私たちの生は、この世に生を受け、やがて死を迎えるという、わずか数十年から百年ほどの短い物語で完結してしまうのでしょうか。もしそうだとすれば、人生における理不尽な苦しみや、人々の間に存在する才能や境遇の埋めがたい格差を、私たちはどう理解すればよいのでしょう。
インドで生まれ、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教といった東洋思想の根幹をなす「輪廻転生(サンサーラ)」の世界観は、この問いに対して、私たちの視野を遥か時空の彼方へと広げる、壮大な視点を提供してくれます。輪廻転生とは、生命は一度きりの死で終わるのではなく、その本質である魂(アートマンやジーヴァと呼ばれる)が、自らの行為(カルマ)の結果に従って、新たな肉体を得て何度も生まれ変わりを繰り返す、という思想です。
それは、まるで学生が単位を取得して卒業するまで、様々な学年やクラスを経験しながら学びを深めていくのに似ています。魂は、解脱(モークシャ)や涅槃(ねはん)と呼ばれる、あらゆる苦しみからの解放と、宇宙の真理との完全な合一を果たすまで、人間として、あるいは時には他の生命体として、果てしない学びの旅を続けているのです。
この視点に立つ時、私たちの人生観は根底から覆されます。
まず、人生で遭遇する困難や苦しみの意味が変容します。それはもはや、単なる不運や罰ではなく、魂が特定のレッスンを学ぶために、自らが設定してきた「カリキュラム」の一部として見えてきます。例えば、今生で人間関係に深く悩んでいる魂は、過去生で他者を傷つけたカルマを解消し、「慈悲」や「許し」を学ぶために、あえてその課題を選んできたのかもしれません。病気や貧困といった境遇も、魂が「謙虚さ」や「内なる豊かさ」といった徳性を磨くための、貴重な試練と捉えることができるのです。
次に、死に対する恐怖が和らぎます。死は、存在の完全な消滅ではなく、古い衣服を脱ぎ捨てて新しい衣服に着替えるような、次なるステージへの「移行」に過ぎないと理解できるからです。それは、一つの学年を終えて、春休みの後に新しい学年に進級するようなもの。この世での役割を終えた魂は、しばしの休息期間を経て、次なる学びの場へと旅立っていくのです。この理解は、死への絶望的な恐怖を、静かな受容と信頼へと変容させる力を持ちます。
さらに、他者への深い共感と慈悲が生まれます。目の前にいる、たとえ苦手な相手であっても、その人もまた、自分と同じように、数えきれないほどの生を輪廻し、喜びや悲しみを経験しながら必死に学びを続けている「魂の同級生」なのだと分かれば、個人的な好き嫌いを超えた、敬意といたわりの念が湧いてくるのではないでしょうか。
デジャヴ(既視感)や、特定の場所や文化への強い郷愁、あるいは、幼い頃から発揮される非凡な才能(ギフテッド)といった現象も、輪廻転生というフレームワークを用いることで、過去生で培った経験や記憶の断片が、今生に現れたものとして説明することができます。
輪廻転生という思想を、科学的に証明することはできないかもしれません。しかし、大切なのは、それを盲目的に「信じる」ことではなく、この壮大な物語を、自らの人生をより深く、より意味豊かに生きるための「視点」として採用してみることです。
あなたが今、この人生で経験しているすべてのことは、魂の長い、長い旅路における、かけがえのない一場面なのです。この視点を持つことで、目先の成功や失敗に一喜一憂する小さな自己から解放され、より大きな目的意識と、揺るぎない落ち着きをもって、今この瞬間を生きることができるようになります。あなたの魂は、悠久の時を超えて旅を続ける、勇敢で賢明な旅人なのです。その旅の尊さを、どうか忘れないでください。


