ヨガの練習を推奨しております。
それは、ヨガが単なる運動ではなく、目に見えない感覚を磨くための精密なチューニング作業だからです。
日々、マットの上に立ち、あるいは静かに座る時間を持つこと。
その繰り返しの先にしか見えてこない景色というものがあります。
「1日練習しなければ自分に分かる。2日練習しなければ批評家に分かる。3日練習しなければ聴衆に分かる」
これは、フランスのピアニスト、アルフレッド・コルトーの言葉として知られていますが(諸説あります)、この言葉は音楽家だけでなく、身体表現や精神的な探求を行うすべての求道者に通じる真理を含んでいます。
今日は、この言葉をヨガの文脈で読み解きながら、私たちが日々の練習を通して何を感じ、何を磨いているのか。そして、「目に見えない何か」との繋がりについて、静かにお話ししてみたいと思います。
もくじ.
「1日練習しなければ自分に分かる」:微細な感覚との対話
ヨガの実践者であれば、この感覚は痛いほどよく分かるのではないでしょうか。
たった一日、練習を休んだだけで、翌日の身体は微妙に違います。
関節の可動域が狭くなったとか、筋力が落ちたとか、そういった目に見える変化ではありません。
もっと微細で、内的な感覚のズレです。
呼吸が身体の隅々まで届きにくい感覚。
背骨のラインに流れるエネルギー(プラーナ)が、どこかで澱んでいる感覚。
あるいは、思考のノイズが少し大きく、静寂に入りづらい感覚。
それは、自分自身にしか分からない、ほんの僅かな「違和感」です。
しかし、この違和感に気づけることこそが、練習の成果でもあります。
日々の練習は、私たちの解像度を高めてくれます。
自分自身の身体や心の状態に対する感度が上がるからこそ、1日のブランクによる小さな変化をキャッチできるのです。
これは、自分自身との対話が深まっている証拠です。
「昨日は休んだから、今日は少し丁寧にほぐそうか」
そうやって自分を労り、調整することができる。
この「自分に分かる」という段階は、誰かの評価のためではなく、自分自身を健やかに保つための、とても個人的で大切なセンサーなのです。
「2日練習しなければ批評家に分かる」:外に滲み出る「質」の変化
2日休むと、それは他者の目にも留まるようになります。
ここでの「批評家」とは、専門的な知識を持った人や、鋭い観察眼を持った人のことです。ヨガで言えば、指導者や、長く練習を共にしている仲間かもしれません。
ポーズの形そのものは変わっていないかもしれません。
しかし、そのポーズに宿る「質」や「密度」が変わってきます。
立ち姿の安定感、動きの滑らかさ、あるいは瞳の奥の静けさ。
練習を継続している人の身体には、ある種の「透明感」や「軸」のようなものが宿ります。
それは、サットヴァ(純質)なエネルギーと言ってもいいかもしれません。
逆に、練習が途切れると、身体の中にタマス(惰性・重さ)やラジャス(激性・乱れ)が混じり始めます。
まとっている空気が、少し重くなる。
言葉に棘が含まれたり、所作が雑になったりする。
鋭い人は、そうした「気配」の変化を敏感に察知します。
「あれ、何かリズムが乱れているな」と。
私たちは、言葉を交わさなくても、存在そのもので常にコミュニケーションをとっています。
日々の練習は、その存在の「周波数」を整える作業でもあるのです。
「3日練習しなければ聴衆に分かる」:誰もが感じる不協和音
そして3日休めば、それは誰の目にも明らかになります。
「聴衆」とは、専門家ではない一般の人々、あるいは家族や友人、職場の同僚のことです。
彼らはヨガの知識はないかもしれませんが、人間としての直感で「何か変だ」と感じ取ります。
イライラしやすくなっている。
顔色が悪い。
姿勢が崩れて、自信がなさそうに見える。
あるいは、ネガティブな発言が増えている。
これはもはや、微細なエネルギーの問題ではなく、目に見える現象として現れている状態です。
ヨガの練習とは、楽器のチューニングのようなものです。
毎日チューニングされた楽器は、美しい音色を奏で、周囲の人を心地よくさせます。
しかし、チューニングを怠った楽器で人生を演奏すれば、そこには不協和音が生まれます。
その不協和音は、自分だけでなく、周りの人をも不快にさせ、トラブルや摩擦の原因となります。
「最近、ついてないな」と感じるとき、それは運が悪いのではなく、自分自身のチューニングが狂っているだけなのかもしれません。
目に見えない何かを感じる力:スピリチュアルな視点から
さて、ここまでは身体的、心理的な側面からお話ししましたが、もう少し深い、スピリチュアルな領域にも触れてみましょう。
「目に見えない何か」とは何でしょうか。
ヨガ哲学では、私たちの身体の外側に「プラーナ・マヤ・コーシャ(気鞘)」などのエネルギーの層があると考えます。
日々の練習は、肉体だけでなく、このエネルギー体(オーラとも呼ばれます)の浄化と充電を行っています。
練習を続けていると、不思議と「直感」が鋭くなる経験をしたことはないでしょうか?
・ふと思い浮かんだ人に連絡したら、相手も自分を思っていた。
・なんとなく選んだ道が、渋滞を回避していた。
・必要な情報が、向こうからやってきた。
これをシンクロニシティ(共時性)と呼びますが、これは偶然ではありません。
練習によって自分自身のノイズが減り、宇宙の全体的な流れ(タオ、あるいは大いなる意思)と調和しやすくなっている状態です。
「1日練習しなければ…」という言葉は、この宇宙との接続(コネクション)の感度が鈍ることを警告しているとも取れます。
Wi-Fiの電波が弱くなるようなものです。
繋がりが悪くなると、私たちは「個」としての孤独感や欠乏感を感じやすくなり、エゴが肥大化し、迷いが生じます。
逆に、繋がりが良好であれば、私たちは「守られている」という根拠のない自信と安心感の中で、リラックスして生きていくことができます。
練習とは、この目に見えないWi-Fiのアンテナを磨き、常にクリアな状態でいるための儀式なのです。
完璧主義を手放し、ただ「戻ってくる」こと
ここまで書くと、「1日も休んではいけないのか」とプレッシャーを感じてしまうかもしれません。
しかし、そうではありません。
人間ですから、休むこともあれば、できない日もあります。
大切なのは、休んでしまった自分を責めることではなく、「違いに気づける自分」を信頼することです。
「ああ、3日休んだから身体が重いな。心が少し荒んでいるな」
そう気づけたなら、またマットの上に戻ってくればいいのです。
その「気づき」さえあれば、私たちは何度でもチューニングし直すことができます。
問題なのは、音が狂っていることにさえ気づかず、不協和音を奏で続けてしまうことです。
ヨガマットは、いつでもあなたを待っています。
来るものを拒まず、去るものを追わず、ただそこに在ります。
「ちょっと調子を整えようかな」
そんな軽い気持ちで、また戻ってくればいいのです。
毎日の歯磨きのように、あるいは顔を洗うように。
淡々と、日常の中に「静寂の時間」を織り込んでいくこと。
その積み重ねが、やがて誰にも真似できない、あなただけの美しい音色となって、世界に響き渡る日が来るはずです。
目に見えない何かを大切にすることは、目に見える現実を豊かにすることに他なりません。
今日も、静かに座りましょう。
ではまた。


