私たちは、自分の人生という船の舵を、自分自身で握っていると信じたい生き物です。天気予報をチェックし、航路を緻密に計画し、羅針盤と地図を頼りに、安全な港を目指そうとします。この「コントロールしたい」という欲求は、未来への不安から身を守り、カオス(混沌)に満ちた世界に秩序を与えようとする、人間の自然な本能と言えるでしょう。
しかし、ひとたび大海原へ出てみれば、予報にない嵐が吹き荒れ、予期せぬ海流に流され、地図にない島が突如として現れる、ということばかりです。人生とは、本質的に予測不可能で、コントロール不能な要素に満ちています。私たちが本当にコントロールできるのは、自分の内なる反応や選択という、ごく限られた領域だけなのです。
この「コントロールできる」という幻想と、「コントロールできない」という現実との間のギャップこそが、現代人を苛むストレスや不安の、最大の源泉となっています。私たちは、コントロールできないものをコントロールしようと、必死にもがき、膨大なエネルギーを浪費しているのです。
ヨガの哲学は、この世界が「三つのグナ(性質)」、すなわちサットヴァ(純粋性・調和)、ラジャス(激動・情熱)、タマス(停滞・暗黒)という三つの力が常に戯れ、混じり合い、変化し続けるダイナミックな舞台であると教えます。この絶え間ない変化の流れそのものが、宇宙の自然な姿なのです。それを、自分の意図通りに固定し、静止させようとすること自体が、自然の摂理に反する、無理な試みなのです。コントロール欲を手放すとは、この宇宙の根本的なダンスを受け入れ、そのリズムに自分を合わせていくことに他なりません。
この思想は、古代中国の老荘思想が説く「道(タオ)」の概念と深く響き合います。万物は、人間の理解を超えた大いなる法則、「道」に従って生成し、変化し、流転していく。賢者とは、その流れに逆らって我を通そうとする者ではなく、流れの力を読み、それにしなやかに身を任せることで、かえって目的地にたどり着く者のことを言います。
予測不可能性を、不安の種としてではなく、創造性の源泉として捉え直すことも可能です。考えてみてください。結末が最初からすべてわかっている映画や小説を、私たちは面白いと思うでしょうか。ハラハラドキドキする展開や、予想を裏切るどんでん返しがあるからこそ、物語は私たちの心を惹きつけます。人生もまた、同じです。予測不可能であるからこそ、驚きがあり、発見があり、思いがけない喜びとの出会いがあるのです。コントロールを手放すことは、人生という壮大な物語の、最高の観客であり、同時に最高の即興パフォーマーになることなのです。
このコントロール欲を手放すための具体的な稽古として、「コントロールできること」と「できないこと」を仕分けるワークが非常に有効です。紙を二つに折り、片方には「自分がコントロールできること」(例:自分の言動、食事の内容、寝る時間)、もう片方には「自分にはコントロールできないこと」(例:他人の気持ち、天気、過去の出来事、経済の動向)を書き出してみます。そして、後者のリストを眺め、ここにエネルギーを注ぐことがいかに無駄であるかを深く認識します。その紙を破り捨てたり、燃やしたりする象徴的な儀式を行うのも良いでしょう。
ヴィンヤサヨガのように、呼吸に合わせて次々とポーズが展開していくフローの練習も、コントロールを手放すための身体的な訓練となります。一つのポーズに固執するのではなく、絶え間ない動きの流れに、思考を挟まずにただ身を任せる。その心地よさを身体で覚えるのです。
ほんの少しだけ量子力学の比喩を借りるなら、世界は私たちが観測するまで、無数の可能性の「波」として存在しています。コントロール欲とは、その無限の可能性の波を、自分の望むたった一つの「粒」に無理やり収縮させようとする試みです。コントロールを手放すとは、その可能性の波の広がりの豊かさそのものを信頼し、宇宙が最善の形でそれを一つの現実に収束させてくれることを、ただ楽しみに待つという態度なのです。
人生という船の舵を、一度、大いなる流れに明け渡してみませんか。それは、漂流することではありません。それは、あなた一人の力で漕ぐよりも、はるかに大きく、賢明な力と共に旅をする、宇宙との共同創造という、新しい航海の始まりなのです。


