アヴィディヤー(無明)という肥沃な大地から最初に芽を出す、最も強力な苦悩の芽。それが「アスミター(Asmitā)」です。『ヨーガ・スートラ』が説く五つのクレーシャ(煩悩)の二番目に数えられるこの言葉は、一般に「我執(がしゅう)」と訳されます。「私が、私が」というエゴの感覚であり、「私とはこういう人間である」という自己イメージへの強固な執着を意味します。
パタンジャリはアスミターを「観る力(プルシャ)と観る道具(知性など)が、あたかも同一であるかのように見えること」(ヨーガ・スートラ2章6節)と定義しています。これは、前述の「私は誰か?」のテーマとも深く関わります。私たちの本質は、純粋な意識である「観る者(プルシャ)」です。しかし私たちは、思考や感情を生み出す心(チッタ)や、物事を判断する知性(ブッディ)といった「観るための道具」と自分自身を完全に一体化させてしまっています。テレビ画面に映る悲しいドラマを見て、自分がテレビそのものだと思い込んでいるような状態。これがアスミターの正体です。
このアスミターという名のクレーシャは、私たちの日常のあらゆる場面に、実に巧妙な形で潜んでいます。
「私は医者だから、常に冷静沈着でなければならない」
「私は母親だから、自己犠牲も厭わないはずだ」
「私は内向的な性格だから、人前で話すのは無理だ」
「私は過去に大きな失敗をしたから、もう挑戦する資格はない」
これらはすべて、私たちが自分自身について紡ぎ出した「物語」です。そして、私たちはこの物語の登場人物として、その脚本通りに生きようとします。この物語が、私たちの可能性を規定し、行動を制限し、感情を支配するのです。「医者である私」という物語は、弱さを見せることを許さず、感情を抑圧させます。「内向的な私」という物語は、新たな挑戦の機会から私たちを遠ざけます。
アスミターは、ポジティブな自己イメージにも同様に潜んでいます。「私は仕事ができる人間だ」という物語に執着すれば、一度の失敗が自己の全否定に繋がり、過剰なプレッシャーを生み出します。「私は親切な人間だ」という物語にしがみつけば、他人に「ノー」が言えず、自分の境界線を見失ってしまうでしょう。良い物語であれ、悪い物語であれ、特定の「私」という物語に自分を閉じ込めてしまうこと、それ自体がアスミターの働きであり、不自由さの源泉なのです。
私たちの社会は、このアスミターを強化する仕組みに満ちています。私たちは名前を与えられ、国籍を付与され、学歴や職歴といったラベルを貼られ、SNSで「いいね」の数を競い合うことで、「私」という輪郭を必死で固めようとします。確固たる「私」がなければ、この不安定な世界で生きていけないかのように。しかし、ヨガの叡智は逆のことを示唆します。その固められた輪郭こそが、あなたを苦しめる牢獄の壁なのだ、と。
このアスミターという視点から「引き寄せの法則」を眺めると、非常に興味深いことが見えてきます。多くの人が引き寄せに失敗する最大の理由の一つが、このアスミターにあります。例えば、「私はお金に縁がない」という強固な物語(アスミター)を内面に抱えたまま、「豊かさを引き寄せたい」と願っても、それはアクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものです。意識の表層では豊かさを求めていても、無意識の奥深くにある「お金に縁がない私」という自己規定が、豊かさの流れを強力にブロックしてしまうのです。現実は、私たちが頭で願うことよりも、私たちが心の底から「自分は何者であるか」と信じていること(アスミター)を、忠実に映し出す鏡だからです。
では、このがんじがらめの「私」という物語から、どうすれば自由になれるのでしょうか。その鍵は、「物語を消し去る」ことではなく、「自分は物語の作者であり、読者でもある」という視点に立つことです。
瞑想の実践は、このための優れた稽古場となります。座って静かに内側を観察していると、「私は退屈だ」「足が痛い」「集中できない私はダメだ」といった、様々なミニストーリーが湧き上がってきます。その時、その物語に没入するのではなく、一歩引いて、「ああ、今、『私はダメだ』という物語が上映されているな」と、まるで映画を観るように眺めてみるのです。その瞬間、あなたは物語の登場人物から、観客席に座る観照者へとシフトします。
この観照者の視点こそ、アスミターを溶かす光です。自分が何者であるかを固定化するのではなく、あらゆる可能性に対して開かれた「スペース(空間)」として、自分自身を感じ始める。あなたはそのスペースの中で、様々な役割を演じ、様々な感情を体験し、様々な物語を紡ぐことができる、自由な存在なのです。
引き寄せたい現実があるのなら、まずは、それを妨げている自分の内なる物語(アスミター)は何かを、正直に見つめてみましょう。そして、その古い脚本を書き換える許可を、自分自身に与えるのです。「お金に縁がない私」から、「豊かさの流れを受け取る価値のある私」へ。「愛される資格のない私」から、「無条件の愛そのものである私」へ。
アスミターからの解放とは、無個性になることではありません。むしろ、固定化された一個のキャラクターであることをやめ、無限の役柄を演じられる、変幻自在の名優になること。それこそが、人生という舞台を最高に楽しむための秘訣であり、望む現実を軽やかに創造していくための、本当の力となるのです。


