感覚の扉の向こうへ:欲望、執着、そして苦しみ(ドゥッカ)の根源を探る

東洋思想

「欲望や執着は、感覚的な快楽への渇望から生じ、それが苦しみ(ドゥッカ)の根源となると見なされたのです」

 

私たちは日々、何かを求め、何かを願いながら生きています。心地よいものに惹かれ、不快なものを避けようとするのは、生命としてごく自然な反応かもしれません。しかし、古来より東洋の叡智、特に仏教やヨーガの伝統は、この自然に見える心の働きに深く分け入り、そこに潜む普遍的な苦悩の構造を明らかにしてきました。その核心にあるのが、「欲望や執着は、感覚的な快楽への渇望から生じ、それが苦しみ(ドゥッカ)の根源となると見なされたのです」という洞察です。

この一文は、単なる宗教的な教義にとどまらず、現代を生きる私たち自身の「生きづらさ」や「満たされなさ」の根源を解き明かす鍵を握っているように思えます。物質的に豊かになり、かつてないほど多くの快楽や刺激にアクセスできるようになった現代社会において、なぜ私たちは依然として、あるいは、ますます深い不満足感や空虚さを抱えてしまうのでしょうか。

 

「苦しみ(ドゥッカ)」とは何か? – 人生のデフォルト設定を理解する

まず、この考察の出発点となる「苦しみ」、すなわちパーリ語やサンスクリット語で「ドゥッカ(Duḥkha)」と呼ばれる概念について、その意味を正確に捉えることから始めましょう。日本語の「苦しみ」という言葉は、しばしば肉体的な痛みや精神的な悲痛といった、激しいネガティブな感情を連想させます。しかし、仏教におけるドゥッカは、より広範で微細なニュアンスを含む概念なのです。

ドゥッカとは、端的に言えば「思い通りにならないこと」「満たされないこと」「不満足感」といった、私たちの生存に伴う根源的な性質を指します。ゴータマ・ブッダ(釈迦)が最初に説いたとされる「四諦(したい)」、すなわち四つの真理の第一「苦諦(くたい)」において、人生は本質的にドゥッカであると喝破されました。これは決して、人生が絶望的であるとか、喜びが存在しないという意味ではありません。むしろ、私たちが経験する喜びや快楽も含め、あらゆる経験は移ろいゆくものであり、永続しないが故に、その変化や喪失が必然的に不満足感(ドゥッカ)をもたらす、という冷静な現実認識を示すものです。

具体的には、「生老病死」という避けられない人生の四つの苦しみ(四苦)に加え、「愛別離苦(あいべつりく)」(愛する人と別れる苦しみ)、「怨憎会苦(おんぞうえく)」(憎むべき人と会わねばならない苦しみ)、「求不得苦(ぐふとくく)」(求めても得られない苦しみ)、そして「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」が挙げられます。最後の五蘊盛苦は、私たちの存在そのもの、すなわち色(物質)・受(感受)・想(表象)・行(意志・形成力)・識(認識)という五つの要素(五蘊)が、無常であるが故に執着の対象となり、それ自体が苦しみの源である、という包括的な苦を示しています。

このように、ドゥッカは人生における「デフォルト設定」のようなもの、と捉えることができるかもしれません。問題の所在、つまり私たちの不満足感の根源がどこにあるのかを明確に理解することなくして、その解決策を見出すことは困難です。だからこそ、東洋の叡智はまず、このドゥッカという現実を直視することから始めるわけです。

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喉の渇きのように:欲望(タンハー)と渇望のメカニズム

では、なぜ私たちはこの「思い通りにならない」世界で苦しみを感じるのでしょうか。仏教において、その直接的な原因として指摘されるのが「タンハー(Taṇhā)」、すなわち「渇愛(かつあい)」と呼ばれるものです。これは文字通り、喉が渇いた者が水を切望するように、尽きることのない強い欲求や渇望を意味します。

タンハーは、主に三つの種類に分類されます。

  1. カーマ・タンハー(kāma-taṇhā):感覚的快楽への渇望

    これは、目(色)、耳(声)、鼻(香)、舌(味)、身(触)という五感、そして意(心、思考やイメージ)を通じて得られる快い刺激を求め、それに耽溺したいという欲求です。美味しい食事、心地よい音楽、魅力的な異性、物質的な豊かさ、賞賛や承認など、私たちが日常的に「快楽」として認識するものの多くがここに含まれます。

  2. バヴァ・タンハー(bhava-taṇhā):生存への渇望

    これは、「存在し続けたい」「生きたい」という根源的な欲求、あるいは自己同一性を維持したい、より良い存在として生まれ変わりたい(例えば天界へ)といった願望を指します。自己肯定感や成功願望、永続性への希求などがこれに関連します。

  3. ヴィバヴァ・タンハー(vibhava-taṇhā):非存在への渇望

    これは一見、前の二つと矛盾するように見えますが、苦痛や不快な状況から逃れたい、消えてなくなりたい、という欲求です。苦境に陥った際の自暴自棄な思いや、虚無主義的な思考、あるいは「この苦しい輪廻から完全に抜け出したい」という強い衝動も、このヴィバヴァ・タンハーの一形態と解釈されることがあります。

これらの渇望、特に感覚的快楽への渇望(カーマ・タンハー)は、どのようにして生まれるのでしょうか。仏教の教え、特に「十二縁起(じゅうにえんぎ)」は、苦しみが生まれるプロセスを詳細に分析しています。その中で、私たちの感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)が外部の対象(六境:色声香味触法)と接触する「触(そく)」によって、「受(じゅ、ヴェーダナー)」、すなわち快・不快・どちらでもない、という感受作用が生じると説かれます。そして、この「快」の感受(楽受)に対して、私たちは「もっと欲しい」「失いたくない」という「愛(あい、タンハー)」、すなわち渇望を抱くのです。逆に、「不快」の感受(苦受)に対しては、それを避けたい、なくしたいという渇望(これも広義にはタンハーに含まれることがあります)が生じます。

現代社会は、このカーマ・タンハーを巧妙に刺激し、増幅させる仕組みに満ちていると言えるでしょう。広告は常に新しい製品やサービスへの欲望を掻き立て、SNSは他者との比較や「いいね!」による承認欲求を煽ります。エンターテイメントや消費文化は、次から次へと感覚的な快楽を提供し続けますが、その効果は一時的であり、すぐにまた次の刺激を求める、終わりのない渇望のサイクルへと私たちを誘い込みます。それはまるで、喉の渇きを癒そうと塩水を飲むようなものかもしれません。飲めば飲むほど、渇きは増していくのです。

 

掴んで離さない心:執着(ウパーダーナ)という名の縛り

渇望(タンハー)が、特定の対象や状態に対してより深く、強固に根を下ろしたものが「執着(しゅうじゃく)」、すなわち「ウパーダーナ(Upādāna)」です。ウパーダーナは「燃料」「栄養」といった意味も持ち、生命が輪廻を続けるための「燃料」とも解釈されます。タンハーが「欲しい」という欲求の段階であるとすれば、ウパーダーナはそれを「掴んで離さない」「しがみつく」という、より能動的で固定化された心の状態を指します。これは、私たちの苦しみをさらに深刻化させる要因となります。

仏教では、主に四つの執着(四取:ししゅ)が挙げられます。

  1. 欲取(よくしゅ、kāmupādāna):感覚的欲望(カーマ)への執着

    特定の感覚的快楽や、それをもたらす対象(人、物、場所など)に対する強いこだわり、手放せない心です。タンハーが具体的な形をとって固着したものと言えます。

  2. 見取(けんしゅ、diṭṭhupādāna):誤った見解(ディッティ)への執着

    自分自身の考え方、信念、イデオロギーなどが絶対的に正しいと思い込み、それに固執することです。異なる意見を受け入れられなかったり、自説に合わない現実を認められなかったりする頑なさが、対立や苦悩を生みます。

  3. 戒禁取(かいごんしゅ、sīlabbatupādāna):特定の儀式や戒律(シーラ・ヴァタ)への執着

    特定の儀礼や修行法、道徳規範などを守ること自体が解脱や救済をもたらす、という形式主義的な考えに囚われることです。本来の目的を見失い、形式にこだわるあまり、かえって心が縛られてしまう状態を指します。

  4. 我語取(がごしゅ、attavādupādāna):自我(アートマン)が実在するという観念(ヴァーダ)への執着

    「私」という固定的な実体が存在するという考え(我見)にしがみつくことです。仏教の根本的な教えの一つである「無我(むが、アナッタン)」の対極にあるもので、この「私」という感覚があるからこそ、「私のもの」という所有欲や、「私」を守ろうとする防衛心、他者との比較や優劣の意識が生じ、あらゆる対立や苦しみの根源となると考えられています。

 

これらの執着は、対象が変化したり失われたりすることへの恐れや抵抗を生み出します。しかし、仏教が説くように、この世のあらゆる事象は「無常(むじょう、アニッチャ)」であり、常に変化し続けています。変化こそが宇宙の法則であるにもかかわらず、私たちは変化しないもの、永続するものを求め、それに執着することで、必然的に苦しみ(ドゥッカ)を経験することになるのです。特に「私」という感覚(我語取)は、他のすべての執着の土台となっているとも言え、この「私」へのこだわりを手放すことが、解放への重要な一歩となるわけです。

 

東洋思想の潮流:欲望と苦しみを巡る思索の系譜

欲望や執着と苦しみの関係についての洞察は、仏教だけに見られるものではありません。インドを発祥とする様々な思想潮流、そして広く東洋思想全体において、このテーマは繰り返し探求されてきました。その歴史的背景と思想的文脈を概観することは、この問題の普遍性と奥行きを理解する上で不可欠です。

  • 古代インド(ヴェーダ、ウパニシャッド):

    仏教以前のバラモン教の聖典であるヴェーダや、その哲学部門であるウパニシャッドにおいても、欲望(カーマ)は重要なテーマでした。そこでは、行為(カルマ)とその結果によって次の生が決まるという「輪廻(サンサーラ)」の思想が展開されます。欲望に基づいた行為は新たなカルマを生み、私たちを輪廻のサイクルに縛り付ける主要な原因の一つと考えられました。ウパニシャッド哲学では、宇宙の根本原理であるブラフマンと個体の本質であるアートマンが同一であるという真理(梵我一如)を悟ることによる「解脱(モークシャ)」が目指されますが、その過程で感覚的な欲望や世俗的な執着を超克することが重要視されました。祭祀(カルマ・カーンダ)や知識(ジュニャーナ・カーンダ)、後には神への信愛(バクティ)といった解脱への道が示される中で、欲望の制御は共通の課題であり続けたのです。

  • 初期仏教:

    ゴータマ・ブッダは、これらの先行思想を踏まえつつ、より実践的かつ心理学的なアプローチで苦しみの問題を徹底的に分析しました。先に述べた「四諦」において、苦しみの原因(集諦)は渇愛(タンハー)であると明確に特定し、その渇愛を滅すること(滅諦)によって苦しみの消滅(ニルヴァーナ、涅槃)が実現可能であると説きました。そして、その具体的な実践方法として「八正道(はっしょうどう)」を示しました。また、「十二縁起」の教えは、渇愛(愛)が執着(取)を生み、それが生存(有)と次の生(生)、そして老死へと繋がっていく輪廻のメカニズムを解き明かしました。「無常・苦・無我」という三つの真理(三相)の洞察は、感覚的快楽を含むあらゆるものが移ろいゆくものであり、それに実体(我)はなく、執着すれば苦しみとなる、という仏教の根本的な世界観を示しています。

  • ヨーガ哲学:

    仏教とほぼ同時期か、あるいはそれ以前から存在したとされるヨーガの伝統もまた、心の制御を通じて苦しみからの解放を目指します。パタンジャリによって編纂されたとされる根本経典『ヨーガ・スートラ』では、ヨーガを「心の作用(チッタ・ヴリッティ)を止滅すること」と定義します。心の作用を引き起こし、私たちを苦しみに縛り付ける根本的な原因として、五つの「煩悩(クレーシャ)」が挙げられます。それは、無明(アヴィディヤー:真理を知らないこと)、我執(アスミター:「私」という意識)、貪欲(ラーガ:快楽への愛着)、嫌悪(ドヴェーシャ:苦痛への憎悪)、生命欲(アビニヴェーシャ:死への恐怖、生への執着)です。

    この中の「ラーガ」は、まさに過去の快楽体験(楽受)の記憶に基づいて、その対象へと引き寄せられる愛着や渇望を意味し、仏教のタンハーやウパーダーナと極めて近い概念です。ラーガ(貪欲)とドヴェーシャ(嫌悪)は、コインの裏表のように、快楽への渇望と苦痛への忌避という形で、私たちの心を絶えず揺り動かし、苦しみ(ドゥッカ)を生み出す直接的な原因となります。ヨーガの八つの実践階梯「八支則(アシュターンガ・ヨーガ)」の最初の二つ、ヤマ(禁戒)とニヤマ(勧戒)には、アヒンサー(非暴力)、サティヤ(正直)、アパリグラハ(不貪:必要以上に所有しない、貪らない)といった、欲望や執着を直接的に制御するための倫理的な実践が含まれています。特にアパリグラハは、感覚的快楽への渇望を手放す上で中心的な役割を果たす教えです。

  • その他の東洋思想:

    中国の道教においては、「無為自然」の思想が説かれます。人為的な計らいや欲望を抑え、万物が持つ本来の自然なあり方に身を委ねることによって、道(タオ)と一体となり、安らぎを得ようとします。過剰な欲望は、この自然な流れを乱すものとして捉えられます。また、儒教においても、「克己復礼(こっきふくれい)」という言葉に象徴されるように、私的な欲望(克己)を克服し、社会的な規範や礼儀(礼)に従うことが重視されました。これもまた、個人の欲望を制御し、調和の取れた状態を目指す思想と言えるでしょう。

このように、東洋の様々な思想潮流は、それぞれの文脈やアプローチの違いこそあれ、制御されない欲望や執着が苦しみや不調和の根源であるという認識を共有し、その克服への道を模索してきたのです。

 

鏡としての現代社会:増幅される欲望と「足るを知る」ことの困難

これらの古来の叡智に照らして現代社会を眺めると、私たちは欲望や執着をかつてない規模で刺激され、増幅させるシステムの中に生きていることに気づかされます。資本主義経済は、本質的に「もっと多く」を求める成長の論理に基づいています。絶え間ない生産と消費のサイクルを回し続けるためには、人々の欲望を常に喚起し、新しい「必要」や「快楽」を創り出す必要があります。広告、マーケティング、そして次々と登場する新製品やサービスは、私たちに「これがあればもっと幸せになれる」「これを手に入れなければ取り残される」というメッセージを送り続け、感覚的な渇望(カーマ・タンハー)を巧みに刺激します。

加えて、インターネットとソーシャルメディアの普及は、この傾向をさらに加速させているように見えます。SNSは、他者の「輝かしい」生活(しばしば演出されたものですが)を可視化し、比較や羨望の感情を掻き立てます。他者からの「いいね!」やコメントは、承認欲求という名の、これもまた一種の感覚的(心理的)快楽への渇望を満たしますが、その効果は一時的であり、さらなる承認を求めて、私たちは終わりなき自己演出と他者との比較のゲームに駆り立てられがちです。「映え」を意識した行動は、本来の体験そのものよりも、それをいかに他者に見せるか、という点に重心を移し、私たちの感覚をある意味で疎外しているのかもしれません。

このような環境の中で、「足るを知る(たるをしる)」という、古くから伝わる質素な満足の感覚を維持することは、ますます困難になっているのではないでしょうか。常に外部からの刺激に晒され、次なる快楽や目標へと駆り立てられる中で、内なる静けさや現在の瞬間への感謝を見出すことは容易ではありません。それはあたかも、社会全体が巨大な「渇望増幅装置」として機能しているかのようです。私たちは、システムの要請に応えて欲望し、消費し続けることで、知らず知らずのうちに、そのシステムの維持に加担している、という構造があるのかもしれません。こうした状況を自覚し、少し距離を置いて見つめ直す視点を持つことが、現代における「主体的」な生き方の第一歩となるのではないでしょうか。

 

欲望と執着の波を乗りこなす:ヨガと仏教の実践的智慧

では、私たちはこの強力な欲望と執着の力に、どのように向き合っていけばよいのでしょうか。仏教やヨーガの叡智は、欲望を悪として完全に否定したり、禁欲的な苦行を推奨したりするものではありません(少なくとも、多くの流派ではそうです)。むしろ、欲望や執着の性質とメカニズムを深く理解し、それらに振り回されることなく、賢く付き合っていくための実践的な方法論を提供してくれます。目指すのは、欲望の波に飲み込まれるのではなく、サーファーのようにその波を乗りこなす術を身につけること、と言えるかもしれません。

  • マインドフルネス(気づき):今、ここに立ち返る力

    近年、広く注目されているマインドフルネスは、仏教の瞑想実践にルーツを持つ、極めて有効なアプローチです。これは、自身の思考、感情、感覚的な体験に対して、価値判断を加えずに、ただ「気づいている」状態を育む訓練です。欲望や渇望が生じた瞬間、あるいはそれに伴う心地よさや不快感が生じた瞬間に、「ああ、今、渇望が生じているな」「快い感覚があるな」と、一歩引いたところから客観的に観察します。この「気づき」のスペースが、衝動的な反応(例えば、すぐに快楽を求める行動に移る、あるいは不快感から逃避しようとする)を抑制し、より意識的で賢明な選択を可能にします。

  • 無常(アニッチャ)の受容:変化を受け入れるしなやかさ

    あらゆる快楽も、そして苦痛も、永続するものではなく、常に移ろいゆくものである、という「無常」の真理を深く理解し、受け入れることは、執着を手放す上で大きな助けとなります。快楽にしがみつこうとせず、それが一時的なものであることを知っていれば、失うことへの過度な恐れや、それが去った後の喪失感(苦しみ)を和らげることができます。同様に、苦痛や困難な状況もまた永続しないことを知れば、絶望せずにそれと向き合う強さが生まれます。変化を拒絶するのではなく、変化こそが生命の自然な流れであると受け入れるしなやかさが、心の自由をもたらします。

  • 慈悲(メッター、カルナー):自他への優しさ

    欲望や執着に苦しむ自分自身に対して、そして同様に苦しんでいるであろう他者に対して、慈しみの心(メッター:慈)と思いやりの心(カルナー:悲)を育むことも重要です。私たちはしばしば、自分の欲望や弱さを責めたり、他者の成功や幸福を妬んだりしがちです。しかし、慈悲の心は、そうした自己否定や他者への敵意(これもまた苦しみの源です)を和らげ、より穏やかで寛容な心の状態をもたらします。自分自身への優しさは、完璧ではない自分を受け入れ、欲望との健全な距離感を保つ助けとなり、他者への思いやりは、比較や競争から生じる渇望の連鎖を断ち切る力となります。

  • 八正道と八支則:統合的な実践の道

    仏教の「八正道」(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)やヨーガの「八支則」(ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ)は、単なる個別のテクニックではなく、智慧(パンニャー/ジュニャーナ)、倫理(シーラ/ヤマ・ニヤマ)、精神集中(サマーディ)を統合的に高めていくための体系的な実践道です。正しい理解(正見)に基づき、倫理的な生活(正語、正業、正命、ヤマ、ニヤマ)を送り、心を鍛錬する(正精進、正念、正定、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想)ことを通じて、欲望や執着の根本原因である無明(アヴィディヤー)を克服し、苦しみからの解放を目指します。

  • ヨーガの身体的実践:感覚への気づきと制御

    ヨーガのアーサナ(ポーズ)やプラーナーヤーマ(呼吸法)の実践は、単なる身体運動や健康法にとどまりません。意識を身体の感覚や呼吸に集中させることを通じて、私たちは絶えず外部の刺激へと向かいがちな心を、内なる体験へと引き戻す訓練をします。身体の微細な感覚に気づき、呼吸を制御することで、心の波立ちを鎮め、衝動的な反応パターンから距離を置くことができます。また、アーサナの実践における適度な負荷や不快感(これも一種のドゥッカです)と向き合う経験は、日常生活における困難や不快な状況への耐性を養い、それに対する感情的な反応を和らげる助けともなります。ヤマ・ニヤマで説かれるアパリグラハ(不貪)やサントーシャ(知足)といった教えを、マットの上だけでなく、日常生活の中で意識的に実践することも、欲望との健全な関係を築く上で欠かせません。

これらの実践は、欲望や快楽を完全に否定するのではなく、それらがどのように生じ、どのように私たちに影響を与えるのかを深く理解し、それらに賢く応答するための「心の筋力」を鍛えるプロセスと言えるでしょう。それは、快楽主義と苦行主義という両極端を避ける「中道(ちゅうどう)」の精神の実践でもあります。

 

結論:苦しみの地図を手に、自由への道を歩む

改めて、本稿の出発点となった一文を振り返ってみましょう。「欲望や執着は、感覚的な快楽への渇望から生じ、それが苦しみ(ドゥッカ)の根源となると見なされたのです。」この洞察は、数千年を経てなお、私たちの生の核心を鋭く突いています。感覚的な快楽への尽きない渇望(タンハー)が、対象へのしがみつき(ウパーダーナ)を生み、それが避けられない変化(無常)や思い通りにならない現実(ドゥッカ)との衝突によって、私たちの心に不満足感や苦悩をもたらす。このメカニズムを理解することは、決して私たちを悲観的な諦めに導くものではありません。むしろ、それは苦しみの構造を明らかにする「地図」を手に入れることに他なりません。

どこに問題があり、何が原因となっているのかを知ることによってはじめて、私たちはそこから抜け出すための具体的な道筋を見出すことができます。ヨガや仏教が提供するマインドフルネス、無常の受容、慈悲の心、そして八正道や八支則といった統合的な実践は、この地図を手に、苦しみの迷宮から自由へと歩み出すための、具体的で実践的なガイドとなるでしょう。

現代社会は、巧妙に私たちの欲望を刺激し、消費と渇望のサイクルへと私たちを誘います。しかし、その構造を自覚し、古来の叡智に学びながら、自身の内なる声に耳を澄ませるならば、私たちは外部の刺激に振り回されることなく、より主体的で、穏やかで、そして真に満たされた生き方を選択することができるはずです。

感覚的な快楽が、人生の彩りや喜びをもたらすものであることは確かです。問題は快楽そのものではなく、それへの「渇望」と「執着」にあります。その違いを見極め、欲望の波を賢く乗りこなす術を学ぶこと。それこそが、この複雑で刺激に満ちた現代において、私たちがより自由に、そして軽やかに生きていくための鍵となるのではないでしょうか。この考察が、皆さま自身の心と向き合い、日々の実践を通して、内なる平和と自由を見出すための一助となれば幸いです。

 

「欲望や執着は、感覚的な快楽への渇望から生じ、それが苦しみ(ドゥッカ)の根源となると見なされたのです」

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。