原始仏教 – ブッダの根本的な教え

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前回の記事では、仏教を開かれたブッダ(ガウタマ・シッダールタ)が、いかにして王子の地位を捨て、壮絶な苦行を経て、ついに悟りを開かれたのか、その波瀾万丈な生涯を辿りました。彼は特別な超人ではなく、私たちと同じ苦悩を抱える人間として、真理の探求という孤独な旅に出られたのです。そして、菩提樹の下で彼が見出された真理こそが、その後の二千五百年以上にわたり、無数の人々を苦しみから解放し、心の平安へと導いてきた仏教の根源的な教えとなりました。

「原始仏教」とは、一般的に、ブッダが生涯を通して直接説かれた教え、およびその直弟子たちの時代における教えを指します。これは、後に様々な解釈や発展を経て成立する部派仏教や大乗仏教とは区別され、仏教の最も古い層、いわばブッダの「生の声」に近い部分であると考えられています。複雑な教義や儀礼が加わる前の、シンプルでありながらも圧倒的な力を持つその教えは、現代社会を生きる私たちにとっても、人生の根源的な問いに対する確かな指針を与えてくれるはずです。

 

四諦(したい) – 苦しみを知り、滅する道

ブッダが悟りを開いて最初に行った説法、「初転法輪」で説かれた最も重要な教えが「四諦」です。これは、苦しみの真理、苦しみの原因の真理、苦しみの滅尽の真理、苦しみを滅する道の真理という、四つの聖なる真理を指します。仏教の全ての教えは、この四諦の枠組みの中に位置づけられると言っても過言ではありません。これは、まるで病を治す医師が、まず病気(苦)を診断し、その原因(集)を探り、病が癒えた状態(滅)を示し、具体的な治療法(道)を教えるような論理的な構成となっています。

1. 苦諦(くたい)- 苦しみの真理

仏教の出発点は、人生は「苦(ドゥッカ)」であるという現実認識です。「苦しい」という言葉を聞くと、多くの人は肉体的な痛みや精神的な悲しみだけを想像するかもしれません。しかし、仏教でいう「苦」は、さらに広い意味を持ちます。もちろん、生老病死(しょう・ろう・びょう・し)という、生まれたからには誰もが避けられない四つの苦しみは含まれます。しかしそれだけでなく、愛する者と別れる愛別離苦(あいべつりく)、嫌な人や物事に会わなければならない怨憎会苦(おんぞうえく)、求めているものが手に入らない求不得苦(ぐふとくく)、そして人間の肉体と精神(五蘊)が常に変化し、思い通りにならないこと自体が苦しみである**五蘊盛苦(ごうんじょうく)**など、様々な苦しみがあると説かれます。

これは、単に「人生は辛いものだ」という悲観論ではありません。そうではなく、「無常」であり「無我」である現実を、「常」であり「我」があるかのように捉えてしまう私たちの心のあり方が、苦しみを生み出すという洞察なのです。変化し続けるものを永遠だと錯覚し、固定的な「私」があると思い込む。この根本的な誤解がある限り、私たちは常に不安や unsatisfaction(不満足感)から逃れることができない。この「苦」の現実を、まずはありのままに見つめること。それが四諦の第一歩となります。

2. 集諦(じったい)- 苦しみの原因の真理

では、なぜ私たちは苦しむのでしょうか?その原因は、外部の環境や他者にあるのではなく、私たち自身の内面にあると仏教は説きます。苦しみの原因は「渇愛(タンハー)」、すなわち欲望、執着、そして無知であるとされます。「渇愛」とは、文字通り喉が渇いて水を求めるように、何かをひたすら欲し、それにしがみつこうとする心の状態です。それは、感覚的な快楽への渇愛、存在への渇愛(永遠に存在し続けたいという願望)、非存在への渇愛(苦しみから逃れたい、無になりたいという願望)という形で現れます。

私たちは、「これが欲しい」「こうありたい」「こうあって欲しくない」という渇愛によって突き動かされ、それが満たされないと苦しみを感じます。たとえ一時的に満たされても、その満足は長続きせず、すぐにまた次の渇愛が生じます。そして、これらの渇愛は、私たちが**「諸行無常」「諸法無我」**といった真理を理解せず、物事を誤って認識していること(無知)から生まれるとされます。集諦は、苦しみが偶然や他者によってもたらされるのではなく、自分自身の心が生み出しているものであるという、非常に厳しい、しかし希望も伴う洞察を与えてくれるのです。原因が自分自身にあるならば、その原因を取り除くことも可能だからです。

3. 滅諦(めったい)- 苦しみの滅尽の真理

苦しみには原因があるならば、その原因を取り除けば、苦しみは滅尽するはずです。滅諦は、苦しみが完全に消滅した状態、すなわち「涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)」という境地が存在することを説きます。涅槃とは、煩悩の火が完全に消え去った状態です。貪り、怒り、愚痴といった煩悩は、私たちの心を焼き焦がし、苦しみを生み出す炎のようなものです。その炎が消えた時、心は究極の平安と安らぎを得ます。

重要なのは、涅槃は死後に行く場所ではなく、今、この瞬間に、煩悩を滅尽することで到達しうる心の状態であるということです。それは、特別な力を持つことでも、何も感じなくなることでもありません。物事の真実の姿をありのままに見通し、執着から解放された、束縛のない自由な心の状態です。集諦が苦しみの原因を明確にしたように、滅諦は、苦しみから完全に解放された境地が存在するという、私たちにとっての究極の目標を示してくれます。

4. 道諦(どうたい)- 苦しみを滅する道の真理

では、どのようにすれば苦しみを滅尽し、涅槃に至ることができるのでしょうか?道諦は、そのための具体的な実践方法を示します。それが「八正道(はっしょうどう)」です。八正道とは、涅槃へと向かうための「八つの正しい道」であり、私たちの考え方、言葉、行動、生き方といった日常のあらゆる側面にわたる実践徳目です。

  • 正見(しょうけん): 物事をありのままに見る正しい見解。特に、四諦や三法印(後述)といった真理を正しく理解すること。

  • 正思惟(しょうしゆい): 貪りや怒り、害意といった煩悩に基づかない正しい考え方をすること。慈悲や離欲に基づいた思考。

  • 正語(しょうご): 嘘、悪口、二枚舌、無駄話といった間違った言葉遣いをせず、真実で建設的な言葉を話すこと。

  • 正業(しょうごう): 殺生、盗み、邪淫といった間違った行為をせず、倫理的に正しい行為をすること。

  • 正命(しょうみょう): 正しく生活を営むこと。他者を傷つけたり、社会に害を与えたりしない職業や手段で生計を立てること。

  • 正精進(しょうしょうじん): 正しい努力をすること。すでに生じた悪い心を取り除き、まだ生じていない悪い心が生じないように努め、まだ生じていない良い心が生じるように努め、すでに生じた良い心をさらに増大させる努力。

  • 正念(しょうねん): 正しい気づき。今、この瞬間の心身の状態や、感覚、思考、感情、あるいは真理に対して、客観的かつ集中して気づいている状態。いわゆる「マインドフルネス」の源流です。

  • 正定(しょうじょう): 正しい集中。心を一点に集中させ、揺れ動かない安定した状態。瞑想によって得られる深い集中力です。

八正道は、単に順番に実践するものではなく、互いに補完し合いながら進めていくものです。正見によって正しい方向性を見定め、正思惟、正語、正業、正命で日常生活を倫理的に整え、正精進で努力を続け、正念と正定で心を集中させ、真理を洞察する智慧を深めていく。この全体的な実践を通して、私たちは苦しみの原因である渇愛や無知を克服し、涅槃の境地へと近づいていくのです。

 

三法印(さんぼういん) – 仏教の根本原理

四諦が苦しみのメカニズムとその解決法を示すフレームワークであるならば、「三法印」は、ブッダが悟った真理そのものの特質を示す三つの根本原理です。これは、仏教であるか否かを区別する署名、特徴とも言える重要な概念です。

1. 諸行無常(しょぎょうむじょう)

「諸行」とは、様々な要因によって形成されたあらゆる存在、現象、あるいは物事を指します。「無常」とは、常に変化し、永遠不変ではないということです。つまり、全ての形成されたものは、例外なく変化し続けるという真理です。私たちの身体も、心も、感情も、思考も、人間関係も、社会も、自然界も、宇宙さえも、全ては絶えず変化しています。昨日の自分と今日の自分は同じではありません。目の前にある花も、やがて枯れていくでしょう。

私たちはつい、変化するものを固定的なものとして捉えようとします。楽しい時間が永遠に続けばいいと願ったり、辛い状況から早く抜け出したいと焦ったり。しかし、この「常」を求める心が、変化という現実に直面したときに苦しみを生み出します。諸行無常の真理を深く理解することは、物事の変化をありのままに受け入れ、執着を手放すための重要な視点を与えてくれます。それは、決して悲観的な真理ではなく、むしろ変化の中にこそ生があり、新しい可能性が生まれるという肯定的な側面も含まれています。

2. 諸法無我(しょほうむが)

「諸法」とは、存在するもの全てを指します。「無我」とは、固定的な実体、変化しない本質としての「我(アートマン)」が存在しないということです。バラモン教など当時の他の思想では、個人の奥底には永遠不変の魂(アートマン)が存在すると考えられていましたが、ブッダはこの考え方を否定しました。全ての存在、特に私たち自身も、固定的な「私」という核を持っているわけではないと説いたのです。

私たちが「私」だと思っているものは、肉体、感覚、認識、意志、識(意識)といった様々な要素(これを「五蘊(ごうん)」と呼びます)が集まって成り立っています。そして、これらの要素は常に変化しています。つまり、「私」とは、五蘊という流れが一時的に集まった仮の姿に過ぎないのです。川の流れを見るとき、私たちはそれを「川」と呼びますが、それは同じ水が留まっているわけではなく、絶えず新しい水が流れ込んでいる変化の連続体です。それと同じように、「私」という存在もまた、変化し続ける要素の連続体なのです。

諸法無我の真理を理解することは、自我への執着を手放し、他者や世界との関係性をより深く理解する上で極めて重要です。固定的な「私」という幻想が、私たちを孤立させ、他者との比較や競争、そしてそこから生じる苦しみを生み出す根源となっているからです。無我の視点から見れば、私たちは孤立した個ではなく、全てと繋がっている縁起のネットワークの一部であることが理解できます。

3. 一切皆苦(いっさいかいく)

これは四諦の苦諦と同じ内容ですが、文脈が異なります。三法印における一切皆苦は、諸行無常であり、諸法無我であるという真理を理解しないがゆえに、全てのものが苦しみとして現れるという意味合いが強くなります。変化するものを永遠だと捉え、固定的な「私」があると思い込む無知があるからこそ、私たちは執着し、失うことを恐れ、思い通りにならない現実に苦しむのです。つまり、苦しみは存在そのものの本質ではなく、無知という「条件」によって生み出される結果であるということを示唆しています。

この三法印は、仏教の空(くう)思想の源流でもあります。「空」とは、物事がそれ自体で独立して存在する実体を持たないこと、すなわち無我をさらに深めた概念ですが、それはこの三法印、特に諸法無常と諸法無我の徹底的な洞察から生まれています。

 

縁起(えんぎ) – 関係性の中の存在

三法印と並んで、原始仏教の最も重要な教えの一つが「縁起」です。縁起とは、全ての存在や現象は、何かの原因や条件(縁)があって初めて生起し、互いに関連し合って成り立っているという真理です。宇宙に存在するものは、単独で孤立しているものは何一つありません。全ては相互依存的な関係の中にあります。

花が咲くためには、種、土、水、光、温度、そして時間といった様々な条件が必要です。これらの条件が揃って初めて花は咲き、条件が変われば花も変化し、やがて枯れていきます。私たちの存在も同じです。親から生まれ、食べ物によって体を維持し、情報を取り入れて思考し、他者との関わりの中で感情が動く。これら全ては、無数の原因と条件の相互作用の結果なのです。

縁起の教えは、「諸法無我」の真理をより具体的に理解するための手がかりとなります。固定的な「私」という実体がないのは、私という存在が、他の無数の存在との関係性の中にしか存在しないからです。私たちは、他者との関わり、社会との関わり、自然との関わりによって生かされています。この相互依存の関係性を深く理解することは、傲慢さや孤立感を乗り越え、他者や世界への感謝の念を育むことに繋がります。

ブッダは、特に人間が苦しみの中で輪廻転生を繰り返すメカニズムを、十二縁起という12の段階で示しました。無知(無明)から始まり、意志や行為(行)、そして識(意識)や名色(心身)といった段階を経て、苦しみ(老死)に至るという連鎖です。この縁起の鎖のどこかを断ち切る、特に根源である無明(無知)を滅することで、苦しみの連鎖を断ち切ることができると説きました。

関連記事:なぜ私たちは苦しいのか?人生の謎を解く「十二縁起」という羅針盤

 

業(カルマ)と輪廻(りんね) – 行為が紡ぐサイクル

原始仏教は、当時のインド思想における普遍的な概念であった「業(カルマ)」と「輪廻」の思想を取り入れつつ、独自の解釈を加えました。

「業」とは、意図(チェータナー)を伴った行為を指します。身体的な行為、言葉による行為、そして思考による行為の三つがあります。仏教では、特に「意図」が重要視されます。善い意図に基づいた善い行為は善い結果を生み、悪い意図に基づいた悪い行為は悪い結果を生むという法則です。これは、単なる因果応報というよりは、私たちの行為が自己の存在を形作り、未来へと繋がっていくダイナミズムを示しています。

そして「輪廻」は、業の結果によって、死後、新たな生を受けるという考え方です。生→老病死→新たな生、というサイクルが無限に繰り返される世界を「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)」として示しました。苦しみを生み出す業を積み重ねる限り、私たちはこの輪廻の世界から抜け出すことができません。

原始仏教における輪廻は、固定的な魂が肉体を乗り換えるというよりは、業というエネルギーの流れが、その性質に応じた新たな存在を生み出すという、よりダイナミックな連鎖として理解されることが多いです。私たちの行為とその結果が、未来の自分のあり方を決定していく。そして、この輪廻のサイクルから抜け出し、苦しみの連鎖を断ち切ること、すなわち涅槃に至ることが、仏教の根本的な目的となります。これは、現在の自己の行為に責任を持ち、未来の自己をより良い方向へ導いていくための、非常に実践的な教えと言えるでしょう。

 

実践としての原始仏教

原始仏教の教えは、単なる哲学的な思索に留まりません。それは、私たちが日々の生活の中で実践し、自己を変革していくための具体的な「道」を示しています。八正道はその実践の全てを含んでいますが、それを大きく三つの柱にまとめることもできます。

  • 戒(かい、シーラ): 身口意(身体、言葉、心)による行為を清らかに保つための道徳的な規範。在家の信者は五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)を、出家者はさらに多くの戒律を守ります。これは、無益な行為や他者を傷つける行為を避け、心の平静を保つための基盤となります。

  • 定(じょう、サマーディ): 心を集中させ、安定させるための実践。瞑想がその中心となります。特に、集中瞑想(サマタ瞑想)によって心を一点に集中させ、心を落ち着かせる訓練を行います。

  • 慧(え、パンニャー): 真理を洞察する智慧。これは、集中瞑想によって心が安定した状態で、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)によって物事の「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」といった本質をありのままに観察することによって生まれます。戒と定は、この智慧を生み出すための土台となります。

戒、定、慧は、互いに支え合い、深め合っていく関係にあります。戒を守ることで心が落ち着き(定の助けとなる)、心が落ち着けば集中力が高まり(慧の助けとなる)、智慧が深まれば物事の善悪を正しく見抜けるようになり(戒の実践を助ける)、真理に基づいた考えや行動ができるようになります。

ブッダは、弟子たちに「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と説かれました。これは、他者に頼るのではなく、自らの内なる力と、自身が説いた真理(法)を拠り所として歩みなさいというメッセージです。原始仏教の実践は、まさにこの言葉を体現するものです。外に救いを求めるのではなく、自らの心身を観察し、そこに現れる苦しみとその原因を見抜き、八正道という具体的な道筋を歩むことで、自らを苦しみから解放していく。そのための力は、私たち一人ひとりの内に備わっていることを教えてくれるのです。

 

現代における原始仏教の意義

情報過多、物質主義、そして人間関係の希薄化が進む現代社会において、原始仏教のシンプルで根源的な教えは、かつてないほど深い意味を持っていると私は感じています。

  • 「苦」の理解: 現代の私たちは、モノや情報、他者との比較といった新たな形の苦しみに直面しています。原始仏教が説く苦諦は、これらの苦しみがどこから来るのか、その根本的な原因を理解するための視点を与えてくれます。

  • 執着の手放し: ミニマリズムの記事でも触れましたが、私たちはモノや情報、あるいは「こうありたい」という理想の自分に強く執着し、それが苦しみを生んでいます。集諦と滅諦の教えは、この執着を手放すことこそが心の解放に繋がることを明確に示しています。

  • 「私」という幻想からの自由: SNSなどによって他者との比較が容易になり、自らの「セルフイメージ」に強く囚われる現代において、諸法無我の教えは、「私」という固定的な実体への執着を手放し、より軽やかに生きるための深い示唆を与えてくれます。

  • 繋がりの再認識: グローバル化が進む一方で、私たちは孤立感を深めているかもしれません。縁起の教えは、私たちが全てと繋がっている interdependent な存在であることを教えてくれ、他者や自然との関係性を大切にすることの重要性を再認識させてくれます。

  • 実践としての智慧: 瞑想や倫理的な生き方といった八正道の実践は、科学的な研究によっても心の健康やwell-being(幸福度)を高める効果が認められています。原始仏教は、単なる信仰ではなく、私たちがより良く生きるための具体的な実践法を提供してくれています。

原始仏教の教えは、二千五百年以上の時を経てなお、その輝きを失っていません。それは、それが人間の普遍的な苦悩と向き合い、その解決法を提示する、時代を超えた智慧だからです。複雑な教義や思想の前に、まずはこのシンプルで力強い、ブッダが最初に説かれた根源的な教えに立ち返ってみること。それは、私たちが自らの人生を深く見つめ直し、真の心の平安へと歩み始めるための、確かな一歩となるはずです。

次の記事では、ブッダの死後、その教えがどのように解釈され、発展していったのか。弟子たちの間で意見の分化が進み、「部派仏教」が展開していく様子を追っていきたいと思います。偉大な師を失った弟子たちが、その教えをどのように守り、伝えようとしたのか、その過程には、人間の知性と多様性が織りなす興味深いドラマがあります。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。