「空っぽになる」という言葉に、私たちはどこか寂しさや欠乏のニュアンスを感じ取るかもしれません。予定が何もない週末、思考がからっぽになった瞬間、私たちは不安に駆られて、すぐに何かでその「空白」を埋めようとします。しかし、東洋思想の深遠な智慧、特に仏教の中心概念である「空(くー)」、サンスクリット語で「シューニャター」は、この「何もないこと」に対する私たちの認識を根底から覆します。それは虚無や欠乏ではなく、むしろ無限の可能性を秘めた、創造の母胎そのものなのです。「空」になること。それは、宇宙の豊かさを余すところなく受け入れるための、最も神聖なスペースを自らの内に用意する行為に他なりません。
まず明確にしたいのは、「空」とは虚無(ニヒル)ではない、ということです。それは、すべての事物や現象が、それ自体で独立して存在する固定的な「実体」を持たない、という洞察です。目の前のカップは、粘土、水、火、そしてそれを作った職人の技術といった、無数の原因と条件(縁)が集まって、一時的に「カップ」という姿を現しているにすぎません。その縁が散れば、カップはまた別のものへと姿を変えます。このように、すべては相互に依存し合い、絶えず変化し続ける関係性の網の目の中に存在している。これが「空」の真意であり、「縁起」の理法です。
この思想は、道教の「虚」の概念とも響き合います。『老子』には「器は、中が空であるからこそ、物を入れることができる」という趣旨の言葉があります。部屋は、空間があるからこそ住むことができます。価値は、壁や床という「有」にあるのではなく、その内側の「無」にある。同様に、私たちの心も、知識や信念、アイデンティティや計画で満杯になっていては、新しいインスピレーションや予期せぬ幸運が入り込む余地はありません。自ら進んで「空」になることで、私たちは初めて、宇宙が絶えず送り続けてくれている贈り物を受け取る器となれるのです。
ヨガの実践において、この「空」になる稽古の最も象徴的なものが「シャヴァーサナ(屍のポーズ)」です。練習の最後に、ただ仰向けになり、身体のすべての力を大地に預けます。思考の働きを止め、自分が誰であるかという自己同一化さえも手放し、ただの「存在」へと還っていく。最初は落ち着かなく感じるかもしれませんが、この完全なる降伏と弛緩の先に、深い安らぎと再生のエネルギーが満ちてくるのを体験するでしょう。シャヴァーサナは、私たちが日々無意識に握りしめているものを手放し、純粋な「空」の器に戻るための、神聖な儀式なのです。これは、ヨガの八支則における「アパリグラハ(不貪)」、すなわち不必要なものを所有しない、執着しないという教えの、究極的な実践とも言えます。
現代社会は、私たちに常に「何かであること」「何かをすること」を強います。スケジュール帳は埋まっているほど有能で、頭は知識で満ちているほど賢いとされます。しかし、この「過剰」こそが、私たちの創造性や直感を窒息させている元凶かもしれません。トランサーフィンの考え方では、何かを強く望みすぎると「余剰ポテンシャル」という不自然なエネルギーの歪みが生まれ、かえって実現を妨げるとされます。「空」になることは、この余剰ポテンシャルを解放し、世界をあるがままに、軽やかに捉え直すための技術です。
では、日常でどう「空」を実践すればよいのでしょうか。それは、意図的に「何もしない時間」を作ることです。スマートフォンを置き、テレビを消し、ただ窓の外を眺める。目的もなく散歩をする。思考が湧いてきたら、それを追いかけず、ただ空に浮かぶ雲のように見送る。それは、情報や刺激を詰め込む「足し算」の生き方から、不要なものを手放していく「引き算」の生き方へのシフトです。
「空」は、無ではありません。それは、静寂であり、無限の可能性をはらんだ沈黙です。あなたが勇気を出して自らの内に「空」という聖なる空間を創り出す時、宇宙はその空間を、あなたが想像もしなかったような愛と知恵、そして豊かさで満たしてくれるでしょう。空っぽの器にこそ、すべては注がれるのです。


