「私、身体が硬いから」という、ささやかな諦め
ヨガ、という言葉を聞いた時、あなたの心にはどんな風景が浮かぶでしょうか。海辺で朝日を浴びながら、しなやかに手足を伸ばす美しいシルエット。あるいは、常人には不可能に思えるような複雑なポーズを、静かな微笑みと共に完成させる求道者の姿。メディアを通して映し出されるそうしたイメージは、ヨガに神秘的な魅力を与える一方で、多くの人々をその入り口で躊躇させる、高い壁ともなっています。
「私、身体が硬いから、ヨガなんてきっと無理だわ」
体験クラスのご案内をすると、本当に多くの方から、この言葉を耳にします。まるで、生まれながらにして与えられた、変えることのできない宿命であるかのように。その声の奥には、期待に応えられないことへの不安や、他人と比較されることへの怖れ、そして、自分自身の身体に対する、長年にわたるささやかな諦めが滲んでいます。
しかし、もし、その「身体の硬さ」こそが、ヨガという深遠な旅を始める上で、最も素晴らしい「才能」の一つだとしたら、あなたはどう思われるでしょうか。
この記事では、多くの人がヨガへの第一歩を阻む「身体の硬さ」というテーマを、全く新しい視点から掘り下げていきます。それは、単なる精神論や気休めではありません。ヨガが二千年以上にわたって探求してきた「心と身体の繋がり」という智慧の核心に触れながら、なぜ「硬さ」が才能となりうるのか、そしてヨガが本当に「ゆるめよう」としているものは何なのかを、共に探求していく旅です。
もくじ.
ヨガの目的は、サーカスの曲芸ではない
まず、私たちが共有すべき最も大切な前提があります。それは、ヨガの目的は、身体を柔らかくすることではない、ということです。(流石にびっくりする人は少なくなってきましたが知らない人も多いです)
ヨガの根本経典である『ヨーガ・スートラ』は、その冒頭でヨガの定義をこう述べています。
“Yogas-citta-vrtti-nirodhah”
(ヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハ)「ヨガとは、心(チッタ)の働き(ヴリッティ)を、止滅(ニローダハ)することである」
これは、私たちの心を常に波立たせ、ざわめかせている思考や感情の揺らぎを、静めていく技術こそがヨガの本質である、という宣言です。湖の水面が静まり返って初めて、湖底にある真実の姿がはっきりと見えるように。心の波立ちが静まった時、私たちは自分自身の本質(真我・プルシャ)と出会うことができる。それが、ヨガが目指す究極のゴールなのです。
では、私たちが「ヨガ」と聞いて真っ先に思い浮かべる様々なポーズ、すなわちアーサナ(坐法)は、一体何のためにあるのでしょうか。アーサナは、この「心の静寂」という目的地に至るための、数ある道具立ての一つに過ぎません。そして、その本来の役割は、「長時間、快適に坐り続けるための、安定した身体を作ること」にありました。瞑想のために何時間も坐り続ける時、身体に痛みや不快感があれば、心はそちらに囚われ、静寂を得ることはできません。だからこそ、古のヨギー(ヨガ実践者)たちは、身体の歪みを整え、滞りをなくし、安定して坐れる身体を準備するためにアーサナを実践したのです。
つまり、アーサナは、柔軟性を競うパフォーマンスではなく、自己の内面と対話するための、動く瞑想なのです。その観点に立てば、「身体が硬い」という事実は、何ら恥じることでも、障害となることでもない、ということがお分かりいただけるでしょう。むしろそれは、これから始まる内なる対話の、極めて重要な「出発点」を示してくれているのです。
「硬さ」の正体 ― 身体が記憶する、心のこわばり
「夕方になると、肩が石みたいにガチガチになるんです」
これは、私たちのスタジオに通う、あるデスクワーカーの女性が漏らした言葉です。この「石みたいに」という表現は、多くの現代人が共有する、極めてリアルな身体感覚ではないでしょうか。
この「硬さ」や「こわばり」は、どこからやって来るのでしょう。もちろん、長時間のデスクワークによる物理的な筋肉の緊張は大きな要因です。しかし、それだけではありません。私たちの身体は、私たちが経験するストレスや緊張、不安や怒りといった感情を、正直に記憶し、記録する、極めて繊細な媒体なのです。
例えば、仕事のプレッシャーを感じる時、私たちは無意識のうちに歯を食いしばり、肩をすくめ、呼吸を浅くしています。上司からの厳しい一言に、背中を丸めて身を守るような姿勢をとる。未来への不安がよぎる時、胸のあたりがキュッと締め付けられるような感覚を覚える。これらの反応は、一つ一つは些細なものかもしれません。しかし、何年、何十年と繰り返されるうちに、それは私たちの身体に「癖」として刻み込まれ、慢性的な「硬さ」となって定着していくのです。
つまり、あなたの前屈を妨げている太ももの裏の張りは、単なる筋肉の短さの問題だけではないかもしれません。それは、あなたがこれまで抱えてきた「こうでなければならない」という頑なな思考の癖や、失敗を恐れる心の緊張が、身体に現れた姿なのかもしれないのです。
人間の体験は、内面(意識・感情)と外面(身体・行動)が不可分に結びついています。心のこわばりは身体の硬さとして現れ、身体の硬さはさらに心を緊張させるという、悪循環が生まれます。
この視点に立った時、「身体が硬い」ということは、何を意味するでしょうか。
それは、あなたがこれまで、人生の様々な局面で、誠実に、真剣に、そして一生懸命に、緊張し、耐え、頑張ってきたことの「証」なのです。それは、あなたの人生の物語が、身体というキャンバスに深く刻み込まれた、尊い記録に他なりません。
「ゆるめる」ことの本当の意味 ― 頑張ることを、やめてみる
ヨガのクラスで、インストラクターはしばしば「力を抜いて」「リラックスして」という言葉を口にします。しかし、皮肉なことに、私たちは「リラックスしよう」と頑張れば頑張るほど、かえって身体に力が入ってしまうものです。
ここで、老荘思想の「無為自然」という智慧が、私たちに大切なヒントを与えてくれます。「無為」とは、何もしないことではありません。それは、人間中心の小賢しい計らい(作為)を捨て、宇宙の大きな流れ(道・タオ)に身を委ねる、という生き方の姿勢です。
ヨガにおける「ゆるめる」も、これと全く同じです。
それは、「柔らかくしよう」と意図的に筋肉を伸ばし、コントロールしようとすることを、手放すことなのです。
例えば、前屈のポーズ(パスチモッターナーサナ)で、あなたは「もっと前に倒れよう」「つま先に手をつけよう」と、ぐいぐいと身体を引っ張ってはいないでしょうか。その時、あなたの身体は、その意図に抵抗し、むしろ身を守るために、さらに筋肉を収縮させてしまいます。
そうではなく、ただ静かに坐り、深く、穏やかな呼吸を繰り返してみましょう。吸う息で、背骨が一本一本、空に向かって優しく伸びていくのを感じる。そして、吐く息と共に、身体の重みが、ただ重力に任せて、大地へと沈んでいくのを感じる。
そこには、「ここまで曲げなければ」という目標も、「隣の人より硬い」という比較もありません。ただ、呼吸という波に身を委ね、今の瞬間の、ありのままの自分の身体の声に、静かに耳を澄ます時間があるだけです。
すると、ある瞬間、ふっと、身体のどこかで何かが「ほどける」ような感覚が訪れるかもしれません。それは、あなたが頑張って勝ち取ったものではなく、あなたがコントロールを手放した時に、身体の方から与えてくれた、ささやかな贈り物なのです。
ヨガは、身体を「柔らかくする」ためのトレーニングではありません。
ヨガは、私たちの内にある「こわばらせる力」に気づき、それを「手放す」練習なのです。
だから、「硬さ」は最高の才能になる
ここまで読んでくださった聡明なあなたなら、もうお分かりでしょう。なぜ、「身体が硬い」ことが才能となりうるのか。
それは、「硬さ」が、心と身体の変化を最も繊細に感じ取ることができる、最高のセンサーとなるからです。
もともと身体が柔らかい人は、ポーズをそつなくこなせてしまうがゆえに、かえって自分の内側で何が起きているのかに、無頓着になりがちです。しかし、身体が硬いあなたは、ほんの1ミリの変化にも、敏感に気づくことができます。
「ああ、今日はいつもより肩の力が抜けているな」
「吐く息を意識したら、背中の張りが少し和らいだ気がする」
「このポーズは、いつも不安に思っている腰の部分に、じわりと響いてくる」
この、微細な身体感覚への気づき(アウェアネス)こそが、ヨガの探求の核心です。その気づきは、やがて日常生活の中にも広がっていきます。
「今、私、PC作業に集中しすぎて、呼吸が浅くなっていたな」
「満員電車の中で、無意識に全身をこわばらせていた。少し肩の力を抜いてみよう」
「あの人の言葉に、胸のあたりがチクッとした。これは怒りだろうか、悲しみだろうか」
「硬さ」という出発点があったからこそ、あなたは「ゆるむ」というプロセスを、誰よりも深く、豊かに、そして感動的に体験することができるのです。それは、最初からゴール地点に立っている人には決して味わうことのできない、変化と発見に満ちた、あなただけのユニークな旅路となります。
EngawaYogaが大切にしているのは、まさにこの、一人ひとりの「今」の身体との対話です。私たちは、美しいポーズの完成形を教える場所ではありません。古い日本の家屋が持つ、どこか懐かしく、温かい空気の中で、あなたは誰かと比べる必要も、理想の姿を演じる必要もありません。
ただ、縁側に腰掛けて、庭の木々を眺めるように。ご自身の身体という、かけがえのない自然と、静かに向き合ってみませんか。
あなたの「硬さ」は、決して欠点ではありません。それは、あなたがあなた自身と、これから深く、丁寧に関わっていくための、最も信頼できる道標なのです。その才能を、どうか誇りに思ってください。


