ユジュニャ(犠牲)としての行為 – 見返りを求めずに尽くす – 無私の行い

ヨガを学ぶ

バガヴァッド・ギーター第三部は、「カルマヨガ(行為のヨーガ)」の章として知られ、私たちがこの物質世界で生きていく上で避けては通れない「行為」そのものに、深遠な霊的意味と解脱への道筋を見出す智慧を授けてくれます。クリシュナ神が、戦意を喪失し苦悩するアルジュナに対し、行為の本質とその実践方法を説き明かすこの章は、ギーター全体の教えの中でも特に実践的な指針に満ちています。

その中でも、私たちが最初に向き合うべき重要な概念が「ユジュニャ(Yajña)」です。一般的に「犠牲」や「供犠」と訳されるこの言葉は、ともすれば古めかしく、現代に生きる私たちには縁遠いもののように感じられるかもしれません。しかし、バガヴァッド・ギーターが示すユジュニャは、ヴェーダ時代の外面的な儀礼に留まらず、私たちのあらゆる行為を精神的な高みへと昇華させる普遍的な原理なのです。

この項では、ユジュニャという概念の歴史的背景と、バガヴァッド・ギーターがそれをどのように捉え直し、私たちの日常生活における「見返りを求めずに尽くす無私の行い」へと結びつけているのかを、丁寧に考察してまいりましょう。

 

ユジュニャの源流:ヴェーダの祭祀と宇宙的秩序

ユジュニャという言葉の源流を遡ると、古代インドの聖典群であるヴェーダに行き着きます。ヴェーダ時代において、ユジュニャは神々への供物を捧げる祭祀儀礼を指し、宇宙の秩序(リタ)を維持し、神々の恩寵を得て世界の調和と繁栄を願うための重要な宗教的行為でした。火を焚き、供物を捧げ、マントラを唱えるという一連の儀式は、人間と神々、そして宇宙全体が相互に依存し合い、支え合って存在しているという世界観を体現するものでした。

当時の人々にとって、ユジュニャは単なる形式的な儀礼ではなく、宇宙的なサイクルに参加し、生命の循環を促すための能動的な働きかけであったのです。神々はユジュニャによって力を得て雨を降らせ、作物を育て、人々は神々からの恵みによって生かされる。このような相互扶助の関係性が、ユジュニャという行為の根底には流れていました。

しかし、時代が下り、ウパニシャッド哲学が隆盛する頃になると、ユジュニャの概念は外面的な儀式から、より内面的、精神的な意味合いを深めていきます。祭壇の火は内なる知恵の火に、供物は自己の欲望やエゴの放棄に、そして儀式の執行者は自己を探求する求道者へと、その象徴性が変化していきました。真のユジュニャとは、物理的な供物を捧げること以上に、自己の無知を滅却し、真我(アートマン)と宇宙の根本原理(ブラフマン)との合一を目指す内的なプロセスであると理解されるようになったのです。

 

バガヴァッド・ギーターにおけるユジュニャの再定義:行為そのものが供物

バガヴァッド・ギーターは、このウパニシャッド哲学の流れを汲みつつ、さらにユジュニャの概念を日常生活における具体的な「行為」へと拡張します。クリシュナは、アルジュナに対し、戦場における戦士としての義務(スヴァダルマ)を遂行することこそが、彼にとってのユジュニャであると説きます。

ギーターが示すユジュニャの核心は、「行為の結果に対する執着を手放し、行為そのものを至高なる存在への捧げものとして行う」という点にあります。これは、カルマヨガの根幹をなす「ニシュカーマ・カルマ(無執着の行為、見返りを求めない行為)」の教えと不可分です。

第三章3節では、クリシュナはこう述べています。

「この世には、以前私が説いたように、二つの道がある。一つは思索家たちのためのギャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)、もう一つは活動家たちのためのカルマ・ヨーガである。」

(लोकेऽस्मिन्द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयानघ । ज्ञानयोगेन सांख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥ ३-३॥)

loke ’smin dvi-vidhā niṣṭhā purā proktā mayānagha

jñāna-yogena sāṅkhyānāṁ karma-yogena yoginām

ここでクリシュナは、行為の道(カルマ・ヨーガ)を明確に示し、続く9節では、行為と束縛の関係について、ユジュニャの重要性を説きます。

「ユジュニャのために行われる行為を除いては、この世界は行為によって束縛される。それゆえ、オー、クンティーの息子(アルジュナ)よ、執着を離れて、その(ユジュニャの)ために行為をなしなさい。」

(यज्ञार्थात्कर्मणोऽन्यत्र लोकोऽयं कर्मबन्धनः । तदर्थं कर्म कौन्TEय मुक्तसङ्गः समाचर ॥ ३-९॥)

yajñārthāt karmaṇo ’nyatra loko ’yaṁ karma-bandhanaḥ

tad-arthaṁ karma kaunteya mukta-saṅgaḥ samācara

この詩句は極めて重要です。私たちが通常行う行為は、その結果への期待や欲望(「これが欲しい」「こうなりたい」)と結びついているため、成功すれば喜び、失敗すれば悲しみ、新たな欲望や執着を生み出し、カルマの輪廻から逃れることができません。これが「行為によって束縛される」状態です。

しかし、行為が「ユジュニャのため」、すなわち「至高なる存在への捧げものとして」「見返りを求めずに」「結果への執着なく」行われるならば、その行為は私たちを束縛する原因とはならず、むしろ心の浄化と解脱への道を開くのです。

では、具体的にどのような行為がユジュニャとなるのでしょうか。クリシュナは、特定の儀式や宗教的行為だけを指しているのではありません。私たちの日常生活におけるあらゆる義務や役割、他者への奉仕、社会への貢献、さらには呼吸や食事といった生命維持のための活動さえも、その動機と心の持ちようによってはユジュニャとなり得るのです。

例えば、古代インドの伝統には「パンチャ・マハー・ヤグニャ(五大供養)」という考え方があります。これは、ブラフマ・ヤグニャ(聖典学習)、デーヴァ・ヤグニャ(神々への供養)、ピトリ・ヤグニャ(祖霊への供養)、マヌシャ・ヤグニャ(人間への供養、客のもてなし)、ブータ・ヤグニャ(生物への供養)の五つを指し、個人が社会や宇宙全体に対して負っている責任を果たす行為です。バガヴァッド・ギーターの文脈でこれを解釈するならば、これらの行為を、神への奉仕として、見返りを求めずに行うことが、真のユジュニャの実践となるでしょう。

自分の仕事に誠実に取り組むこと、家族を思いやり世話をすること、困っている人に手を差し伸べること、自然環境を大切にすること。これらすべてが、その行為の背後にある動機が利己的なものではなく、より大きなものへの貢献や、自己のダルマ(天命、本質的な義務)の遂行であるならば、尊いユジュニャとなるのです。

 

見返りを求めずに尽くす:ニシュカーマ・カルマの本質

ユジュニャとして行為を捧げる上で、最も重要な心構えは「見返りを求めない」ということです。これは、行為の結果がどうであれ、それに一喜一憂せず、ただ淡々と、誠実に、為すべきことを為すという態度です。

第二章47節でクリシュナが説いた有名な詩句が、この精神を最もよく表しています。

「あなたの権利は行為そのものにのみあり、決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはならない。また、行為をしないことに執着してもならない。」

(कर्मण्येवाधिकारस्ते मा फलेषु कदाचन । मा कर्मफलहेतुर्भूर्मा ते सङ्गोऽस्त्वकर्मणि ॥ २-४७॥)

karmaṇy-evādhikāras te mā phaleṣu kadācana

mā karma-phala-hetur bhūr mā te saṅgo ’stv-akarmaṇi

私たちは行為をコントロールすることはできますが、その結果は様々な要因(他者の行動、環境、過去のカルマなど)によって左右されるため、完全にコントロールすることはできません。結果に執着すれば、心が不安定になり、欲望や怒り、失望といった感情に振り回されてしまいます。

「見返りを求めない」というのは、努力を放棄することや、無気力になることとは全く異なります。むしろ、結果への執着から解放されることで、私たちはより純粋な動機で、より集中して行為に取り組むことができるようになります。それは、まるで熟練した職人が、報酬のためではなく、ただ良いものを作りたいという一心で仕事に打ち込む姿に似ています。

このような態度は、一見すると自己犠牲的で、現代の競争社会においては不利であるかのように思えるかもしれません。しかし、バガヴァッド・ギーターが示すのは、そのような矮小な損得勘定を超えた、より深いレベルでの心の自由と充足感です。

見返りを求めない行為は、私たちの内にある「私」という小さなエゴ(アハンカーラ)の働きを弱めます。「私がやった」「私の手柄だ」「私のおかげだ」という思いは、私たちを他者と分離させ、比較や競争へと駆り立てます。しかし、行為をユジュニャとして捧げ、その結果を神の手に委ねる時、私たちは「行為の主体は私ではなく、宇宙的な力、あるいは神の意志である」というより大きな視点を持つことができるようになります。

これは、ある種の「受動性」とも言えるかもしれませんが、それは無力な受動性ではなく、宇宙の流れに身を任せ、その一部として調和して生きるという、積極的で創造的な受動性です。それは、あたかも川の流れに逆らわず、巧みに舟を操る舟人のようなものです。

 

無私の行い:エゴイズムの超越と他者への共感

ユジュニャとしての行為、そして見返りを求めない行為は、必然的に「無私の行い(ニシュヴァールタ・カルマ)」へと繋がっていきます。「スヴァールタ(Svārtha)」が自己の利益を意味するのに対し、「ニシュヴァールタ(Niḥsvārtha)」は無私、利他を意味します。

無私の行いとは、自分の利益や都合を優先するのではなく、他者の幸福や全体の調和を願って行動することです。それは、単なる道徳的な義務感から行うのではなく、他者の喜びや苦しみを自分のことのように感じられる深い共感(カルナー)から自然に湧き出てくるものです。

バガヴァッド・ギーターは、私たちが本質的には一つの同じ霊的実体(アートマン)を分かち合っていると説きます。この深遠な真理を理解するならば、他者を助けることは自分自身を助けることであり、他者を傷つけることは自分自身を傷つけることであると分かります。無私の行いは、この根源的な一体性の感覚に基づいているのです。

クリシュナは、真のヨーギー(ヨーガを実践する人)の特徴として、あらゆる存在の中に自己を見、自己の中にあらゆる存在を見る(第六章29節)という普遍的な視点を挙げています。このような視点を持つ者にとって、他者への奉仕は特別なことではなく、呼吸をするように自然な行為となるでしょう。

しかし、私たちは日常生活の中で、どうしても「私」という感覚に囚われがちです。では、どうすれば無私の行いを実践できるのでしょうか。それは、まず小さなことから始めることです。

  • 家族や友人のために、見返りを期待せずに何かをしてあげる。

  • 職場や地域社会で、誰かの役に立つことを進んで行う。

  • 困っている人を見かけたら、可能な範囲で手を差し伸べる。

これらの行為一つ一つは些細なことかもしれませんが、その動機が純粋であれば、それは立派なユジュニャであり、無私の行いの実践となります。そして、そのような経験を積み重ねることで、私たちの心は徐々にエゴの束縛から解放され、より大きな愛と共感の器へと成長していくのです。

現代社会は、個人の成功や利益追求がもてはやされがちですが、そのような価値観だけでは、真の幸福や心の平安を得ることは難しいでしょう。私たちは、他者との関わりの中で生きており、互いに支え合って存在しています。無私の行いは、この相互依存の関係性を再認識させ、私たちに温かい人間的な繋がりと、深い充足感をもたらしてくれるのです。

 

ユジュニャの実践がもたらす心の変容と解脱への道

バガヴァッド・ギーターが説くユジュニャとしての行為、見返りを求めない行為、そして無私の行いを実践することは、私たちの心にどのような変化をもたらすのでしょうか。

第一に、心の浄化です。結果への執着、自己中心的な欲望、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、心の鏡を曇らせ、真実を見る目を遮ります。ユジュニャの実践は、これらの不純物を取り除き、心を清らかで穏やかな状態へと導きます。

第二に、カルマからの解放です。前述の通り、ユジュニャとして行われる行為は新たなカルマの種(サンチタ・カルマやアーガミ・カルマ)を生み出しません。それは、行為の動機が個人的なものではなく、神への奉仕という純粋なものであるため、その結果は神に帰属し、行為者自身を束縛しないのです。これにより、私たちは過去のカルマの清算を進め、輪廻のサイクルから徐々に解放されていきます。

第三に、ダルマの成就と宇宙的調和です。自己のダルマ(天命、本質的な義務)をユジュニャとして遂行することは、宇宙的な秩序(リタ)と調和して生きることを意味します。それは、まるでオーケストラの一員が、自分のパートを完璧に演奏することで、全体の美しいハーモニーに貢献するようなものです。この調和の感覚は、深い安心感と心の安定をもたらします。

そして最終的には、精神的成長と解脱(モークシャ)への道が開かれます。ユジュニャの実践を通して、私たちは自己のエゴを超越し、より大きな自己、すなわち普遍的な意識(ブラフマン)や至高神との一体感を体験するようになります。この一体性の認識こそが、あらゆる苦しみからの解放であるモークシャの境地なのです。

クリシュナは第三章19節でこう断言します。

「それゆえ、常に執着なく、為すべき行為をなしなさい。執着なく行為をなす人は、実に至高なるものに到達するのだから。」

(तस्मादसक्तः सततं कार्यं कर्म समाचर । असतो ह्याचरन्कर्म परमाप्नोति पूरुषः ॥ ३-१९॥)

tasmād asaktaḥ satataṁ kāryaṁ karma samācara

asakto hy-ācaran karma param āpnoti pūruṣaḥ

ここでの「至高なるもの(パラマ)」とは、解脱の境地、あるいは神との合一を指します。つまり、見返りを求めず、執着なく為すべき行為をユジュニャとして行うことは、単なる倫理的な善行に留まらず、私たちの魂を究極の目的地へと導く霊的な修行そのものなのです。

 

現代社会におけるユジュニャの意義:行為を通じた自己変革

バガヴァッド・ギーターが説かれたのは数千年前の古代インドですが、ユジュニャとしての行為という教えは、現代社会を生きる私たちにとっても、色褪せることのない普遍的な智慧を投げかけています。

現代は、物質的な豊かさや個人の成功が追求される一方で、精神的な空虚感や人間関係の希薄化、環境問題など、多くの課題を抱えています。このような時代だからこそ、「見返りを求めずに尽くす」「無私の行い」というユジュニャの精神は、私たちに新たな視点と行動の指針を与えてくれます。

  • 仕事におけるユジュニャ: 自分の仕事が社会にどのような価値を提供しているのかを意識し、報酬や評価のためだけでなく、他者への貢献や自己の成長のために誠実に取り組む。

  • 家庭生活におけるユジュニャ: 家族への愛情や感謝の気持ちを行動で示し、見返りを期待せずに支え合う。

  • 社会貢献活動としてのユジュニャ: ボランティア活動や寄付、環境保護活動など、より良い社会の実現のために、自分の時間や能力を捧げる。

  • 日常の小さな親切としてのユジュニャ: 電車で席を譲る、困っている人に声をかけるなど、日々の生活の中で、ささやかな思いやりを行動に移す。

これらの行為は、一見すると「損」をするように感じるかもしれません。しかし、ユジュニャの精神で行動する時、私たちは物質的な見返り以上の、心の充足感や他者との温かい繋がり、そして自己の成長といった、かけがえのない宝物を手にすることができるのです。

それは、あたかも庭に花を植える行為に似ています。花を植えるという行為そのものに喜びを感じ、花が咲くことをただ願い、世話をする。その結果として美しい花が咲き誇り、周囲の人々をも楽しませる。花が期待通りに咲かなかったとしても、世話をした経験や自然との触れ合いは、私たちの中に豊かな何かを残してくれます。

ユジュニャとしての行為は、私たちを自己中心的な殻から解き放ち、より大きな世界との一体感へと誘います。それは、行為を通して自己を変革し、世界との関わり方を変え、そして最終的には私たち自身の魂を解放するための、力強くも穏やかな道なのです。

バガヴァッド・ギーター第三部が示すカルマヨガ、そしてその中核にあるユジュニャの教えは、迷い多き現代社会において、私たち一人ひとりが日々の生活の中で実践できる、具体的な智慧の光と言えるでしょう。この光を頼りに、見返りを求めず、執着を手放し、愛と奉仕の心で行為を捧げていくならば、私たちの人生は間違いなく、より深く、より豊かで、より意味のあるものへと変容していくに違いありません。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。