私たちの生は、一見すると矛盾に満ちた二つの力のあいだで、常に繊細な踊りを踊っているかのようです。その二つの力とは、「努力」と「委ね」。自らの意志でオールを漕ぎ、目的地へ向かおうとする力と、風や海流という大いなる流れに身を任せる力。この両者は対立するもののように見えますが、実はどちらか一方だけでは、人生という航海は成り立ちません。ヨガの叡智は、この二つの力を敵対させるのではなく、いかにして調和させ、その絶妙な均衡点、いわば「中道」を見出すかを教えてくれます。
ヨーガ・スートラの父、パタンジャリは、心の揺らぎを鎮めるための具体的な方法として、二つの柱を提示しました。それが「アビヤーサ(Abhyāsa)」と「ヴァイラーギャ(Vairāgya)」です。
アビヤーサとは、修練、鍛錬、絶え間なく続く実践を意味します。それは、毎朝決まった時間にマットを敷くという具体的な行動であり、苦手なアーサナに根気強く向き合う粘り強さであり、自らの心を観察し続けようとする意志の力です。これはまさしく「努力」の側面。私たちが自らの足で一歩一歩、道を切り拓いていく能動的なエネルギーと言えるでしょう。このアビヤーサなくして、変化や成長はあり得ません。それは、楽器の名手になるために日々の練習を欠かさないことや、武道家が何千回、何万回と素振りを繰り返すことに似ています。身体に、そして心に、新しい回路を刻み込むための、誠実で地道な営みなのです。
一方、ヴァイラーギャとは、離欲、非執着、すなわち「委ね」を指します。どれだけ懸命に努力しても、その結果がどうなるかは、私たちのコントロールを超えた領域にあります。アーサナが昨日より深まるかどうか、瞑想で静寂が得られるかどうか、そして人生で願ったことが叶うかどうか。これらすべてを「こうでなければならない」と固く握りしめている時、私たちの心身は緊張し、エネルギーの流れは滞ってしまいます。ヴァイラーギャとは、その固く握りしめた拳をそっと開いてみること。自らの努力を尽くした上で、「あとはお任せします」と大いなる存在、宇宙、あるいは生命の流れそのものに明け渡す、という受容的な態度です。
この二つのバランスは、アーサナの実践において非常に分かりやすく体感できます。例えば、戦士のポーズⅡ(ヴィーラバッドラーサナⅡ)を思い浮かべてみてください。大地を力強く踏みしめ、両腕を水平に保ち、体幹を安定させようとするのはアビヤーサの力です。しかし、同時に肩の力を抜き、表情を和らげ、呼吸が自然に流れ込む余地を残すのはヴァイラーギャの働き。力みすぎれば筋肉は硬直し、呼吸は浅くなります。逆に力が抜けすぎれば、ポーズは崩れてしまう。その境界線上で、安定(スティラ)と快適さ(スカ)が両立する一点を探し続けること。これこそが、努力と委ねのダンスに他なりません。
これは、いわゆる「引き寄せの法則」を実践する上でも、極めて重要な視座を与えてくれます。自分の望みを明確にし、意図(サンカルパ)を立て、それに向かって行動を起こすのは、アビヤーサです。しかし、その願いが「いつ、どのように」叶うのかというプロセスに執着し、四六時中やきもきしている状態は、流れを堰き止める抵抗を生み出します。意図という矢を放ったら、その矢が的のどこに当たるかは、天に任せる。この信頼に満ちた手放しが、ヴァイラーギャです。面白いことに、私たちが「どうにかしよう」とコントロールしようとするのをやめた時、宇宙は最も創造的で、予想もしなかったような形で応えてくれることが少なくありません。
努力と委ねは、吸う息と吐く息のようなものです。吸う息(努力)だけで生きることはできず、吐く息(委ね)だけでも生きられない。その両方がリズミカルに繰り返されることで、生命は維持されます。あなたの人生において、今、どちらのエネルギーが強いでしょうか。もしかしたら、もう少しだけ力を抜いて、流れを信頼してみる時期かもしれません。あるいは、もう少しだけ、自分の可能性を信じて、力強くオールを漕ぎ出す勇気が必要な時なのかもしれません。
その答えは、外にはありません。静かにマットの上に座り、自らの呼吸に耳を澄ませる時、あなたの内側から、その絶妙なバランスポイントが、おのずと見えてくるはずです。それは、日々の実践という稽古の中でしか体得できない、身体知なのです。


