「ただ座る」だけの瞑想?肩の荷を下ろす「ゆるめる瞑想」?
瞑想と聞くと、あなたはどんなイメージを持つでしょうか。「心を無にするもの」「雑念を一切なくさなければならない」「背筋をピンと伸ばして微動だにしてはいけない」。もしかすると、そんな厳しい修行のような姿を思い浮かべて、自分には難しい、と感じているかもしれませんね。
現代社会は、常に何かを「する」こと、目標を達成することに価値を置きがちです。私たちは子供の頃から「頑張れ」「努力しろ」と言われて育ちました。だから、瞑想もまた「頑張って」「努力して」成果を出すものだと思い込んでしまうのは無理のないことです。
しかし、もし、瞑想が「頑張らない」こと、「努力を手放す」ことから始まるのだとしたら? もし、心をコントロールしようとするのではなく、ただ「ゆるめる」だけで良いのだとしたら?
今日お話ししたいのは、そんな、今までの瞑想のイメージを覆すかもしれない、とてもシンプルで、そしてパワフルな瞑想の実践についてです。これは、特別難しい技術も、特別な場所も道具も必要としない、「ただ座る」という、究極にミニマルな瞑想です。
もくじ.
「ただ座る」というミニマルな実践:頑張るのをやめてみる
私たちが提案する瞑想は、何かを「する」瞑想ではなく、ただ「在る」瞑想です。特定の状態を目指したり、何かを達成しようと力を入れたりする必要は一切ありません。ただ、そこに座り、今の自分自身に気づく、それだけです。
これは、仏教、特に禅の伝統にある「只管打坐(しかんたざ)」という考え方に通じます。只管打坐とは、文字通り「ただひたすらに座る」という意味です。悟りを求めるでもなく、功徳を積むためでもなく、ただ座るという行為そのものが、既に完全な実践であるとされます。
現代風に言えば、これは「シンプル瞑想」と呼べるかもしれません。余計なものを一切省き、本質的な行為だけを残す。それが「ただ座る」という実践です。
「ただゆるめる瞑想」:力を抜けば、見えてくるもの
このシンプル瞑想において、最も大切な姿勢の一つが「ゆるめる」ことです。私たちは日頃から、知らず知らずのうちに体に、そして心に力を入れています。完璧であろうとしたり、他人によく見られようとしたり、将来を心配したり… そうした様々な「頑張り」が、私たちを緊張させています。
「ただゆるめる瞑想」では、まず、体に力が入っている部分がないかを感じてみましょう。肩や首、顎のあたり。そして、呼吸に合わせて、その力を少しずつ手放していきます。呼吸はコントロールしようとせず、ただ入ってきて出ていくのを観察します。
そして、心もまた「ゆるめて」いきます。心の中には、常に様々な思考や感情が浮かんできます。「これをしなければ」「あれはダメだった」「将来どうなるんだろう」。そうした思考や感情を、追い払おうと戦う必要はありません。ただ、心の中にそれらが「ある」ことに気づき、それらに対する抵抗や判断をゆるめてみます。
まるで、流れていく雲を眺めるように。あるいは、水面に映る波紋が自然に消えていくのを待つように。思考や感情を掴もうとせず、ただ通り過ぎていくのを許すのです。
「ゆるめば起こる瞑想」:努力の先にではなく、手放した先に
多くの人は、瞑想によって何か特別な体験を得ようと期待します。無我の境地や、深い集中状態など、何らかの「良い状態」を目指そうと頑張ります。しかし、実は、瞑想による気づきや心の静けさは、頑張って達成するものではありません。むしろ、「ゆるめば起こる」ものなのです。
私たちは、何かを得よう、良い状態になろうと力むほどに、かえって今の自分自身から遠ざかってしまいます。しかし、期待や評価、そして「うまくやらなければ」というプレッシャーを手放し、ただその瞬間に「在る」ことを自分に許したとき、不思議なことに、心は自然と落ち着きを取り戻し、研ぎ澄まされていきます。
これはまるで、ぎゅっと握りしめた拳の中には何も入ってこないけれど、そっと手を開いて掌を上に向けたとき、そこに雨粒が落ちてくるようなものです。何かを得ようと掴もうとするのではなく、ただ手放して開くことで、必要なものが自然と流れ込んでくる。それが「ゆるめば起こる」という感覚です。
この「ゆるめる」実践は、私たちの心に重くのしかかっていた「肩の荷が下りる」感覚をもたらしてくれます。それは、私たちが自分自身に課していた様々な「ねばならない」という重圧からの解放です。
瞑想で手放して変容する:新しい自分と出会う旅
この「ただ座る」「ただゆるめる」という実践は、表面的なテクニックに見えるかもしれません。しかし、その奥には深い変容のプロセスが隠されています。私たちはこの実践を通して、様々なものを手放していきます。
まず、自分自身を縛り付けていた固定観念や、こうあるべきだという理想像。そして、過去への後悔や、未来への不安といった、心に重くのしかかる感情。さらに、他人の評価や期待に一喜一憂するパターン。
そして、もっと根源的なものとして、「今まで得た知識を、ちょっと手放していただきたいのです」。私たちは学校教育や社会経験を通して、様々な知識や情報、価値観を「獲得」してきました。それは確かに私たちの世界を広げてくれましたが、同時に、その知識や価値観の枠の中でしか物事を見られなくする側面もあります。頭の中の知識や論理にしがみつくのをやめ、いったんそれらを横に置くことで、私たちはもっと直接的に、ありのままの現実に触れることができるようになります。
「色々と得たものをとにかく一度手放しますと、新しいものが入ってくるのですね」。これは、まるで古くなった服を脱ぎ捨て、新しい自分になるためのスペースを作るようなものです。手放すことは、失うことではなく、新しい可能性を受け入れるための準備なのです。
この手放しのプロセスを経て、私たちの内面は静かに変容を遂げていきます。それは、全く違う人間になるということではありません。むしろ、社会的な役割や他人の評価といった鎧を脱ぎ捨て、本来持っていた、より自由で、より穏やかな自分自身に気づいていくプロセスです。
内面が変化すると、不思議なことに、私たちの「出会うこと」も変化してきます。「瞑想すると出会うことが変化する」と言われるのは、まさにこのためです。自分自身の心の状態が、現実をどう認識し、どう反応するかに深く関わっているからです。内側が穏やかになれば、外側の世界も違って見えてきます。人間関係においても、無理に頑張るのではなく、自然体でいることの心地よさに気づき、それが周囲にも伝わっていきます。
そして、「ゆるん人からうまくいく」。これは、力を抜いてリラックスしている人の方が、物事がスムーズに進みやすいという真理を表しています。ガチガチに力が入っていると、ちょっとした障害にもつまずきやすくなりますが、ゆるやかで柔軟な状態であれば、変化にも対応しやすく、思わぬチャンスにも気づきやすくなるのです。
さあ、「ただ座る」を実践しよう
どうでしょうか。少しは瞑想へのハードルが下がったでしょうか。
「ただ座る」瞑想に、決まった形はありません。あなたが座りやすい椅子でも、床の上でも構いません。時間は、まずはたった5分から始めてみましょう。目を閉じるのが難しければ、半眼(うっすらと目を開ける)でも良いでしょう。
ただ、背筋をスッと伸ばし(張りすぎず、楽に)、肩の力を抜いて座ります。手は楽な位置に置きます。そして、呼吸に注意を向けてみましょう。鼻を通る空気の感覚、お腹の膨らみやへこみ。そこに意識を置きます。
もし思考が浮かんできたら、「あ、考えているな」と気づくだけで十分です。それを追い払おうとせず、ただ受け流します。自分自身を評価したり、判断したりする必要はありません。「こうしなければ」という思いも手放してみましょう。
ただ、座る。ただ、呼吸する。ただ、今、ここに「在る」自分を感じる。それだけです。
この「ただ座る」というシンプルな行為の中に、私たちの心と体を深く「ゆるめる」鍵があります。そして、その「ゆるみ」から、内なる静けさや、新しい自分自身、そして世界との繋がりが自然と「起こってくる」のを体験できるでしょう。
さあ、今日から、あなたもこの「ゆるめる瞑想」をあなたの生活に取り入れてみませんか。難しいことは何もありません。ただ、少しの時間、静かに座ってみる。そのシンプルな一歩が、あなたの内面に静かな変容をもたらし、あなたの人生に新しい風を吹き込んでくれるはずです。あなたの肩の荷を下ろし、心軽やかに生きる旅を、ここから始めてみましょう。






