何も持っていないことが悟りのそばにいること。
身軽になっていることが悟りの近くであり、本当の身軽は悟りの一種でもある。
物理的な荷物だけが重いのではない。
精神的な荷物も含めて、持たないこと。
荷物をたくさん持っていませんか。
精神的な縛りをたくさん持っていませんか。
観念や常識が頭をかすめませんか。
それらは気づきの道には荷物になるようです。
すべて放り投げるのは難しいかもしれませんが、すでに不要なものは手放していけます。
何も持たないで大丈夫。
身軽になって、何も持たない道へと歩み始めませんか。
こだわりも持たない
こだわりが少ないことも大事です。
何も持たない。
何もこだわりもない。
持たず、こだわりもなければ、それはある種の気づきそのものです。
何も持たないと気づきが向こうからやってくる。
何か持っていると、気づきがわからない。
気づいた後にも注意が必要。
気づいたあとに、その気づきを所有してしまうことがあります。
誰もが持ってしまいます。
気づきを所有したくなってしまう。
それは注意が必要です。
「あの気づき」もこだわりであり、荷物なのです。
それもまた持たないことです。
持つ必要がありません。
持たないことが気づきなのですから。
踊りの文化
踊っている人には覚醒のエネルギーを感じます。
あるがままに踊っている人はすごい。
感動します。
たくさんの踊りのエネルギーを周りに振りまいてくれています。
ヨガでもナタラージャというポーズがあり、踊りのポーズと呼ばれています。
インド古来のインド舞踊もありますが、インドの踊り文化にもそういったエネルギーを観ている人に送る文化が残っています。
日本には舞がありますね。
日本の舞はそのままあちらの世界とつながることです。
直接的に踊りではない形でも、喜びと至福のエネルギーを振りまいてくれる人がいます。
こだわりを持たず、荷物を持たず、何も持たないで生活している人。
モクシャ(解脱)へのエネルギーを送ってくれているのかもしれません。
まったくいらないものを持っている
モクシャのエネルギーを浴びて失神する人もいるという。
意識の深いところにエネルギーが注ぎ込まれるから。
ゆるんでいる人には届きやすい。
瞑想や呼吸法、ヨガなどはゆるませてくれる。
何も持っていないことが悟りと隣り合わせ。
緊張は悟りから遠ざかる。
ゆるんでいることも悟りに近い状態なのかもしれない。
緊張は瞑想するにはいらないものだ。
まったくいらない。
ねばならないという思考もいらない。
座り方をあれやこれやとやることもいらない。
道元さんもおっしゃっていた通り心身脱落だ。
これを頭でやろうとしても意味がない。
緊張をといて、ゆるめるだけだ。
放下して、任せるだけだ。
使っている頭を脇において、全部やめてしまうこと。
全ての人がその状態になれる。
エネルギーと一つになっていく。
ひとついのちが体感されていく。
終わりに:ゆるゆるとして瞑想に入っていく
SUWARUはゆるめていく瞑想。
ゆるゆると座っていきます。
優しい呼吸で、ゆったりと座っていきます。
奥へ奥へとゆるんで入っていく。
新しいことは何もありません。
ただ座るだけです。
身体の緊張を解いていくだけです。
身体にかかっている負荷を取り除いていく。
余分な力みを手放していく。
それだけ。
それだけで瞑想の世界へと入っていけます。
瞑想に入れないのは、余計なことをしているから。
あれやこれやと考えごとをしているから。
それらを手放した時に瞑想がやってくる。