ヤマ(禁戒)の二番目に掲げられる「サティヤ(Satya)」は、一般に「正直」「真実」と訳されます。アヒンサー(非暴力)という大きな土台の上に、私たちはこのサティヤという柱を打ち立てていくことになります。それは、単に「嘘をついてはいけない」という道徳的な戒律に留まるものではありません。サティヤの語源である「サット(Sat)」は、サンスクリット語で「存在」「実在」「真理」を意味します。つまりサティヤとは、宇宙の根本的な真理に根ざして生きる、という壮大な生き方の指標なのです。
ウパニシャッド哲学では、「ブラフマン(宇宙を貫く根本原理)」と「アートマン(個の中に宿る真我)」は究極的に同一である(梵我一如)と説かれます。これがインド思想における根源的な「真理(サット)」です。サティヤの実践とは、この内なる真我、すなわち「本当の自分」と調和して生きることを目指す旅路と言えるでしょう。
この観点から見ると、サティヤにおける最も重要で、そして最も困難な実践は、他者に対してではなく、まず「自分自身に対して正直である」ということです。
私たちは日々、無数の小さな嘘を自分についています。本当は疲れていて休みたいのに、「期待に応えなければ」と無理をする。本当は嫌なのに、「和を乱したくない」と笑顔で同意する。心の奥底では「やりたいこと」が叫んでいるのに、「どうせ無理だ」と聞こえないふりをする。これら一つひとつは些細なことかもしれません。しかし、この自己への不正直が積み重なる時、私たちは次第に自分の本心が何であるかを見失い、魂の羅針盤を曇らせてしまうのです。まるで、サイズの合わない窮屈な靴を履き続けて、足が変形してしまうように、私たちの心も歪み、本来の輝きを失っていきます。
自分に嘘をつかない、とは、自分の内側に存在する光も影も、強さも弱さも、すべてをありのままに認め、受け入れる勇気を持つことです。嫉妬や怒りといった、社会的に「ネガティブ」とされる感情が湧き上がってきた時、それを無いものとして抑圧するのではなく、「ああ、今、私は嫉妬しているのだな」と、静かに認めてあげる。それが、自分への正直さの第一歩です。
もちろん、サティヤは他者との関係においても重要です。しかし、そこには常にアヒンサー(非暴力)という大原則が適用されなければなりません。ヨガの賢者たちは、「たとえ真実であっても、それが相手を不必要に傷つけるのであれば、語られるべきではない」と教えます。真実を武器のように振りかざすのは、サティヤではなく、エゴの自己満足に過ぎません。真に智慧のある人は、何を語るかだけでなく、いつ、どのように語るか、そして、いつ沈黙を守るべきかを心得ています。
引き寄せの法則は、あなたの放つ「意図」の明確さと純粋さに強く作用します。自分に嘘をつき、本当の望みをごまかしている状態では、宇宙に送るオーダーが曖昧模糊としたものになってしまいます。「本当は何が欲しいのか分からない」という状態では、宇宙も何を届ければよいのか分かりません。自分に正直であることは、自分の魂が真に望むものを明確にし、引き寄せの力を一点に集中させるための不可欠なプロセスです。
自分に正直に生きる道は、時に孤独を感じさせたり、他者との摩擦を生んだりするかもしれません。しかし、その先には、何ものにも代えがたい「自分を生きている」という深い充足感と、魂の自由が待っています。今日、あなたの心が微かに発している声に、少しだけ耳を傾けてみてください。その小さな真実の囁きを拾い上げることが、本当のあなた自身へと還る、偉大な旅の始まりとなるのです。


