「非暴力(non-violence)」という言葉を聞いて、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。多くの方は、インド独立の父マハトマ・ガンディーの顔や、彼が率いた塩の行進、あるいはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の公民権運動といった、20世紀の歴史を大きく動かした社会的な抵抗運動を連想するかもしれません。それは、抑圧的な権力に対し、武器を持たずに正義を訴える、力強く、そして崇高な人間の営みとして私たちの記憶に刻まれています。
しかし、この「非暴力」という思想の、さらに深く、古く、そして静かな源流を辿っていくと、私たちは古代インドの厳しい精神文化の中に、ある特異な思想体系と出会うことになります。それが、本書で探求するジャイナ教であり、その教えの中心に、太陽のように、あるいは北極星のように不動の位置を占める大原則、**アヒンサー(Ahiṃsā)**です。
ジャイナ教におけるアヒンサーは、単なる政治的戦略や社会倫理にとどまるものではありません。それは、宇宙の構造そのものへの深い洞察から生まれた、魂の解脱を目指すための最も根源的な実践であり、形而上学的な真理の探求そのものなのです。それは、思考のささやきから、歩行という身体的な振る舞いに至るまで、生きることのすべてを律する、静かなる、しかし徹底した革命の思想と言えるでしょう。この講では、ジャイナ教が育んだアヒンサーという壮大な思想の深淵を覗き込み、その哲学的基盤、具体的な実践、そして現代に生きる私たちに投げかける問いについて、共に考察していきたいと思います。
もくじ.
アヒンサーとは何か:言葉の奥にある深い意味
まず、アヒンサーという言葉そのものから、その思想の核心に迫ってみましょう。サンスクリット語の「アヒンサー」は、否定の接頭辞である「ア(a-)」と、「暴力、殺意、傷つけたいという欲望」を意味する名詞「ヒンサー(hiṃsā)」が組み合わさってできています。直訳すれば「不・傷害」あるいは「不・殺生」となります。
しかし、この単純な訳語だけでは、その射程の広さを見誤ってしまうかもしれません。ジャイナ教において、ヒンサー(暴力)とは、単に他者の肉体を物理的に傷つける行為だけを指すのではありません。それは、**思考(マナス, manas)、言葉(ヴァチャナ, vacana)、身体(カーヤ, kāya)**という、人間の全活動領域にわたって戒められるべきものとされます。つまり、心の中で他者への害意を抱くこと、口先で他者を傷つける言葉を発すること、そして身体的な行為によって他者に危害を加えること、そのすべてが「暴力」なのです。
したがって、アヒンサーとは、物理的な不加害に留まらず、「他者を傷つけようと意図しない」という心の純粋な状態を保ち続けることを意味します。それは、怒り、憎しみ、傲慢、欺瞞といった、暴力の源泉となる心の働きそのものを制御しようとする、極めて内面的な実践なのです。
さらに、ジャイナ教のアヒンサーを真に特徴づけるのは、その対象範囲の広大さです。多くの倫理体系が人間同士の関係性を中心に据えるのに対し、ジャイナ教のアヒンサーは、その慈悲の眼差しを、人間以外のあらゆる生命へと注ぎます。動物はもちろんのこと、植物、さらには私たちの目には見えない水や空気、土の中に存在する無数の微小な生命体に至るまで、そのすべてがアヒンサーの対象となるのです。
これは、現代的な言葉で言えば、徹底した**生命中心主義(biocentrism)**と呼べるでしょう。人間を万物の霊長とする人間中心主義(anthropocentrism)的な世界観とは一線を画し、あらゆる生命が等しく尊重されるべき存在であると捉える。このラディカルなまでの平等性の思想こそ、ジャイナ教のアヒンサーを理解する上で、決して忘れてはならない基盤となります。
ジャイナ教におけるアヒンサーの哲学的基盤
では、なぜジャイナ教は、これほどまでに徹底した非暴力を説くのでしょうか。その答えは、彼らの独特な宇宙観とカルマ論の中にあります。それは、私たちの日常的な感覚からは少し飛躍しているように思えるかもしれませんが、極めて論理的で体系的な構造を持っています。
ジャイナ教の哲学では、この宇宙は根本的に二つのカテゴリーから構成されると考えます。一つはジーヴァ(jīva)、もう一つは**アジーヴァ(ajīva)**です。
ジーヴァとは、生命、魂、あるいは意識を持つ実体のことです。人間や動物、神々はもちろん、植物、さらには火、水、風、土といった元素にさえ、固有のジーヴァが宿っていると考えます。驚くべきことに、私たちの目には見えない大気中ですら、**ニゴーダ(nigoda)**と呼ばれる無数の微小生命体がひしめき合っているとされます。宇宙は、文字通り生命で満ち満ちているのです。すべてのジーヴァは、本質的に、無限の知(ananta-jñāna)、無限の見(ananta-darśana)、無限の力(ananta-vīrya)、そして無限の楽(ananta-sukha)という四つの完全性を備えた、純粋で輝かしい存在であるとされます。
一方、アジーヴァは、生命も意識も持たない非生命的な実体です。空間、時間、運動の原理、静止の原理、そして「物質(プドガラ, pudgala)」などがこれに含まれます。
ここできわめて重要になるのが、ジャイナ教における**カルマ(業)の捉え方です。仏教やヒンドゥー教においてカルマが「行為とその結果の法則」という、どちらかといえば抽象的な原理として理解されるのに対し、ジャイナ教では、カルマは微細な物質(カルマ物質)**として捉えられます。これはアジーヴァの一種であり、私たちの魂(ジーヴァ)にまとわりつき、その本来の輝きを覆い隠してしまう、いわば「魂の垢」のようなものなのです。
私たちの魂が、怒りや憎しみ、欲望といった情念(カシャーヤ, kaṣāya)に動かされて、思考、言葉、身体による行為を行うとき、宇宙に漂っているカルマ物質が磁石に砂鉄が引き寄せられるように魂に流入し、固く付着してしまう。これが、私たちが輪廻転生を繰り返し、苦しみから逃れられない原因であると説明されます。
この哲学的基盤の上に立つとき、アヒンサーの重要性は自ずと明らかになります。暴力(ヒンサー)こそが、最も重く、粘着質の高いカルマ物質を魂に付着させる最悪の行為なのです。他者の生命を奪うことは、その生命が本来持つ可能性を断ち切るだけでなく、自らの魂を最も汚し、解脱(モークシャ)から最も遠ざける行為に他なりません。解脱とは、この魂に付着したすべてのカルマ物質を払い落とし(ニルジャラー, nirjarā)、新たなカルマの流入を防ぎ(サンヴァラ, saṃvara)、魂が本来の純粋で完全な状態を取り戻すこと。そのために、アヒンサーの実践は、何よりも優先されるべき絶対的な要請となるのです。
アヒンサーの具体的な実践:日常に宿る聖性
この厳格な哲学は、ジャイナ教徒、とりわけ出家者(サードゥやサードヴィと呼ばれる男女の修行者)の日常生活の中に、驚くべき形で具体化されています。彼らの生活は、アヒンサーというレンズを通して見るとき、単なる奇行ではなく、宇宙の真理に基づいた、細心の注意と慈悲に満ちた営みとして立ち現れてきます。
出家者が守るべき**五つの大誓戒(マハーヴラタ, mahāvrata)**の中でも、アヒンサーは第一に掲げられます。その実践は、私たちの想像を絶するほど徹底しています。
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歩行:彼らは、道を歩く際に、微小な昆虫や生命を踏み殺してしまわないよう、鳥の羽などで作られた柔らかな**箒(ラジョーハラナ, rajoharaṇa)**を携え、足元を優しく掃き清めながら進みます。一歩一歩が、自らの魂の浄化と、足元の小さな生命への配慮が一体となった、瞑想的な行為なのです。
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食事:自ら調理することは、火を使うことで火の中にいる生命を傷つけ、調理の過程で多くの生命を奪うため、固く禁じられています。彼らは托鉢によってのみ食事を得ますが、その際にも、日のあるうちに調理されたもの、自分のために特別に用意されたものではないもの、といった厳しい規則に従います。ジャガイナ(球根植物)や根菜類は、それを収穫することが植物全体の生命を奪うことになるため、口にしません。
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発話:多くの出家者は、**口を覆う布(ムハパッティ, muhpattī)**を着用しています。これは、話す際の呼気に含まれる熱で空気中の微小生命を傷つけたり、唾液に含まれる微生物を殺してしまったりすることを防ぐためです。また、他者を傷つける言葉や無益なおしゃべりを慎むという、言葉の暴力(ヴァチャナ・ヒンサー)を避けるための象徴でもあります。
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生活全般:水を飲む際には、布で濾してから飲みます。これは、水中の生命を殺さないようにするためであり、濾した後に布に残った生命は、再び元の水源にそっと戻されます。夜間の移動や食事は、暗闇で生命を傷つける可能性が高まるため、原則として行いません。
在家信者もまた、**五つの小誓戒(アヌヴラタ, aṇuvrata)**の第一としてアヒンサーを実践します。出家者ほど厳格ではありませんが、その精神は日常生活の隅々にまで浸透しています。
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職業選択:農業(土を耕す際に多くの生命を傷つけるため)、屠殺業、軍事、武器製造など、暴力に直接的・間接的に関わる職業は避けられます。このことが、歴史的にジャイナ教徒が商業や金融業、宝石商といった分野で活躍する一つの社会的背景となっています。
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食事:厳格な菜食主義が基本です。多くは乳製品を摂るラクト・ヴェジタリアンですが、より厳格な信者は、現代のヴィーガンのように乳製品も避けます。また、ハチの巣を壊して採取されるハチミツや、内部で虫が繁殖しやすいイチジクのような果物も避けることがあります。
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祭祀:ヴェーダの伝統に見られたような動物供犠は、最も忌むべき行為として完全に否定されます。
これらの実践は、ジャイナ教徒にとって、単なる我慢や禁止事項のリストではありません。それは、自らの魂を浄化し、宇宙に遍満するあらゆる生命への慈悲と共感を育むための、積極的で創造的な道なのです。
アヒンサーの思想史的展開と影響
ジャイナ教とほぼ同時期に、マガダ国を中心としたガンジス川中流域では、仏教をはじめとする新しい思想が次々と花開きました。これらの思想潮流は、旧来のバラモン教の儀礼主義や権威主義に疑問を投げかけ、個人の主体的な実践による解脱を説いた点で共通しています。
アヒンサーの理念もまた、ジャイナ教だけでなく、仏教や後のヒンドゥー教にも大きな影響を与えました。仏教では、在家信者が守るべき五戒の第一に「不殺生(パーリ語:pāṇātipātā veramaṇī)」が挙げられます。しかし、その捉え方にはジャイナ教との間に重要な違いがあります。仏教では、行為の善悪を決定する上で**「意図(セータナー, cetanā)」**が極めて重視されます。したがって、意図せず誤って生命を傷つけてしまった場合の罪は、意図的な殺生に比べて格段に軽いとされます。一方のジャイナ教では、意図の有無にかかわらず、暴力行為そのものが魂にカルマ物質を付着させると考える傾向が強く、この哲学的な違いが、実践における厳格さの差となって現れています。
ヒンドゥー教においても、アヒンサーの思想は徐々に浸透していきました。ヴェーダ時代には盛んであった動物供犠は、ジャイナ教や仏教の批判を受け、次第にその影を潜めていきます。第4講で詳述するヨーガ哲学においても、実践の第一段階である**ヤマ(禁戒)**の筆頭にアヒンサーが置かれ、『ヨーガ・スートラ』では「アヒンサーが確立されるとき、その人の近くでは、すべての敵意が捨て去られる」(2章35節)と、その偉大な力が説かれています。
そして、近現代においてアヒンサーの思想を最も力強く体現し、世界史の舞台に押し上げたのが、マハトマ・ガンディーです。彼が育ったインド西部のグジャラート州は、古くからジャイナ教の影響が色濃い地域でした。ガンディーの非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の思想は、このジャイナ教のアヒンサーの精神を、自己の解脱という内面的な目的から、インドの独立という政治的・社会的な変革の能動的な原理へと昇華させたものと言えます。ただし、そこには自己犠牲や敵対者への愛といったキリスト教的な要素も融合しており、古代インドの思想が現代的な課題に応答する形で、新たな生命を吹き込まれた事例として非常に興味深いものです。
現代社会におけるアヒンサーの意義:静かなる警鐘
さて、この古代インドで育まれた徹底した非暴力の思想は、21世紀の複雑な現代社会を生きる私たちに、どのようなメッセージを投げかけているのでしょうか。ジャイナ教の出家者のように生活することは、ほとんどの人にとって非現実的かもしれません。しかし、その根底に流れる精神は、私たちが直面する多くの課題に対して、深く、そして静かな警鐘を鳴らしているように思えます。
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環境倫理としてのアヒンサー:気候変動、生物多様性の損失、資源の枯渇。これらの問題の根源には、自然を支配し、搾取する対象と見なす人間中心主義的な世界観があります。これに対し、ジャイナ教の生命中心主義的な思想は、地球を生命共同体として捉え直し、人間もその一員に過ぎないという謙虚な視点を与えてくれます。あらゆる存在にジーヴァが宿るという世界観は、現代のエコロジー思想や環境倫理が探求するテーマと深く共鳴するものです。
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動物倫理と食の問題:工業化された畜産システム(ファクトリーファーミング)や動物実験など、現代社会は、見えないところで大規模な動物への暴力を構造的に内包しています。私たちが何を食べるか、何を買うかという日常的な選択が、遠い場所での暴力に加担しているかもしれない。ジャイナ教のアヒンサーは、食という最も基本的な営みを通して、私たちと他の生命との関係性を問い直すことを迫ります。ヴィーガニズムや菜食主義が広がりを見せる現代において、その選択の背後にある倫理的な深みを与えてくれるでしょう。
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心の平穏とウェルビーイング:アヒンサーは、外的な暴力だけでなく、内的な暴力も戒めます。SNSで安易に投じられる誹謗中傷の言葉、他者への批判や嫉妬、そして自分自身に向けられる過度な自己否定。これらもまた、自他の魂を傷つけ、カルマの汚れを増やす「暴力」です。思考と言葉のレベルでアヒンサーを実践することは、絶え間ない情報と刺激に晒される現代人の心を静め、内なる平穏を育むための重要な知恵となり得ます。それは、身体の微細な感覚に意識を向け、心の揺らぎを観察するヨーガの実践とも深く通じ合っています。
結び:アヒンサーという名のレンズ
ジャイナ教のアヒンサーは、単なる道徳律や禁止事項の集積ではありません。それは、世界を、そして自己を捉え直すための、一つの強力な「レンズ」のようなものです。
普段、私たちが効率や利便性を優先して見過ごしている世界の姿。その世界を、アヒンサーというレンズを通して覗き込むとき、そこには全く異なる風景が広がります。道端に咲く一輪の草花が、アスファルトの隙間から顔を出す雑草が、一杯の水が、そして目の前にいる他者が、かけがえのない生命(ジーヴァ)の輝きを宿した、尊い存在として立ち現れてくる。他者を傷つけることが、巡り巡って自分自身の魂を傷つけることであるという、宇宙的な因果律が見えてくるのです。
この古代の叡智を、現代の私たちがそのままの形で受け入れることは難しいかもしれません。しかし、その挑戦的な問いかけに耳を傾ける価値は十分にあります。私たちの思考は、言葉は、そして日々の選択は、本当に非暴力的だろうか。私たちは、目に見えるもの、見えないものを含め、この世界に満ちる無数の生命と、どのように関わっていくべきなのだろうか。
アヒンサーの探求は、私たちを自己の内面へと深く導き、同時に、この世界のあらゆる生命とのつながりを再発見させてくれる旅路です。その旅は、ジャイナ教の聖者が歩む厳格な道とは異なるかもしれませんが、私たち一人ひとりの日常の中に、ささやかな、しかし確かな慈悲の光を灯してくれるに違いありません。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






