バガヴァッド・ギーターの旅は、いよいよ宇宙の根源的な問いへと深まっていきます。第七部は「ギャーナ・ヴィギャーナ・ヨーガ」、すなわち「知識と実現のヨーガ」と名付けられ、私たちが生きるこの世界の背後に存在する至高なる現実、そして神の本性についての深遠な教えがクリシュナ神によって明かされます。これまで、アルジュナの苦悩と迷いを通して、行為の道(カルマヨーガ)や知恵の道(ギャーナヨーガ)、そして心の制御(瞑想のヨーガ)が説かれてきました。しかし、これらの実践が真に実を結ぶためには、その実践の対象であり、また実践を支える究極的な存在への理解が不可欠となります。
本章では、その核心に迫ります。「神とは何か?」「宇宙を動かす力とは?」「私という存在の本質は?」これらの問いは、古来より人類が抱き続けてきた根源的な探求であり、ギーターはそれに対して、具体的かつ深遠な解答を提示するのです。私たちは、クリシュナが語る「神の顕現」、宇宙を創造し維持する目に見えない「背後の力」、そしてインド哲学の核心概念である「ブラフマン」と「アートマン」という言葉を手がかりに、この壮大な宇宙の神秘の扉を開いていくことになります。それは、単なる知的な理解を超え、私たち自身の生き方、そして世界の捉え方を根底から揺るがすほどのインパクトを秘めていると言えるでしょう。
もくじ.
宇宙の創造主、その多様な顕現 – クリシュナが語る「私」
バガヴァッド・ギーターにおける神観は、非常にユニークです。それは、抽象的な原理としての神と、人格的な神という二つの側面を巧みに統合している点にあります。物語の中心でアルジュナに語りかけるクリシュナは、親しみやすい友であり、導師であり、そして同時に、宇宙を超越した至高神そのものとして描かれます。
では、なぜ神は顕現するのでしょうか?ギーター第四章でクリシュナは明確に述べています。
「アルジュナよ、ダルマ(正義・法)が衰え、アダルマ(不正・不法)が栄えるとき、私は自らこの世に姿を現す。善き人々を保護し、悪しき者どもを滅ぼし、そしてダルマを確立するために、私はいつの時代にも生まれ変わるのだ。」(バガヴァッド・ギーター 第4章7-8節より意訳)
この言葉は、神が単なる静的な存在ではなく、宇宙の秩序と調和を維持するために積極的に関与するダイナミックな力であることを示しています。神の顕現は、迷い苦しむ衆生を救済し、真理へと導くための慈悲の現れでもあるのです。
さらにクリシュナは、自身の本性について、より深く掘り下げて語ります。彼は、宇宙の万物が自身から生じ、自身に依存していることを明らかにします。
「アルジュナよ、大地、水、火、風、空、心(マナス)、理性(ブッディ)、そして自我意識(アハンカーラ)、これらは私の低次のプラクリティ(物質的自然)である。しかし、これとは別に、私の高次のプラクリティを知りなさい。それは生命(ジーヴァ・ブータ)であり、この宇宙を支えているのだ。」(バガヴァッド・ギーター 第7章4-5節より意訳)
ここでクリシュナは、自身の力を二つの性質に分けて説明しています。一つは、私たちが感覚で捉えることのできる物質世界を構成する「低次のプラクリティ」。もう一つは、それら物質に生命を吹き込み、宇宙全体を維持する霊的な力、「高次のプラクリティ」です。そして、これら両方の根源がクリシュナ自身であると宣言するのです。
「アルジュナよ、私より上位のものは何もない。この宇宙のすべてのものは、あたかも真珠が一本の紐に貫かれているように、私に貫かれているのだ。」(バガヴァッド・ギーター 第7章7節より意訳)
この比喩は非常に美しく、示唆に富んでいます。個々の真珠はそれぞれ異なる形や輝きを持っていますが、それらを繋ぎとめ、一つのネックレスとして成り立たせているのは目に見えない一本の紐です。同様に、宇宙に存在する多様な万物は、その根底においてクリシュナという至高の存在によって結ばれ、支えられている、というのです。神は、宇宙の創造主であると同時に、宇宙に内在し、それを維持する力そのものでもある。この理解は、私たちが世界を見る視点を大きく変える可能性を秘めています。目の前の現象だけでなく、その背後にある統一的な原理へと意識を向けることの重要性を示唆していると言えるでしょう。
宇宙の背後に潜む絶対実在 – ブラフマン
クリシュナが自身の神的本性を語る一方で、インド哲学の伝統において宇宙の究極的実在を示す言葉として「ブラフマン」があります。この概念は、ギーター以前のヴェーダやウパニシャッド哲学において深く探求されてきました。
ブラフマンとは、言葉で定義することが極めて難しい概念です。それは、宇宙の根本原理であり、すべての存在の源であり、そして究極的な帰着点であるとされます。それは時間や空間を超越し、形も属性も持たず、人間の思考や感覚では捉えきれない絶対的な実在です。ウパニシャッドでは、このブラフマンを表現するために、「ネーティ・ネーティ(それではない、それではない)」という否定的なアプローチが用いられることがあります。つまり、私たちが「これだ」と指し示すことができるものは全て相対的なものであり、絶対的なブラフマンそのものではない、という深遠な洞察です。
このブラフマンには、二つの側面があるとしばしば説明されます。
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ニルグナ・ブラフマン(無属性のブラフマン):これは、いかなる属性も持たない、純粋な存在、純粋な意識、純粋な至福(サット・チット・アーナンダ)として理解される、究極的で超越的な実在です。それは人間の理解を超えた、静寂なる絶対者です。
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サグナ・ブラフマン(有属性のブラフマン):これは、宇宙の創造、維持、破壊という働きを司る、人格的な側面を持つ神として理解されます。世界の現象の背後にある力、宇宙の秩序を保つ摂理そのものとも言えるでしょう。バガヴァッド・ギーターにおけるクリシュナ神は、このサグナ・ブラフマンの最高の顕現として捉えることができます。
バガヴァッド・ギーターは、この難解なブラフマンの概念を、クリシュナという人格神を通して、より具体的に、そして実践的に私たちに提示します。クリシュナは、自身がブラフマンの基盤であると語ります。
「アルジュナよ、実に私は、不滅なるブラフマンの、不死なるものの、永遠のダルマの、そして絶対的な至福の住処なのである。」(バガヴァッド・ギーター 第14章27節より意訳)
これは、抽象的で捉えどころのないブラフマンという絶対実在が、クリシュナという人格神への信愛(バクティ)を通して到達可能であることを示唆しています。宇宙の根本原理は、私たちから遠く離れたものではなく、信愛と献身を通して感得できる対象として示されているのです。ギーターの教えは、哲学的思弁に留まらず、常に実践的な解脱への道を志向していることがここからも伺えます。
個の中に輝く神性 – アートマン
宇宙全体の根源的な実在がブラフマンであるならば、個々の存在、特に私たち人間の内なる本質とは何でしょうか。ここで登場するのが「アートマン」という概念です。アートマンは、しばしば「真我」「個我の本質」「内なる自己」などと訳されます。
ギーターの第二章において、クリシュナはアルジュナに対し、死を嘆き悲しむことはないと説き、その根拠としてアートマンの不滅性を強調します。
「賢者は、生きている者をも、死んだ者をも嘆かない。かつて私が存在しなかった時はなく、汝が存在しなかった時もなく、これらの王たちが存在しなかった時もない。そして、我々すべてが、未来において存在しなくなることもないのだ。」(バガヴァッド・ギーター 第2章11-12節より意訳)
「武器もこれを傷つけることができず、火もこれを焼くことができず、水もこれを濡らすことができず、風もこれを乾かすことができない。このアートマンは、切られることなく、焼かれることなく、濡らされることなく、乾かされることもない。それは永遠であり、すべてに遍満し、不動であり、太古からのものであり、不変である。」(バガヴァッド・ギーター 第2章23-24節より意訳)
これらの言葉は、私たちが通常「自分」だと思っている肉体や感覚、移ろいやすい心や感情、さらには理性や自我意識とは異なる、不変で永遠なる実体が私たちの内に存在することを示しています。それがアートマンです。肉体は生まれ、成長し、やがて滅びますが、アートマンは生まれることも死ぬこともなく、ただ肉体という衣を次々と着替えるかのように、輪廻転生を繰り返すとされています。
このアートマンの理解は、私たちが日々の生活で経験する様々な苦しみや束縛からの解放の鍵となります。なぜなら、私たちが苦しむのは、この不滅のアートマンを忘れ、移ろいゆく肉体や現象世界の出来事に心を奪われ、執着するからです。真の自己であるアートマンに目覚めること、それがヨーガの目指す境地の一つなのです。
ウパニシャッド哲学の有名な言葉に「タット・トヴァム・アシ(汝はそれである)」というものがあります。これは、個人の本質であるアートマンと、宇宙の根本原理であるブラフマンが究極的には同一である、という深遠な真理を簡潔に表現したものです。この理解が、インド哲学における解脱(モークシャ)の核心となります。
梵我一如 – ブラフマンとアートマンの統合、そして神への道
「ブラフマン(宇宙の根本原理)」と「アートマン(個の真我)」、これら二つの概念は、インド哲学の壮大な体系の中で、究極的には一つの真理を指し示しています。それが「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想です。つまり、宇宙を貫く絶対的な実在と、私たち一人ひとりの中に存在する真の本質とは、本来別々のものではなく、完全に同一である、というのです。
この認識に至ることが、あらゆる束縛からの解放、すなわちモークシャ(解脱)であるとされています。しかし、この深遠な真理を、単なる知的な理解としてではなく、実感として体得することは容易ではありません。私たちの心は、無知(アヴィディヤー)や自我意識(アハンカーラ)、そして様々な欲望や執着によって曇らされ、真実を見誤っているからです。
バガヴァッド・ギーターは、この梵我一如の真理に至るための実践的な道筋を、特にクリシュナという人格神へのバクティ(信愛・献身)を通して照らし出します。クリシュナは、自身がパラマートマン(至高我)であり、すべての生きとし生けるもののハート(内奥)にアートマンとして存在していると語ります。
「アルジュナよ、私はすべての生き物のハートに存在するアートマンである。私はすべての生き物の始まりであり、中間であり、そして終わりでもあるのだ。」(バガヴァッド・ギーター 第10章20節より意訳)
この言葉は、宇宙の創造主であり超越的な存在であるクリシュナが、同時に私たち自身の最も内なる本質として存在していることを意味します。つまり、神は遠い天上にいるのではなく、私たち自身の内側に、常に共にいてくださるというのです。
サグナ・ブラフマン(有属性の神、人格神クリシュナ)へのバクティは、ニルグナ・ブラフマン(無属性の絶対実在)への理解の扉を開く鍵となります。愛と献身をもってクリシュナに帰依し、その教えに従って行為し、心を清めていく中で、私たちは徐々に自己の限定的な意識を超え、万物の根源である神との一体感を深めていくことができるのです。
クリシュナを万物の創造主として、宇宙の維持者として、そしてすべての現象の背後にある力として認識すること。さらに、そのクリシュナが、私たち自身の内なるアートマンの源泉であり、真の自己そのものであると理解すること。この二重の認識が、ギーターの示すバクティヨーガの核心です。
神の顕現であるクリシュナへの信愛は、私たちを物質的な束縛から解放し、アートマン(真我)に目覚めさせ、最終的にはブラフマン(宇宙原理)との合一へと導くのです。それは、行為(カルマヨーガ)、知識(ギャーナヨーガ)、瞑想(ディヤーナヨーガ)といった他のヨーガの道と対立するものではなく、むしろそれらを統合し、より実践的で親しみやすい形で提示するものと言えるでしょう。
結論として – 永遠の指針を現代に活かす
バガヴァッド・ギーター第七部で説かれる「神の顕現」「宇宙の背後にある力」「ブラフマン」「アートマン」といった概念は、一見すると非常に哲学的で難解に感じられるかもしれません。しかし、これらの教えは、迷い苦しむアルジュナ、そして現代を生きる私たち一人ひとりにとって、計り知れない光明と力強い指針を与えてくれるものです。
宇宙は単なる物質の集まりではなく、その背後には意識的で愛に満ちた力が働いていること。私たち人間は、肉体や心といった移ろいやすい存在を超えた、永遠不滅の神聖な本質(アートマン)を内に秘めていること。そして、その内なる神性と宇宙の根本原理(ブラフマン)、そして顕現した神(クリシュナ)とは、究極的には一つであること。これらの理解は、私たちが日々の生活の中で直面する困難や苦悩に対して、まったく新しい視点と意味を与えてくれます。
この宇宙的な視野と、自己の深遠な本質への気づきは、私たちを小さなエゴの殻から解き放ち、より大きな目的に向かって生きる勇気と喜びを与えてくれるでしょう。バガヴァッド・ギーターが示す神への道、自己実現への道は、決して一つではありません。しかし、そのどの道も、最終的には私たちを真の自由と永遠の至福へと導いてくれるのです。
この古代インドの叡智を、現代の喧騒の中でいかに活かすか。それは、私たち一人ひとりに委ねられた問いです。静かに内省する時間を持つこと、自然との繋がりを感じること、他者への奉仕を心がけること、そして何よりも、自分自身の内なる声に耳を澄ませること。その一つ一つの小さな実践が、ギーターの壮大な教えを血肉化し、私たちの人生をより豊かで意味深いものへと変容させていくのではないでしょうか。クリシュナとアルジュナの対話は、今もなお、私たちの魂に静かに、しかし力強く語りかけているのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。





