三日坊主でも始める意味とは。時間の錯覚を手放し「いま」を生きるヨガ哲学

365days

何か新しい習慣を生活に取り入れようと決意したものの、三日ほどで立ち消えてしまった経験は誰にでもあるはずです。

運動や瞑想、あるいは日記の執筆など、始めた当初に抱いていた高い熱量はどこへやら、気づけば日常の忙しさに押し流されて中断してしまいます。

そのたびに私たちは「自分は意志が弱い人間だ」「何をやっても続かない」と激しい自責の念に駆られがちでした。

しかし、ヨガや瞑想の思想を長年実践してきた私の視点から申し上げますと、この「継続できないことへの罪悪感」こそが手放すべき幻影に他なりません。

そもそも、三日間だけでも取り組んだという事実は、紛れもなく三日分の新しい意識と行動を人生に注ぎ込んだ証左と言えます。

それはゼロではなく、確かな身体感覚の蓄積として内側に息づいているのです。

三日坊主を失敗と見なしてしまう原因は、私たちが無意識に持っている「時間は過去から未来へ一本の直線として連続している」という固定観念にあります。

過去の行いと未来の成果を一本の線で結びつけようとするからこそ、途切れた瞬間に挫折感を抱いてしまうのでしょう。

東洋思想の深遠な知恵に触れると、この時間に対する認識がいかに人工的な縛りであるかが明らかになってきます。

 

刹那滅という真理。連続している時間など存在さない

仏教の哲学体系において、きわめて重要な概念のひとつに「刹那滅(せつなめつ)」という思想が存在します。

刹那滅とは、この宇宙のあらゆる現象は一瞬たりとも固定して存続しておらず、極めて短い単位である「刹那」ごとに生じては瞬時に消滅しているという真理を説いた教えです。

つまり、昨日のあなたと今日のあなた、そして明日のあなたは、厳密には同じ一個の存在として連続しているわけではありません。

私たちは記憶という機能を使って「昨日まで続いていた私」を頭の中で捏造し、連続した物語を作り出しているに過ぎないのです。

この刹那滅の視点に立つと、継続という概念そのものの輪郭が解けていきます。

三日間何かに取り組み、四日目にやらなかったとしても、四日目に存在しているあなたは過去の失敗を背負った人間ではありません。

ただ四日目の朝に「何もしなかったという現象」が起きただけであり、あなたの本質は何ひとつ傷ついていないと言えるでしょう。

五日目に再びマットの上に座るのであれば、それは中断の末の再開ではなく、まっさらな新しい存在として最初の一歩を踏み出す瞬間に他なりません。

三日坊主を悔やむ心は、記憶に執着する自我が生み出した架空の物語に囚われている状態なのです。

 

ヨガ哲学における修習(アビヤーサ)の真意

インドの根本聖典である『ヨーガ・スートラ』を紐解くと、心を静かに統一していく道として「アビヤーサ(修習)」と「ヴァイラーギャ(離欲)」という二つの車輪が提示されています。

ここで言うアビヤーサとは、機械のように寸分の狂いもなく毎日同じルーティンを繰り返すこととは少々ニュアンスが異なります。

アビヤーサの定義とは「心が本来の静かな中心からそれてしまったときに、その都度、優しく中心へと連れ戻す不断の努力」を指す言葉です。

人間のマインドは、放っておけば外側の刺激や雑念へと激しく揺れ動いてしまう性質を持っています。

途中で怠けてしまったり、別の関心事に気を取られたりするのは、心の自然な波立ちに過ぎません。

大切なのは、波立ったことに対して自己嫌悪に陥るのではなく、気づいた瞬間に「ただいま」と元の中心へと帰ってくる姿勢です。

三日で途切れたとしても、四日目に「あ、途切れたな」と眺め、五日目や十日目に再び座る。

この「途切れたことを責めずに再び戻ってくる行為」そのものが、ヨガ哲学における至高のアビヤーサと言えます。

したがって、三日坊主を恥じる必要はまったくありません。

戻ってくる回数を重ねることこそが、精神を鍛錬する本質的な稽古となるのです。

 

三日坊主を百回やれば三百日になる

物事を継続するための秘訣を尋ねられたとき、私はいつも「三日坊主を堂々と繰り返しましょう」とお伝えしています。

一生涯続けようなどと重たい誓いを立てるから、三日でやめてしまったときに絶望的な重圧を感じてしまうのです。

それよりも、初めから「とりあえず三日間だけやってみる」という軽やかな単位で人生を捉え直してみてはいかがでしょうか。

三日やって飽きたら、一度潔く横に置いてしまえばよいのです。

そしてまた気が向いたときに、何の気負いもなく次の三日間を始める。

この三日坊主という小さなサイクルを年に十回繰り返せば三十日になり、百回繰り返せば三百日分もの豊かな経験が身体に蓄積されます。

最初から完璧な三百日を目指すと、たった一日の挫折で自己嫌悪に陥り、すべてを投げ出してしまう人が後を絶ちません。

しかし、最初から「途切れること」を自然な呼吸の一部として許容していれば、立ち直りは驚くほど素早くなります。

吸う息のあとに必ず吐く息が訪れるように、活動のあとに休息や中断が挟まるのは生命の当たり前のリズムでしょう。

途切れた自分を許すことは、東洋思想でいう「慈悲(カルナー)」を自分自身に向ける行為でもあります。

自分に対して厳格な監視役になるのをやめ、不完全なゆらぎをそのまま愛せるようになったとき、行動への敷居は極限まで下がっていくはずです。

 

まとめ:今日この瞬間から静かに立ち上がる

私たちはどこかで「完璧にやり遂げた自分」でなければ価値がないと思い込まされている節があります。

けれど、人生の美しさは整然と並んだカレンダーの丸印にあるのではなく、転んでは立ち上がり、忘れては思い出す、その泥臭い生命の躍動の中にこそ宿るものです。

過去にどれほど多くの挫折を積み重ねてきたとしても、いま吸い込んでいるこの呼吸には何の関係もありません。

過去の記憶という荷物をすべて床に下ろし、余計な自己評価を捨て去ってみてください。

三日坊主上等、途中でやめて当たり前という脱力した態度こそが、結果としてあなたを最も遠い場所へと運んでくれます。

いま、この瞬間から、また最初の三日間を静かに始めてみようではありませんか。