私たちは、過去の失敗やトラウマが、現在の私たちを縛る重い足枷になることをよく知っています。しかし、意外なことに、過去の輝かしい「成功体験」もまた、時として私たちの成長を妨げる、甘く、そして強力な足枷となり得るのです。
かつて達成した大きな成果、周囲から受けた賞賛、頂点に立った瞬間の高揚感。これらの記憶は、自尊心の源となり、困難な時に私たちを支えてくれることもあります。しかし、その光が強すぎると、私たちはその栄光の影に囚われてしまう危険があるのです。「あの時の自分は最高だった」「もう一度、あの栄光を」。過去の成功が、現在の自分を評価する絶対的な基準となってしまうと、私たちは「あの時の自分」という亡霊と、現在の自分を常に比較し続けることになります。そして、多くの場合、現在の自分は色褪せて見え、新しい挑戦への一歩が、途方もなく重くなってしまうのです。
これは、ヨガ哲学における「アパリグラハ(Aparigraha)」、すなわち「不貪」の教えの、より深い次元の適用を私たちに求めます。アパリグラハは、単に物質的な所有欲を手放すことだけを意味しません。それは、地位、名声、評判、そして「成功した自分」というアイデンティティへの執着といった、目に見えない所有物をも手放すことを含みます。なぜなら、それらにしがみつくことは、絶えず変化し成長していくべき「今、ここ」の自分を、過去という名の剥製にしてしまう行為に他ならないからです。
この精神は、禅の言葉である「初心(しょしん)」の重要性と見事に共鳴します。達人の境地とは、すべてを知り尽くした傲慢な心ではなく、常に物事に初めて出会うかのような、謙虚で、驚きに満ちた、開かれた心であると言われます。過去の成功体験は、この「初心」を曇らせる最大の要因となり得ます。「私はもう知っている」「私のやり方が正しい」。そう思った瞬間に、学びは止まり、成長は止まってしまうのです。日本の武道や芸道の世界で、師が弟子に「昨日の我に今日は勝つべし」と教えるのも、過去の自分を乗り越え続けることこそが、真の修行であると知っているからです。
では、この心地よい過去の栄光から、どうすれば自由になれるのでしょうか。それには、静かな内省と、少しの「勇気」が必要です。
まず、自分が過去の成功を繰り返し語っている時や、その記憶に浸っている時に、その事実に気づくことから始めましょう。そして、自問します。「この過去の成功は、今の私のどんな行動を制限しているだろうか?」「『あの時のようにはできないかもしれない』という恐れが、新しい挑戦を躊躇させてはいないだろうか?」。
象徴的な行為も助けになります。かつての成功の証であるトロフィーや賞状、記事の切り抜きなどを、一度、目の届かない場所にしまってみるのです。それは、それらの価値を否定するのではありません。それらがなくても、「今の自分」には価値があるのだと、自分自身に宣言するための儀式です。
身体的なアプローチとしては、いつもと違うヨガのシークエンスに挑戦したり、慣れたアーサナにいつもとは違う入り方を試みたりすることが有効です。身体が慣れ親しんだパターンから抜け出すことは、心のパターンを打ち破るための強力なきっかけとなります。過去の成功に固執する心は、身体の動きをも予測可能で、硬直したものにしがちです。身体に新しい動きを教えることで、心にも新しい風が吹き込むのです。
過去の成功体験は、あなたの素晴らしい旅路の一コマであり、あなたの可能性の一つの現れに過ぎません。それは、決してあなたのすべてではありません。その美しい一ページにしがみつくことは、残りの、まだ書かれていない素晴らしい物語を読む機会を、自ら放棄するようなものです。
その成功体験を手放す勇気を持った時、あなたは再び、無限の可能性が広がる、広大な未知の荒野に立つことができます。そこには、保証も、地図もありません。しかし、だからこそ、あなたは以前の自分を遥かに超えるような、全く新しい景色を発見することができるのです。アーティストが「最高の作品は、常に次の作品だ」と語るように、あなたの人生の最高の瞬間もまた、常に「これから」にあるのです。


