カルマヨガの神髄を、最も純粋な形で体現する行為。それが、「誰かのために、見返りを求めずに行動する」という、無償の奉仕です。私たちの日常的な行為の多くには、意識的か無意識的かにかかわらず、巧妙な「取引」の感覚が潜んでいます。「これをしてあげたのだから、感謝されるべきだ」「こんなに尽くしたのだから、評価されて当然だ」「いつか困った時には、助けてもらえるだろう」。こうした見返りへの期待は、私たちの親切心に、自我という名の不純物を混入させ、行為そのものの輝きを曇らせてしまいます。
見返りを求める心は、行為者を「債権者」の立場に置きます。相手に「感謝」や「評価」という名の負債を負わせ、その返済を心のどこかで待っている。この状態は、常に緊張と不満の種をはらんでいます。期待通りの見返りがなければ、「裏切られた」と感じて怒りや失望が生まれ、たとえ見返りがあったとしても、今度は「もっと大きな見返り」を求めてしまう。この欲望の連鎖には、終わりがありません。
「見返りを求めない行為」とは、この債権者意識から、完全に自由になるための実践です。それは、行為の所有権を、完全に放棄すること。「私」が、誰かのために何かをして「あげた」のではありません。ただ、宇宙の大きな流れの中で、私というパイプを通して、必要なエネルギーや助けが、その人の元へと流れていっただけ。私は、その媒体となれたことに、ただ感謝する。この視点に立つとき、行為は「私」のものではなくなります。
この思想は、大乗仏教における「布施(ふせ)」の精神と深く共鳴します。布施の中でも最高のあり方とされるのが、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」と呼ばれるものです。これは、
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施す人(自分)
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施される人(相手)
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施すもの(物や行為)
この三つが、すべて本質においては実体のない「空(くう)」であると観じ、いかなる執着も持たずに行うことを意味します。施す「私」という自我も、施される「相手」という固定的な存在も、施す「物」への所有感も、すべては仮の姿であり、その根底では一つの大きな生命の流れの中で繋がっている。この深遠な洞察が、見返りを求める心を、根こそぎ消し去るのです。
では、この無償の奉仕を、私たちはどのように実践すればよいのでしょうか。それは、大げさなボランティア活動や多額の寄付である必要は全くありません。むしろ、誰にも気づかれないような、ささやかな「陰徳」を積むことこそが、自我を薄めるための、この上ない稽古となります。
例えば、会社の共有スペースが汚れていたら、誰に言われるでもなく、そっと綺麗にする。道端に落ちているゴミを、さっと拾ってゴミ箱に入れる。SNSで誰かの素晴らしい投稿を見つけたら、ただ「いいね」を押すだけでなく、その人のためになるような、温かいコメントを添える。匿名で、自分の信じる活動に少額の寄付をする。こうした行為は、誰からの賞賛も、見返りも期待できません。だからこそ、その行為は純粋であり、行う側の心を、静かな喜びで満たしてくれるのです。
この「見返りを求めず与える」という行為が、「引き寄せ」の観点から見ても、極めてパワフルであることは、もはや言うまでもないでしょう。それは、「私はすでに十分に満たされており、豊かであるからこそ、分かち合うことができる」という、最も強力な豊かさの宣言を、宇宙に向かって放つ行為だからです。欠乏感から「もっとください」と願う波動とは、全く周波数が異なります。宇宙は、その充足感に満ちた「どうぞ」という波動に共鳴し、さらなる豊かさの流れを、あなたの元へと送り届けるのです。
最終的には、「誰かのために」という思いすら、手放していく境地があります。ただ、目の前に為すべきことがあるから、為す。花が、誰のためでもなく、ただその本性に従って咲き誇るように。鳥が、誰に聴かせるためでもなく、ただ内なる衝動から歌うように。その時、あなたの行為は、完全に宇宙の摂理と一体化します。その純粋で無心な行為の中にこそ、私たちは、人間として到達しうる、最も深く、最も自由な喜びを見出すことができるのです。


