私たちは日々、無数の情報と多様な価値観が交錯する世界を生きています。その中で、ともすれば自らの信じる「正しさ」に固執し、他者の声に耳を傾けることを忘れがちになるのではないでしょうか。しかし、古代インドに源流を持つジャイナ教の哲学は、そのような現代の私たちに対し、世界の捉え方、他者との関わり方について、深遠かつ実践的な洞察を与えてくれます。
ジャイナ教の思想的基盤は、単に信仰の対象を規定するに留まらず、極めて精緻で論理的な哲学的体系を構築しています。その核心をなすのが、アネーカーンタヴァーダ(Anekāntavāda)、スィヤードヴァーダ(Syādvāda)、そして**ナヤヴァーダ(Nayavāda)**という三つの柱です。これらは、日本語で「非絶対論(あるいは多元論・多面性説)」、「相対的言明論(あるいは条件付判断)」、「観点論(あるいは部分的真理論)」などと訳され、ジャイナ哲学における存在論、認識論、論理学の根幹を形成しています。本章では、これらの哲学が何を意味し、私たちの生き方にどのような示唆を与えてくれるのかを、歴史的背景と現代的意義を踏まえながら考察してまいりましょう。
もくじ.
アネーカーンタヴァーダ(Anekāntavāda) – 世界の無限の相貌
まず、「アネーカーンタヴァーダ」という言葉から見ていきましょう。これはサンスクリット語で、「アネーカ(aneka)」が「多数の」「非一」、「アンタ(anta)」が「側面」「性質」「終極」、「ヴァーダ(vāda)」が「主義」「教説」を意味します。したがって、アネーカーンタヴァーダとは、「事物の多面性・非絶対性に関する教説」と理解することができます。
この思想が生まれた背景には、当時のインドにおける多様な哲学的潮流がありました。ヴェーダーンタ学派などが説く絶対的な一元論(例えば、宇宙の究極的実在はブラフマンのみであるとする考え)や、あるいは仏教における無我説や縁起の思想など、世界の根本原理を巡る様々な議論が活発に交わされていました。ジャイナ教は、これらのいずれか一つの見解に偏ることなく、むしろ世界の複雑性と多様性をそのまま受け入れようとする独自の道を歩みました。
アネーカーンタヴァーダの核心は、**「あらゆる事物や概念は、無数の側面、属性、様態を持っており、それらは相互に関連し合っている」**という認識にあります。私たちが何かを「知る」ということは、その無限の側面のうち、ごく限られた一部を捉えるに過ぎません。例えば、一杯の水も、物理学者にとってはH₂Oという分子構造であり、化学者にとっては溶媒としての性質を持ち、渇いた旅人にとっては命を繋ぐ貴重な液体であり、芸術家にとっては光を反射する美しい対象となり得ます。これら全てが、その水の持つ「真実」の一側面なのです。
この教えを理解する上で有名なのが、「群盲象を評す(あるいは、盲人と象)」という寓話です。何人かの盲人が象に触れ、それぞれが触れた部分(鼻、牙、耳、足、尻尾など)に基づいて象の全体像を語ろうとしますが、当然ながらその意見は食い違い、論争になります。象の鼻に触れた者は「象は蛇のようなものだ」と言い、足に触れた者は「柱のようなものだ」と主張するでしょう。ジャイナ哲学は、この寓話を通して、私たちがいかに部分的な認識に囚われやすいか、そして他者の異なる見解にも真理の一端が含まれている可能性を示唆します。
アネーカーンタヴァーダは、単なる認識論に留まりません。それは、独断論や教条主義を排し、寛容の精神を育むための実践的な指針となります。自らの理解が絶対ではないと知ることは、他者の意見に耳を傾ける謙虚さを生み、対話を通じてより包括的な理解へと至る道を開きます。これは、ジャイナ教の最も重要な教えである「アヒンサー(非暴力)」の精神とも深く結びついています。言葉による断定や、自らの意見を他者に強要することもまた、一つの暴力となり得るからです。思考の柔軟性を保ち、多様な価値観を認めることは、精神的なアヒンサーの実践そのものと言えるでしょう。
スィヤードヴァーダ(Syādvāda) – 言葉の可能性と限界を見据えて
アネーカーンタヴァーダが事物の多面性という存在論的・認識論的立場を示すのに対し、スィヤードヴァーダは、その多面性をどのように言語で表現すべきかという、論理学・言語哲学的な方法論です。「スィヤート(syāt)」は「ある観点からすれば~であるかもしれない」という意味のサンスクリット語の動詞の活用形で、「ヴァーダ」は前述の通り「教説」です。したがって、スィヤードヴァーダは「条件付きの言明」「限定的な判断の教説」と解釈されます。
これは、アネーカーンタヴァーダの立場からすれば、いかなる事物についても絶対的・断定的な言明は不可能であるという認識に基づいています。私たちの言語は、事物の無限の相貌を完全に捉えきるにはあまりにも不完全です。それゆえ、ジャイナ哲学は、何かを語る際には必ず「スィヤート」という限定詞を付加し、その言明が特定の観点からの相対的なものであることを明確にしようとします。
スィヤードヴァーダは、具体的には**「サプタバンギー・ナヤ(Saptibhaṅgī Naya)」**と呼ばれる七つの様式で表現されます。これは「七つの条件付き叙述法」とも訳され、ある対象Pについて以下のように述べます。
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スィヤード・アスティ(syād-asti): ある観点からすれば、Pは存在する。
(例:ある観点からすれば、この壺は粘土として存在する) -
スィヤーン・ナースティ(syān-nāsti): ある観点からすれば、Pは存在しない。
(例:ある観点からすれば、この壺は布として存在しない) -
スィヤード・アスティ・チャ・ナースティ・チャ(syād-asti ca nāsti ca): ある観点からすれば、Pは存在し、かつ存在しない。
(例:ある観点からすれば、この壺は特定の形を持つものとして存在し、同時に別の形を持つものとしては存在しない) -
スィヤード・アヴァクタヴィヤハ(syād-avaktavyaḥ): ある観点からすれば、Pは言語で表現できない(筆舌に尽くしがたい)。
(例:ある観点からすれば、壺が存在し、かつ存在しないという矛盾した状態を同時に一つの言葉で表現することはできない) -
スィヤード・アスティ・チャ・アヴァクタヴィヤハ・チャ(syād-asti ca avaktavyaḥ ca): ある観点からすれば、Pは存在し、かつ言語で表現できない。
(例:ある観点からすれば、この壺は粘土として存在し、かつその存在様態の全てを同時に言葉で表現することはできない) -
スィヤーン・ナースティ・チャ・アヴァクタヴィヤハ・チャ(syān-nāsti ca avaktavyaḥ ca): ある観点からすれば、Pは存在せず、かつ言語で表現できない。
(例:ある観点からすれば、この壺は布として存在せず、かつその非存在様態の全てを同時に言葉で表現することはできない) -
スィヤード・アスティ・チャ・ナースティ・チャ・アヴァクタヴィヤハ・チャ(syād-asti ca nāsti ca avaktavyaḥ ca): ある観点からすれば、Pは存在し、かつ存在せず、かつ言語で表現できない。
(例:ある観点からすれば、この壺は特定の形を持つものとして存在し、別の形を持つものとしては存在せず、かつこれらの複合的なあり方を同時に一つの言葉で表現することはできない)
これらの七つの様式は、一見すると曖昧で煮え切らない表現のように感じられるかもしれません。しかし、これは単なる言葉遊びや不可知論ではなく、事物の複雑性と多義性を、言語の限界を自覚しつつも、可能な限り正確に捉えようとする真摯な論理的試みなのです。それは、私たちが普段、いかに安易に断定的な言葉を使い、それによって誤解や対立を生んでいるかということを省みさせてくれます。スィヤードヴァーダは、より慎重で、より誠実なコミュニケーションのあり方を示唆していると言えるでしょう。
ナヤヴァーダ(Nayavāda) – 部分的真理を尊重する視点
アネーカーンタヴァーダとスィヤードヴァーダを補完するのが、ナヤヴァーダです。「ナヤ(naya)」は「観点」「視点」「部分的見解」を意味し、「ヴァーダ」は「教説」です。したがって、ナヤヴァーダは「特定の観点から事物を理解する方法論」あるいは「部分的真理の教説」と解釈できます。
もしアネーカーンタヴァーダが事物の無限の多面性を説き、スィヤードヴァーダがその多面性を言語化する際の注意点を説くとすれば、ナヤヴァーダは、その多面的な事物を理解するために私たちが採用する様々な「観点」そのものに焦点を当てます。私たちがある対象について何かを語るとき、必ず何らかの「ナヤ(観点)」に立脚しています。
ジャイナ教の伝統では、ナヤは大きく分けて二つ、さらに細かくは七つなどに分類されます。例えば、主要な二つのナヤとして、
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ドゥラヴィヤールティカ・ナヤ(Dravyārthika Naya): 事物の恒常的・普遍的な実体(ドラヴィヤ)の観点から捉える見方。例えば、金の腕輪を「金」という実体として見る視点。
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パリヤーヤールティカ・ナヤ(Paryāyārthika Naya): 事物の変化する様態や属性(パリヤーヤ)の観点から捉える見方。例えば、金の腕輪を「腕輪」という特定の形状や用途を持つ様態として見る視点。
があります。同じ金の腕輪でも、どのナヤを採用するかによって、その理解は異なります。重要なのは、**それぞれのナヤは、それ自体が誤っているわけではなく、ある特定の観点からの「部分的真理」**を捉えているということです。しかし、いずれか一つのナヤを絶対視し、他のナヤを否定することは、アネーカーンタヴァーダの精神に反します。
ナヤヴァーダは、私たちが他者と対話する際に、相手がどのような「ナヤ(観点)」に基づいて発言しているのかを理解しようと努めることの重要性を示します。異なる観点に立っていることを認識すれば、表面的な意見の対立に終始することなく、より建設的な議論を進めることが可能になるでしょう。
ジャイナ教の「非実体論」の含意
ここで、「非実体論」という言葉について少し触れておきましょう。ジャイナ教の文脈で「非実体論」と言う場合、それは西洋哲学における「実体」概念の否定とは必ずしも同義ではありません。ジャイナ教は、魂(ジーヴァ)や物質(アジーヴァ)、運動の条件(ダルマ)、静止の条件(アダルマ)、空間(アーカーシャ)、時間(カーラ)といった、固有の性質を持つ実体(ドラヴィヤ)の存在を基本的には認めています。
しかし、アネーカーンタヴァーダの観点から見れば、これらの実体もまた、絶対的な一つの見方で完全に捉えられるものではなく、多様な属性や様態を持ち、相互に関連し合っていると考えられます。つまり、個々の実体が孤立して固定的に存在するというよりは、むしろ流動的で多面的な存在として捉えられるのです。その意味で、ある特定の側面のみを絶対視するような「固定的な実体観」を否定するという文脈で、「非実体論的」な性格を持つと言えるかもしれません。それは、世界を構成する要素を認めつつも、その捉え方においては極めて柔軟で多元的な視座を保つという、ジャイナ哲学の独自性を示しています。
結論:多元的共存への道しるべとしてのジャイナ哲学
アネーカーンタヴァーダ、スィヤードヴァーダ、そしてナヤヴァーダは、それぞれが独立した教説であると同時に、相互に深く関連し合い、ジャイナ哲学の精緻な体系を織りなしています。これらは、世界の複雑なありようを、人間の認識と言語の限界を踏まえつつ、可能な限り誠実に捉えようとする知的探求の結晶です。
これらの哲学は、数千年前に生まれたにもかかわらず、現代社会が抱える多くの課題に対して、驚くほど実践的な示唆を与えてくれます。異なる文化や価値観が衝突し、情報が氾濫し、ともすればコミュニケーションが断絶しがちな現代において、自己の視点の相対性を自覚し、他者の視点に敬意を払い、対話を通じて相互理解を深めることの重要性は、ますます高まっています。
ジャイナ教の哲学は、単なる知的な思弁に終わるものではありません。それは、アヒンサー(非暴力)という倫理的基盤に深く根ざし、私たちの思考、言葉、そして行動のあり方を問い直し、より調和のとれた、寛容な生き方へと導くための実践的な知恵なのです。それは、魂の解放という究極の目標へと至る道程において、私たちが世界と、そして他者と、どのように関わっていくべきかを示す、貴重な道しるべと言えるでしょう。この深遠な教えに触れることは、私たち自身の認識の扉を開き、より豊かな人間関係と、より平和な世界の実現に向けた一歩を踏み出すきっかけとなるに違いありません。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


