「BORN TO RUN」とヨガについて。極めるという点ではランもヨガも面白い。

ENQAN

アメリカのジャーナリスト、クリストファー・マクドゥーガルによるベストセラー『BORN TO RUN 走るために生まれた』をご存じでしょうか。

メキシコの峡谷に暮らす伝説の走る民、タラウマラ族の驚異的な身体能力と、彼らが素足に近いサンダルで超長距離を走り抜ける姿を描いた名著です。

この本がもたらした最大の衝撃は、最先端のハイテクシューズが実はケガの原因であり、人間には本来「裸足で走る」ための完璧なシステムが備わっているという指摘でした。

実は、この「本来の身体のシステムに回帰する」という思想は、数千年の歴史を持つヨガの哲学と深く共鳴しています。

極めるという点において、長距離を走る「ラン」と、心身を統合する「ヨガ」は、驚くほど似た構造を持っていると言えるでしょう。

どちらの営みも、単なるフィットネスの領域を超え、自己の内奥へと深く分け入るための強力なツールなのです。

今回は、ヨガ哲学者としての視点から、この両者が交差する「極める面白さ」について深く考察してみたいと思います。

特に、精神世界を30年間学び続けてきた方にとっても、身体を通じたアプローチが持つ深遠さを再発見するきっかけになれば幸いです。

 

BORN TO RUNが示す引き算の身体観

現代のランニング業界では、分厚いクッションや最新のカーボンプレートを備えたシューズが次々と開発されています。

しかし、それらのサポート機能が過剰になるほど、足裏本来のセンサーやアーチ構造の弾力性は失われていく傾向にあるようです。

『BORN TO RUN』では、裸足に近いミニマルな状態で走ることで、かえってケガがなくなり、走る喜びを取り戻せる事実が証明されました。

この「過剰なプロテクションを剥ぎ取る」という思想こそが、まさにヨガにおけるミニマリズムの本質に他なりません。

ヨガの練習も、同様に裸足で行われます。

私たちの足裏には、大地のエネルギーを直接受け取る「マルチチャネル」とも言える精緻なセンサーが備わっているからです。

厚い靴を脱ぎ捨てて地面に直接触れるとき、身体は本来のバランスを取り戻し始めます。

これは、単なる物理的な引き算にとどまらず、精神にまとわりついた不要な執着やエゴを削ぎ落とすプロセスでもあるのです。

現代社会は、常に「何かを付け足すこと」で問題を解決しようとします。

より優れたギア、より高いスペック、より高価なヨガウェアといった外側の装飾に執着しがちでしょう。

しかし極めるプロセスの入り口にあるのは、むしろ余計な保護をすべて手放し、生身の身体の持つ野生の可能性を信頼することだと言えます。

 

動中の静。ヨガとランニングの動的瞑想

走ることを深く突き詰めていくと、ある段階から身体の重みが消え、呼吸と意識が完全に同調する瞬間が訪れます。

それは、自意識という名のノイズが完全に静まり返った、至高のフロー状態です。

東洋思想においては、この状態を「動中の静(どうちゅうのせい)」と呼びます。

動いているにもかかわらず、内側は完璧な静寂に満たされているという、極めて瞑想的な境地と言えるでしょう。

ヨガのポーズ(アーサナ)を練習するプロセスも、全く同じ軌道をたどります。

特に、当スタジオで提供しているポーズ練習(ENQAN)では、ハンドスタンドや後屈といったダイナミックな動きを積極的に取り入れているところです。

このような難易度の高いポーズに全力で挑むとき、私たちの脳は「明日の心配」や「過去の後悔」といった余計な雑念を処理する余裕を失ってしまいます。

今この瞬間、1ミリのズレも許されない身体のバランスに意識が100%集中せざるを得ないからです。

チッタ(心)の波立ちが静まり、主体と客体、すなわち「走る自分」と「走る行為」が完全に一体化したとき、そこには大いなる静寂が広がるでしょう。

これは、呼吸に深く同調しながら内なる宇宙へダイブしていく極上の瞑想体験に他なりません。

ランナーがウルトラマラソンの後半で経験する、いわゆる「ランナーズハイ」は、ヨガが探究してきたサマーディ(三昧)と極めて近い脳内状態そのものなのです。

 

自己を探求する技術。軽い自己へシフトする「JIQAN」

ヨガもランも、あるレベルを超えて深めていくと、自分の「限界」という思い込みと否応なしに向き合うことになります。

「これ以上は走れない」「これ以上ポーズをキープできない」という思考が脳裏をよぎる瞬間です。

そのとき、私たちは自分自身の潜在意識の中に眠るさまざまなブロックや、過剰な深刻さに気づかされます。

この自己観察のプロセスをサポートするのが、EngawaYoga独自の内観メソッドである「JIQAN(ジカン)」です。

JIQANとは、自問自答を通じてエゴの過剰なこだわり(過剰ポテンシャル)を手放し、自らを「軽い自己」へと変容させるプロセスに他なりません。

ランナーやヨギーが身体の限界を極めようとするとき、真に向き合っているのは肉体ではなく、自分の頭が作り出した「制限の物語」と言えるでしょう。

「私はこういう人間だ」「これくらいが限界だ」という脳内の物語を静かに見つめ、それを丁寧にアンインストールしていくのです。

この内観の作業を繰り返すことによって、私たちは「自分には何かが足りない」という欠乏の世界観から、「すでにすべてが満ちていた」という充足の世界へとシフトしていきます。

 

東洋思想から紐解く、極めることで出逢う「身心脱落」

禅の教えには、身体と心の縛りから完全に解放され、自己と世界との境界線が消え去る「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉があります。

足裏で直接大地の硬さを感じながら走り続けるウルトラランナーの精神状態は、まさにこの身心脱落の境地そのものです。

衣服や厚いソールの靴、あるいは社会的地位といったすべての所有物を剥ぎ取られた素肌の肉体だけが、そこには存在しています。

このような極限のシンプルさの中に身を置くことで、私たちは「私」という自意識の重荷から解放されるのでしょう。

現代社会における多くの人々は、自らの価値を「足し算」によって証明しようともがいています。

SNSで多くの「いいね」を集めることや、最新のスマートウォッチで走行データを誇示する行為は、エゴ(アスミター)を満足させるための記号の消費と言えるでしょう。

極限まで磨き上げられたランやヨガの実践において、そのような見栄や虚栄心はただのノイズに化してしまうのです。

なぜなら、次の一歩を踏み出す瞬間の身体の軽やかさや、呼吸が肺を満たす直接的な感覚だけが、紛れもない現実だからです。

 

足裏の目覚めとアーサナ。大地のエネルギーを直接受け取る

『BORN TO RUN』の著者が出会ったタラウマラ族は、廃タイヤと革紐で作られた薄いサンダル「ワラチ」を好んで用います。

それ以上に、彼らの多くは日常的に裸足、あるいはそれに極めて近い自然な状態で生活を営んでいるのです。

このライフスタイルが、彼らの足腰のアーチ構造を奇跡的なほど強靭に保ち、生涯にわたって軽やかに走り続ける源泉と言えるでしょう。

ヨガを極めるプロセスにおいても、やはり足裏の3つのアーチや足指の可動域は決定的な重要性を持っています。

ポーズの練習(ENQAN)において、私たちがハンドスタンドや後屈といった逆転のアーサナを行う際、身体を支える土台となるのは手のひら、あるいは足の裏です。

普段の生活で靴の中に閉じ込められ、固まってしまった足を解放してあげることで、眠っていた身体の連動性が一気に目覚めます。

足裏をしっかりと大地に密着させ、大地の反発力を全身に吸い上げる感覚は、ヨガの「ムーラダーラ(根を張る)」というエネルギー的側面に直結しているのです。

このように考えると、裸足で大地を走るランナーと、ヨガのマットの上で逆立ちをするヨギーは、全く同じ「野生の身体」の扉を叩いていると言えます。

 

都会の喧騒の中で、野生の身体を生き直す

私たちは、走るために秘境の渓谷へと移住する必要はありません。

また、悟りを開くためにインドの洞窟で隠遁生活を送る必要もないのです。

大切なのは、このノイズに満ちた現代の都会生活の中で、いかにして「野生の肉体」と「澄み渡った意識」を両立させるかという点に尽きます。

EngawaYogaが掲げる「都会で覚醒する」というコンセプトは、まさにこの複雑な日常に東洋思想の智恵を統合させる試みです。

身体の重みを解き放つ「ENQAN」、自己の過剰なこだわりを整理する「JIQAN」、そして心の波動を軽やかに調律する「SIQAN」。

これらのアプローチを日々の暮らしに散りばめることで、私たちの生は驚くほどシンプルに変化していくでしょう。

それは、高価なデバイスや最新のシューズ、あるいは立派な肩書きを買いそろえることで得られる、かりそめの充実感とは本質的に異なります。

ただ走り、ただ座り、今ここにある自らの純粋な息吹を面白がるという、大いなるリーラ(遊び)の体現なのです。

 

終わりに:ただ走り、ただ在るということ

『BORN TO RUN』の最大のメッセージは、「走ることは義務でもトレーニングでもなく、人類に遺伝子レベルで組み込まれた最高のエンターテインメントである」という点にありました。

ヨガもまた、ポーズを綺麗にきめるための義務的な労働ではなく、肉体という器を通じて宇宙の神秘を全身で謳歌する遊戯そのものと言えるでしょう。

極めるというプロセスは、何者かになろうと躍起になる追加の作業ではありません。

むしろ、付け足されたあらゆるラベルを剥ぎ取り、究極の「何者でもない自分」へと静かに還っていく旅路なのです。

足の裏で地面の起伏を感じながら、風のように都会の小道を駆け抜けてみる。

あるいは、スタジオで深く息を吐きながら、身体のユルユルとした感覚の中に静かにダイブする。

どちらも、私たちが自らの本質(プルシャ)を思い出すための、この上なく美しい引き算の実践です。

すでに用意されていた内なる静寂に気づき、この人生を軽やかに遊ぶ準備は、いつでも整っています。