私たちは人生という旅路において、無意識のうちに経験の選り好みをしています。喜びや成功、愛といった「ポジティブ」な経験を求め、それらを引き寄せようと努力します。一方で、悲しみや失敗、喪失といった「ネガティブ」な経験は避けたいと願い、それらが訪れると抵抗し、嘆きます。しかし、人生の深奥に触れる旅は、この二元的な仕分けを手放し、訪れるすべての経験を、良し悪しの判断なく、ただ聖なるものとして受け入れる「祝福」の態度を学ぶことから始まります。
「祝福する」とは、単に無理やり前向きに考えようとするポジティブ・シンキングとは根本的に異なります。それは、人生が私たちにもたらすすべての出来事――たとえそれがどれほど痛みを伴うものであっても――の背後には、私たちの魂の成長を促すための深い叡智と愛が隠されている、という絶対的な信頼に基づいた態度です。それは、人生という名の偉大な師の前に、謙虚に頭を垂れる行為に他なりません。
この思想は、ヨガ哲学におけるサントーシャ(知足)の概念を、さらに発展させたものと捉えることができます。サントーシャは、一般的に「今あるものに満足すること」と訳されますが、その真髄は、外側の状況がどうであれ、内なる平和を保つ能力です。そして、その究極の形が、現状にただ満足するだけでなく、人生が差し出すあらゆるカードを、成長のための貴重な贈り物として感謝と共に受け取ること、つまり「祝福する」ことなのです。
中国の古典『淮南子』に「塞翁が馬」という有名な故事があります。国境の砦に住む老人の馬が逃げた時、人々が慰めると、老人は「これが幸福をもたらすかもしれない」と言います。やがてその馬が駿馬を連れて帰ってくると、人々が祝福しますが、老人は「これが不幸の元になるかもしれない」と平静です。その息子が駿馬から落ちて足の骨を折ると、人々は同情しますが、老人はまたも「これが幸いするかもしれない」と言いました。その後、戦争が起こり、若者たちは皆徴兵されましたが、息子は足が不自由だったために戦地へ行かずに済み、命拾いしました。この物語は、人間の近視眼的な視点では、何が幸いで何が不幸かなど到底判断できないという、深遠な真理を教えてくれます。
私たちが何かの出来事に「悪い」「不幸だ」というラベルを貼る瞬間、私たちはその経験の流れに逆らって抵抗を始めます。この抵抗こそが、エネルギーを消耗させ、私たちを苦しめる元凶です。祝福とは、この無益な抵抗を手放すための、最もパワフルな呪文です。困難な状況に直面した時、「なぜ私がこんな目に」と問う代わりに、「この経験は、私に何を教えようとしているのだろうか?」「この出来事を通して、私はどんな強さや優しさを学ぶことができるのだろうか?」と、その問いの質を変えてみるのです。
学びというのは、本質的に、自分の思い通りにならないことからしか始まりません。すべてが計画通りに進む快適な環境では、私たちは成長しないのです。予期せぬトラブル、痛みを伴う別れ、屈辱的な失敗。それらこそが、私たちの器を広げ、傲慢さを砕き、他者への共感力を育むための、最高の「稽古」の場となります。そのように捉える時、私たちは逆境を呪うのではなく、私たちを鍛え、成熟させてくれる「師」として、敬意をもって迎え入れることができるようになります。
今日一日、あなたの身に起こるすべてのことを、意識的に祝福してみてください。朝のコーヒーの香り、通勤電車の混雑、仕事での小さな成功、同僚との意見の対立、夕焼けの美しさ、一日の疲れ。その一つ一つが、あなたの人生を彩る、かけがえのない贈り物です。人生のすべてを祝福するとは、人生そのものとの間に結ぶ、絶対的な信頼の契約なのです。その時、あなたはもはや人生の波に翻弄される漂流者ではなく、どんな波をも乗りこなす、熟練のサーファーとなるでしょう。


