「奇跡のコース(A Course in Miracles)」という書物をご存知でしょうか。
スピリチュアルな探求をされている方なら、一度はその分厚い青い本を目にしたことがあるかもしれません。
あるいは、名前だけは聞いたことがある、という方もいらっしゃるでしょう。
私自身、様々な東洋思想やヨガ哲学に触れてきましたが、この「奇跡のコース」のアプローチは、非常にラディカル(根源的)で、かつユーモラスでさえあると感じています。
全365日のワークブックがあるのですが、今日はその記念すべき1日目のレッスンについて、少しお話ししてみたいと思います。
レッスン1:この部屋で見えるものは、何一つ意味を持たない
さて、1日目の主題概念(テーマ)はいきなりこれです。
「この部屋(この通り、この窓から、この場所で)に見えるものは、何一つ意味を持たない」
おやおや、おやおや。
初日から随分と飛ばしてきますね。
普通、学びというのは「意味を見出す」ためにあるものです。
「この出来事にはどんな学びがあるのか」「この出会いの意味は何か」。
私たちは常に意味を探し求め、意味づけをすることで安心しようとします。
しかし、このコースは真逆のことを言います。
「意味なんてないよ」と。
ワークの指示はこうです。
自分の周りをゆっくりと見回して、目につくもの一つひとつに、この概念を当てはめていきます。
「この机は、何の意味も持たない」
「この椅子は、何の意味も持たない」
「この手は、何の意味も持たない」
「この足は、何の意味も持たない」
「このペンは、何の意味も持たない」
実際にやってみると、どうなるでしょうか?
私の目の前には、愛用しているマグカップがあります。
これは友人がプレゼントしてくれたもので、思い出が詰まっています。
でも、言ってみるのです。
「このマグカップは、何の意味も持たない」
……おやおや。
心がざわつきますね。
「いやいや、意味はあるでしょう。大事なものだし」と、エゴ(自我)が即座に反論してきます。
「これはただの陶器の塊ではない、私の大切なストーリーの一部だ」と。
私たちは「もの」を見ていない
ここでハッと気づかされることがあります。
私たちは、ありのままの「そのもの」を見ているのではなく、その上に自分が貼り付けた「意味(ラベル)」を見ているのだということです。
「これは高いパソコン(だから丁寧に扱わなきゃ)」
「これは未払いの請求書(だから憂鬱だ)」
「これは嫌いな虫(だから排除したい)」
私たちは、自分の過去の経験や記憶、価値観というフィルターを通してしか、世界を見ていません。
つまり、私たちは「現実」を見ているのではなく、自分の「思考」を見ているのです。
自分の脳内にある物語を、目の前のスクリーンに投影しているだけなのです。
「何の意味も持たない」と宣言することは、この投影のプロジェクターを一旦オフにする作業です。
ベタベタと貼り付けたラベルを、一枚ずつ剥がしていくようなものです。
空白のスペースに戻る
ラベルを剥がされた世界は、どう見えるのでしょうか。
それは、恐ろしい虚無の世界でしょうか?
いいえ、そうではありません。
意味(と私たちが信じている偏見)を取り払ったとき、そこにはただ純粋な「存在」が現れます。
良いも悪いもない、好きも嫌いもない、ただ「ある」という静かな事実。
ヨガ哲学で言うところの「空(くう)」や、鈴木大拙の言う「そのまま」の世界に近いかもしれません。
私たちが勝手に乗っけていた重たい意味づけが消えると、世界は驚くほど軽やかで、フラットになります。
初日から「無意味」を突きつけられると、エゴは混乱し、抵抗します。
「そんな馬鹿な!意味がないなんて虚しいじゃないか!」と叫びます。
でも、そのエゴの抵抗を「おやおや、騒いでいるな」と眺めてみるのも、面白い実験です。
このワークは、信じる必要はありません。
ただ、やってみるだけです。
「この部屋に見えるものは、何一つ意味を持たない」
ふっと肩の力が抜けませんか?
世界を支えようとしていた、あるいはコントロールしようとしていた「意味づけ」という努力を手放してみる。
すると、今まで「意味」で埋め尽くされていた隙間に、新鮮な風が通り抜けるような感覚があるかもしれません。
奇跡のコース、1日目。
「おやおや、どうなることやら」という好奇心をポケットに入れて、この旅を面白がってみたいと思います。
意味のない世界で、ただ呼吸をする。
それだけで、なんだか十分な気がしてくるから不思議です。
ではまた。



