存在給を追うのをやめるとき。何もしない自分の存在をただ認めるという、ヨガ本来の基本

日常生活について

近年、スピリチュアルや心理学の世界で広く知られるようになった概念に「存在給(そんざいきゅう)」というものがあります。
これは、自分が何か特別な成果を出したり、がむしゃらに働いたりしなくても、ただそこに存在しているだけで受け取っていい豊かさの度合いを指す言葉です。
多くの人々が、この存在給を高めようと、マインドセットを変えたり、自己受容のアファメーションを繰り返したりしています。
しかし、ヨガ哲学者として日々の内観を重ねる中で、私はある種の違和感を抱かざるを得ません。
なぜなら、「存在給が高いか低いか」という多寡を気にしている時点で、私たちはすでに自らの存在条件を他者や数字に委ねてしまっているからです。

結論から申し上げましょう。 私たちに本当に必要なのは、存在給を上げるテクニックを学ぶことではありません。
それ以前の段階として、「今ここに、何もしない自分がただ在る」という、極めてシンプルで無条件な自己存在を静かに認めることです。
この基本を思い出すことこそが、あらゆる心の波立ちを静め、真の豊かさに至るための唯一の道と言えます。
今回は、現代社会が陥りやすい「所有と行動」の罠を紐解きながら、東洋思想の智恵をベースに、存在を認めることの本当の意味を深く探っていきます。

 

Doing(行動)に支配された現代社会とBeing(存在)の喪失

私たちは幼い頃から、どれだけ良い成績を取ったか、どんなスキルを身につけたか、社会的にどれほど役に立っているかという、目に見える指標で評価されてきました。
これは哲学的に言えば、人間の価値を「Doing(何をしたか)」や「Having(何を持っているか)」で推し量る価値観だと言えます。
こうした成果主義の社会に生きていると、常に何かをし続けなければ、自分の存在価値が脅かされるような焦燥感に駆られてしまうものです。
この競争に疲れ果てた人々がヨガや瞑想、スピリチュアルな思想に出会い、「ただ居るだけでいい」という「Being(在り方)」の大切さに気づくのは、ごく自然な流れでしょう(1.2.8)。

ところが、ここで新たな罠が待ち受けています。
Beingの大切さを知ったはずの人々が、今度は「どうすれば存在給を高くできるのか」「どうすれば何もしなくてもお金が入ってくる自分になれるのか」という新たなDoingを始めてしまうのです。
これでは、手段が目的化してしまっていると言わざるを得ません。
「存在給が高い自分」という新たなラベル(記号)を自分に貼り付けようと奮闘している姿は、結局のところ、外側の条件を付け足して自分を飾ろうとするエゴ(アスミター)の活動に他ならないのです。

ここでミニマリズムの思想を思い出してみましょう。
ミニマリズムとは、単に部屋のモノを減らすことではなく、自分の内側にある余計な執着や、自己を定義するための過剰なラベルを削ぎ落としていく「引き算の生き方」です。
「高い存在給を受け取れる自分」というラベルさえも一度手放し、すべての属性を削ぎ落としたときに残る「ただ在る」という静寂に、私たちの本当の価値が存在します。

 

東洋思想の歴史的背景:梵我一如と無条件の自己存在

ここで、ヨガや仏教が生まれた東洋思想の歴史的な背景に目を向けてみます。
今から数千年前の古代インドで編纂された哲学書である『ウパニシャッド』には、宇宙の根本原理である「ブラフマン(梵)」と、個々の生命の本質である「アートマン(我)」は究極的に同一であるという「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の教えが説かれています。
この思想によれば、私たちが今ここに存在しているということ自体が、すでに宇宙の大いなる現れそのものです。
つまり、宇宙の一部である私たちの存在価値には、そもそも高い・低いという人間都合の格付けが入る余地は存在しません。

また、仏教においても、すべての生けるものには生まれながらにして悟りを開く本質が備わっているとする「仏性(ぶっしょう)」の思想があります。
あなたが何者であっても、何も成し遂げていなくても、生まれながらにしてその生命自体が完成された輝きを放っているという世界観です。
東洋の智恵が示しているのは、自らの存在価値とは、外側から獲得したり、修行によって向上させたりするものではないということです。
それは最初からそこにあったものであり、ただ私たちが日々の雑音によってその事実を忘れてしまっているに過ぎません。
ヨガの目的とは、心の働きを完全に静める(チッタ・ヴリッティ・ニローダハ)ことによって、この本源的な自己の価値を「思い出す」ことなのです。

 

思考(おしゃべり)を静め、今ここにあるプレゼンスに戻る

「自分には価値があるのだろうか」「存在給を上げなければ豊かになれないのではないか」という不安や自問自答は、一体どこからやってくるのでしょうか。
それらはすべて、私たちの脳(左脳)が自動的に作り出す「思考のおしゃべり」に過ぎません。
私たちの意識は、放っておくと常に過去の後悔や未来の不安、そして他者との比較へとさまよってしまいます。
これらの一時的なマインドのノイズに同調してしまうと、私たちは自分が「今ここ」に存在しているという圧倒的な事実を見失ってしまいます。

この自動的な思考のループから抜け出すためには、静かに呼吸や身体の感覚に意識を向けることが極めて有効です。
ヨガの身体操作や瞑想は、意識をデジタル空間や思考の迷路から、今この瞬間の「肉体という神殿」へと引き戻すために存在します。
頭の中のおしゃべりが止まったとき、そこには「ただ存在している」という純粋な感覚(プレゼンス)だけが残るでしょう。
何も考えていない瞬間、あなたはただ呼吸をし、心臓の鼓動を感じ、重力を受け入れています。
その瞬間、あなた自身は完璧に満たされており、それ以上の何かを足す必要も、引く必要もありません。
他者からの評価やスピリチュアルなメソッドといった「外側の振り子」にエネルギーを奪われるのをやめ、自分の内側の深い静寂へと沈み込んでいくことが大切になってきます。

 

サントーシャ(足るを知る)と存在給という副産物の関係

存在を認めることの本質を理解すると、結果として周囲の状況や経済的な環境が勝手に整っていくことがあります。
ヨガには「サントーシャ(足るを知る)」という重要な教えが存在します。
これは、外側の条件がどうであれ、今与えられている環境や、現在のありのままの自分自身に完全に満足することを意味します。
「何もしない自分には価値がある」と心の底から納得し、サントーシャの境地に達したとき、人は無用な不安から解放され、不要な努力を手放すことができるようになります(1.1.7, 1.2.6)。
その穏やかなエネルギー状態が、結果として他者からの信頼や、豊かな機会を呼び寄せることになるのです。

ここで重要なのは、豊かさや存在給の向上は、あくまでも「自分の存在を深く認めた結果として現れる副産物」に過ぎないという点です。
多くの人は、この順番を逆にしてしまいます。
「お金や豊かさを手に入れるために、存在給を上げよう」とする姿勢は、本質的な自己受容ではなく、形を変えた新たな欲望(ラーガ)の追求に過ぎません。
副産物を目的にした途端、私たちは再び「豊かさがない今の自分」という欠乏感のループに逆戻りしてしまいます。
まずは、存在給という数字や概念すらも綺麗さっぱりと忘れ去りましょう。
ただ、自分がここに居ることの奇跡に、静かに浸るだけで十分なのです(1.1.3, 1.2.3)。

 

終わりに:背筋を伸ばし、ただ呼吸を味わう

難しいメソッドや、誰かが提唱した真新しい概念を追うのは、もう終わりにしませんか。
それらを追いかけるほどに、私たちの心は「今のままでは足りない」という罠に絡め取られていってしまいます。
ときにはスマートフォンを遠ざけ、情報という名のデジタル・ノイズを完全に遮断してみることをお勧めします。

背筋をすっと伸ばし、身体をユルユルに解きほぐし、ただ吐く息と吸う息の流れを見つめてみてください。
EngawaYogaで提案している日本一簡単な瞑想(SIQAN)は、まさにこのような「何もしない、ただ在る」という感覚を取り戻すためのプラクティスです。
あなたが息を吸い、息を吐き、今ここで生きている。 これ以上に美しく、完成された価値は、この宇宙のどこを探しても存在しません。
存在給の多寡を競う不毛なゲームからそっと降りて、ご自身の内側に広がる果てしない静寂と、すでに満ち足りている存在の温もりを、どうか静かに思い出してください。