アヒンサー(非暴力)の探求は、外界への行為、他者への言葉という領域を超え、さらに微細で根源的な領域、すなわち私たちの「思考」そのものへと至ります。ヨーガ・スートラの冒頭で、ヨガは「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(citta-vṛtti-nirodhaḥ)」、すなわち「心の作用を止滅すること」と定義されます。これは、私たちの苦しみの多くが、外界の出来事そのものではなく、それに対する私たちの心の反応、つまりコントロール不能な思考の波によって生み出されることを喝破したものです。
そして、その無数に生じては消える思考の中でも、最も根深く私たちを傷つける暴力的な作用が「自己批判」です。
私たちは、自分以外の誰かから批判されることには敏感に反応し、傷つきます。しかし、自分自身の内側から発せられる批判の声に対しては、あまりにも無防備であり、それをあたかも揺るぎない真実であるかのように受け入れてしまいがちです。「お前は能力が低い」「誰もお前を愛さない」「また失敗するに決まっている」。この内なる裁判官の声は、時にどんな他者の言葉よりも冷酷で、執拗です。それは、私たちの自己価値という名の城壁を内側から崩していく、静かなる破壊活動に他なりません。
なぜ私たちは、これほどまでに自分を責めてしまうのでしょうか。その起源は、幼少期に親や教師といった権威から受けた批判を内面化したものであるかもしれません。あるいは、社会の「かくあるべし」という規範に自分を当てはめようとする完璧主義の現れかもしれません。いずれにせよ、その声は「本当のあなた」の声ではないのです。それは、過去の経験から生まれた、あなたを守ろうとする防衛機制が暴走したエゴの囁きに過ぎません。
では、この内なる刃を、どうすれば収めることができるのでしょうか。
第一歩は、その声と自分自身を「同一化」するのをやめることです。マインドフルネスの実践がここで光を放ちます。自己批判的な思考が浮かび上がってきた時、それに飲み込まれるのではなく、一歩引いて、それを観察するのです。「ああ、今、自己批判の思考が湧いてきたな」と、まるで空に浮かぶ雲を眺めるように、客観的に認識します。思考はあなた自身ではなく、あなたの心に現れた一時的な現象に過ぎない、という距離感を育むことが極めて重要です。
次に、その批判のエネルギーを、慈悲のエネルギーで包み込む実践へと移ります。それが仏教の伝統に伝わる「慈悲の瞑想(メッター瞑想)」です。まずは、自分自身に対して、心からの慈しみの言葉を捧げます。「私が、幸せでありますように。私が、健やかでありますように。私が、安らかでありますように」。最初は違和感があるかもしれません。しかし、乾いた大地に水を注ぎ続けるように、この言葉を繰り返し自分に与えることで、自己批判によって固く閉ざされた心の土壌は、次第に柔らかさを取り戻していくでしょう。
引き寄せの法則は、私たちの深層意識にある「信念(ビリーフ)」に強く反応します。いくら口先で「豊かになりたい」と唱えても、心の奥底で「私にはその価値がない」という自己批判の声が鳴り響いていれば、宇宙は後者の、より強力な信号をキャッチします。そして、「価値がないあなた」にふさわしい現実、すなわち欠乏や失敗をあなたのもとへ届けるのです。
内なる刃を収めること。それは、自分自身との間に和平協定を結ぶことに他なりません。自己批判に使っていた膨大なエネルギーを、自己受容と自己肯定のために使うと決意すること。その時、あなたの内なる世界に平和が訪れます。そして、内なる平和こそが、外なる世界に調和と豊かさを映し出す、唯一無二の鏡なのです。


