私たちの生きる現代社会は、無限とも思える情報と選択肢に溢れています。日々、何を食べ、何を着て、何を信じ、どのように生きるべきか、私たちは絶え間ない問いに晒されているかのようです。その喧騒の中で、心の静けさや、揺るぎない生き方の指針を見出すことは、時として困難を極めます。
インドの思想の広大な大地に目を向けると、そこに一つの極めて厳格で、しかし純粋な光を放つ道が見えてきます。それが、ジャイナ教の教えです。特にその核心にある「三宝(トリラトナ)」は、混沌とした現代を生きる私たちにとって、自己の内なる羅針盤を再発見するための、深遠なヒントを与えてくれるかもしれません。
ジャイナ教における「三宝」とは、解脱(モークシャ)へと至るための三つの必須要素、すなわち**「正信(サミャク・ダルシャナ)」「正知(サミャク・ジュニャーナ)」「正行(サミャク・チャリトラ)」**を指します。これは、仏教における三宝(仏・法・僧)が帰依の対象であるのとは少し趣を異にし、解脱への「道そのもの」を示す、より実践的な指針です。これら三つは個別に存在するのではなく、一つの宝石が持つ三つの輝かしい側面のように、互いに不可分に結びつき、一体となって初めてその真価を発揮します。
この三つの宝は、魂がカルマという塵に覆われた状態から、本来の輝きを取り戻していくための、具体的かつ体系的なプロセスを示しています。それは、あたかも暗闇の航海において、まず向かうべき灯台の存在を確信し(正信)、次にその灯台へ至るための正確な海図を読み解き(正知)、そして実際に櫂を漕ぎ、帆を上げて進んでいく(正行)旅路のようなものです。この講では、この三つの宝を一つひとつ丁寧に紐解きながら、その厳格な倫理と苦行の奥にある、普遍的な智慧を探求していきましょう。
もくじ.
第一の宝:正信(サミャク・ダルシャナ)- 確固たる信念の礎
すべての旅は、最初の一歩から始まります。しかし、その一歩を踏み出すためには、まず「進むべき方向が確かにある」と信じる心が必要です。ジャイナ教の解脱への道もまた、「信じる」ことから始まります。それが第一の宝、**正信(サミャク・ダルシャナ)**です。
ここでいう「信」とは、決して盲目的な信仰や、根拠のない思い込みではありません。ダルシャナという言葉は「見ること」を意味し、サミャクは「正しい」を意味します。つまり正信とは、ジャイナ教が説く真理、特に世界の成り立ちや魂の本質に関する教えを、偏見や疑いなく、ありのままに「観る」こと、そしてそれに対する合理的で揺るぎない確信を抱くことを指します。それは、論理的な探求や内省を経てたどり着く、知的な納得を伴う信念なのです。
では、何を信じるのでしょうか。ジャイナ教の伝統によれば、正信の対象は主に以下のものとされます。
-
ティールタンカラ(祖師)の教え:ジャイナ教の道を完成させ、人々に説いた24人の偉大な祖師たちの言葉は、真理そのものであるという確信。
-
ジャイナ教の聖典(アーガマ):ティールタンカラの教えが記された文献への信頼。
-
九つの実在(タットヴァ):ジャイナ哲学の根幹をなす、世界を構成する九つの根本的な要素(魂、非魂、善業、悪業、カルマの流入、束縛、停止、滅尽、解脱)が、実在の正しい説明であるという理解と確信。
なぜ、この「信」が道の始まりに置かれているのでしょうか。それは、私たちの認識や行動が、根底にある世界観や価値観によって方向づけられるからです。もし私たちが、自分の進むべき道の正しさを信じていなければ、途中で出会う困難や誘惑に容易く道を外れてしまうでしょう。正しい地図を持っていても、その地図自体を信用できなければ、私たちは一歩も前に進めません。正信は、これから続く「知」の探求と「行」の実践を支える、堅固な土台となるのです。
この構造は、現代社会を生きる私たちにも深く関わってきます。私たちは情報という洪水の中に生きていますが、その情報を意味のある知識や行動へと転換するためには、まず自分なりの「信じるに足る軸」を持たねばなりません。それは、他者から与えられた価値観ではなく、自らが吟味し、納得した上で築き上げる内的な座標軸です。ジャイナ教の正信は、そのような自己の生き方の根幹を主体的に確立することの重要性を、静かに、しかし力強く教えてくれているように思えます。
第二の宝:正知(サミャク・ジュニャーナ)- 世界をありのままに観る智慧
確固たる信念という土台が築かれたなら、次はその上に、世界の構造を正しく理解するための知識の館を建てていく番です。それが第二の宝、**正知(サミャク・ジュニャーナ)**です。
正知とは、正信に基づいて得られる、魂(ジーヴァ)と非魂(アジーヴァ)、そして両者を結びつけるカルマの法則に関する、詳細かつ偏りのない正しい知識を指します。これは単なる情報の集積ではありません。それは、世界の森羅万象をジャイナ教の宇宙観の枠組みの中で整理し、物事の本質をありのままに見抜く智慧(wisdom)へと昇華された知識です。
正信が「何を信じるか」という方向性を示すコンパスであるならば、正知はそのコンパスを手に、世界という広大な地図を詳細に読み解く能力と言えるでしょう。この二つは密接に結びついており、ジャイナ教では「正信なくして正知なく、正知なくして正しい行いはない」と説かれます。信念がなければ知識は単なる雑学に過ぎず、智慧にはなりません。逆に、正しい知識がなければ、信念は独善的な思い込みに陥る危険性を孕んでいます。
ジャイナ教の認識論では、この正知を得るための手段として、五つの知識の段階が説かれています。
-
マティ・ジュニャーナ(感官知):五感と心(マナス)を通して得られる通常の認識。
-
シュルタ・ジュニャーナ(聞知・聖典知):聖典や師の言葉などを通して得られる知識。
-
アヴァディ・ジュニャーナ(遠隔知・天眼通):時間や空間の制約を超えて、物質的な対象を直接認識する超感覚的な知。
-
マナハパリヤーヤ・ジュニャーナ(他心知・他心通):他者の心を直接読み取る知。
-
ケーヴァラ・ジュニャーナ(完全知・絶対知):すべての制約から解放され、宇宙のあらゆる事象を時間と空間を超えて同時に、完全に認識する究極の知。
この五つの知識は、魂がカルマの束縛から解放されていく浄化のプロセスと連動しています。修行が進むにつれて、魂はより微細で広範囲なものを認識できるようになり、最終的にケーヴァラ・ジュニャーナを獲得したとき、その魂は全知者となり、解脱(モークシャ)を達成します。つまり、ジャイナ教において、究極の「知」は解脱そのものとほぼ同義なのです。
この正知の探求は、現代を生きる私たちに、知識との向き合い方を問い直させます。私たちはスマートフォン一つで膨大な情報にアクセスできますが、その情報が必ずしも「智慧」に繋がっているわけではありません。むしろ、断片的な情報に振り回され、物事の本質を見失いがちです。ジャイナ教の正知の概念は、単に知っていること(knowing that)ではなく、世界の構造と自己の存在を深く理解すること(knowing how/why)の重要性を教えてくれます。それは、情報を統合し、自己の生き方に活かすための、メタ認知的な能力の涵養を促すものと言えるでしょう。
第三の宝:正行(サミャク・チャリトラ)- 解脱へと至る実践
確かな信念を胸に、世界の真理を知ったとしても、それだけでは魂を縛るカルマの鎖を断ち切ることはできません。旅の目的地と地図を手に入れたなら、最後は実際に旅を始めなければならないのです。それが第三の宝であり、ジャイナ教の実践の核心、**正行(サミャク・チャリトラ)**です。
正行とは、正信と正知に基づいて行われる、魂をカルマの束縛から解放するための、あらゆる正しい行いを意味します。その目的は、新たなカルマの流入を防ぎ(サンヴァラ)、既に魂に付着しているカルマを滅尽させる(ニルジャラー)ことです。この実践の根幹をなすのが、**五大誓戒(マハーヴラタ)**と呼ばれる、出家修行者が守るべき五つの厳格な戒律です。
-
アヒンサー(非暴力・不殺生)
ジャイナ教の思想において、最も重要かつ根源的な戒律がアヒンサーです。これは単に人間や動物を殺さないというだけでなく、植物や微生物に至るまで、あらゆる生命体(ジーヴァ)を傷つけないことを意味します。なぜならジャイナ教では、すべての生命に等しく魂が宿ると考えるからです。
このアヒンサーの徹底ぶりは、ジャイナ教の出家修行者の姿に象徴的に現れています。彼らは、呼吸によって微小な生命を吸い込んで殺してしまわないように口元を布(ムハパッティ)で覆い、歩く際に足元の虫を踏み殺さないよう、孔雀の羽でできた箒(ラジョーハラナ)で道を掃き清めながら歩きます。食事も、日の出から日没までの間に済ませ、夜間には食事をしません。これは、暗闇では虫などを誤って殺傷してしまう危険性が高まるためです。
この戒律は、単なる物理的な行為に留まりません。心の中で他者への害意を抱くこと、言葉で他者を傷つけることもまた、ヒンサー(暴力)と見なされます。「心・言葉・体」の三つのレベルで、あらゆる暴力を根絶しようとする、徹底した生命尊重の思想がここにあります。 -
サティヤ(真実語)
嘘をつかず、常に真実のみを語るという戒律です。しかし、ジャイナ教におけるサティヤは、アヒンサーの原則に従属します。つまり、たとえ真実であっても、それが他者の生命を危険に晒したり、不必要に傷つけたりする場合には、沈黙を守ることが求められます。ここには、真実の追求よりも生命への慈悲を優先するという、ジャイナ教の倫理観の核心が見て取れます。心地よく、有益で、かつ真実である言葉だけを語ることが理想とされます。 -
アステーヤ(不盗)
与えられていないものを、たとえそれがどんなに些細なものであっても取らない、という戒律です。これは、他人の所有物を盗むという物理的な行為だけでなく、他人の時間やアイデア、信頼などを不当に奪うことも含みます。所有権の尊重は、他者の存在そのものを尊重することに繋がるという考え方が根底にあります。 -
ブラフマチャリヤ(不淫・梵行)
性的欲望を含む、あらゆる感覚的な快楽への執着を断ち切ることを目指す戒律です。出家修行者にとっては、完全な禁欲を意味します。感覚的な快楽は、魂を外界に縛りつけ、カルマの流入を招く主要な原因の一つと見なされます。この戒律を守ることは、心を内面へと向け、魂本来の純粋な状態を取り戻すための重要なステップです。 -
アパリグラハ(不所有・無執着)
物質的な所有を最小限にし、物や人、地位など、あらゆるものへの執着を捨てるという戒律です。ジャイナ教では、所有すること自体が、それを守るための心配や、失うことへの恐怖、他者との争いといった形で、内的な暴力(ヒンサー)を生み出すと考えます。出家修行者は、衣服と托鉢の器など、生命維持に最低限必要なもの以外は何も所有しません。この無所有の精神は、物質的な豊かさではなく、内的な自由に真の幸福を見出すという、ジャイナ教の価値観を色濃く反映しています。
これらの五大誓戒は、在家信者にとっては、より実践可能な形に緩和された**五小誓戒(アヌヴラタ)**として守られます。例えば、アヒンサーは職業上の殺生を避け、菜食を実践すること、ブラフマチャリヤは配偶者以外との性的関係を持たないこと、アパリグラハは所有欲を制限すること、といった具合です。
さらに、正行の重要な要素として苦行(タパス)があります。タパスとは「熱」を意味する言葉で、自らに課す厳しい修行によって、過去に蓄積したカルマを焼き尽くすための積極的な浄化行為です。これは決して自己を罰するためのマゾヒスティックな行為ではありません。断食や特定の姿勢を保ち続けるといった外的苦行と、懺悔、謙譲、瞑想、聖典学習といった内的苦行があり、これらを通じて魂の浄化を加速させ、解脱へと近づいていくのです。
三宝の統合と現代的意義
ここまで見てきたように、ジャイナ教の三宝、すなわち正信、正知、正行は、それぞれが独立した要素ではなく、三位一体となって解脱への道を構成しています。信じる心がなければ、知ることは方向を見失い、行動は意味をなくします。知ることがなければ、信念は盲信となり、行動は的外れになります。そして、行動がなければ、信念も知識も単なる絵に描いた餅に過ぎません。この三つが螺旋を描くように互いを高め合いながら深まっていくプロセスこそが、ジャイナ教の修行の道なのです。
一見すると、ジャイナ教の教え、特にその厳格な戒律や苦行は、現代の私たちの生活からはあまりにかけ離れた、極端なものに映るかもしれません。しかし、その表面的な厳しさの奥を覗き込むと、そこには驚くほど現代的で普遍的なメッセージが込められていることに気づかされます。
アヒンサーの徹底した実践は、環境倫理や動物の権利、平和主義といった現代的な課題に対して、根源的な問いを投げかけます。アパリグラハ(不所有)の精神は、大量生産・大量消費社会に生きる私たちに、ミニマリズムや持続可能なライフスタイルという形で、物質的な豊かさとは異なる価値観を示唆してくれます。
そして何よりも、ジャイナ教の三宝が示すのは、徹底した自己責任と主体性の思想です。そこには、外部の神や超越的な力による救済という概念は希薄です。魂の解放は、誰か他の力によって与えられるものではなく、自分自身の信念、智慧、そして行いによって、自らの手で勝ち取るものなのです。
縁側から庭を眺め、風の音や光の移ろいを感じるように、ジャイナ教の「三宝」という窓を通して私たちの生き方を見つめ直してみる。そこから見えるのは、あらゆる生命との繋がりを深く意識し、自らの内なる力で人生を切り拓いていく、静かで、しかし揺るぎない強さを持った道のりです。その厳格な道筋の全てを歩むことは難しいかもしれません。しかし、その一端に触れるだけでも、私たちは日々の選択に新たな意味を見出し、より意識的で、より慈しみに満ちた一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。ジャイナ教の三宝は、私たち一人ひとりの内にある、聖なる可能性の扉を開くための、古くて新しい鍵なのかもしれません。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






