インド思想の広大な森を歩いていると、時折、その存在感だけで周囲の風景を一変させてしまう巨木に出会うことがあります。8世紀初頭に南インドで生を受け、わずか32年の短い生涯を、まるで流星のように駆け抜けた思想家シャンカラ(Śaṅkara)は、間違いなくそのような巨人の一人です。彼の登場は、単に一人の哲学者が現れたという以上の意味を持っていました。それは、数世紀にわたり仏教思想が優勢であったインドの知の潮流を、再びヴェーダの源流へと引き戻す、巨大な知的革命の始まりを告げる号砲だったのです。
シャンカラが打ち立てた**不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ, Advaita Vedānta)**は、その後のインド思想のあらゆる領域に、そして現代にまで続く私たちの自己理解の探求に、深く、そして決定的な影響を与え続けています。彼の哲学は、なぜかくも強力な魅力を放つのでしょうか。それは、人間の抱える根源的な問い―「私とは何か」「この世界とは何か」「苦しみから逃れる道はあるのか」―に対して、恐るべきほどにラディカルで、それでいて究極的にシンプルきわまりない答えを提示するからに他なりません。この講では、その深遠な思想の核心へと分け入っていきましょう。
もくじ.
「ブラフマンのみが実在し、世界は幻である」- 不二一元論の核心
シャンカラの哲学を一言で要約するなら、彼自身が残したとされる有名な言葉に集約されます。
「Brahma satyam, jagan mithyā, jīvo brahmaiva nāparaḥ」
(ブラフマンは実在である。世界は幻影(ミティヤー)である。個我(ジーヴァ)はブラフマンに他ならない)
この短いフレーズに、彼の思想のすべてが凝縮されています。一見すると、この世界で生きる私たちの日常感覚とはかけ離れた、過激な主張に聞こえるかもしれません。「この目の前に広がる世界が幻だって?」「私というこの確かな存在が、宇宙の根本原理と同じだなんて信じられない」。そうした戸惑いは当然のものです。しかし、シャンカラの論理の糸を丁寧にたどっていくとき、私たちはその思想が持つ驚くべき整合性と深さに気づかされることになります。
まず、この核心的な命題を理解するために、いくつかの重要な専門用語を定義しておく必要があります。
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ブラフマン(Brahman): ウパニシャッド哲学から受け継がれた、宇宙の唯一絶対の根本原理であり、究極の実在そのものを指します。それは時間、空間、因果律を超越した存在であり、私たちの感覚や思考では捉えることのできないものです。シャンカラは、このブラフマンを二つのレベルで考えました。一つは、一切の属性や限定を持たない、言語化不可能な究極の次元であるニルグナ・ブラフマン(nirguṇa-brahman, 無属性のブラフマン)。もう一つは、世界の創造主、維持者、破壊者として、様々な属性をもって現象世界に現れる**サグナ・ブラフマン(saguṇa-brahman, 属性を持つブラフマン)**です。後者は、信仰の対象となる神々と考えてよいでしょう。しかし、シャンカラにとって究極的に実在するのは、前者、ニルグナ・ブラフマンのみでした。
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アートマン(Ātman): 私たち一人ひとりの中にある「真の自己」、個体の根源にある純粋意識です。それは肉体や心、感情、思考といった移ろいゆく現象の背後にある、不変の実体です。身体が老い、心が揺れ動いても、そのすべてを「観察している私」という感覚、その最も奥深くにある核がアートマンだと考えてみてください。
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ジーヴァ(Jīva): いわゆる「個我」や「個別の魂」を指します。これは、本来ブラフマンと同一であるはずのアートマンが、無明(アヴィディヤー, avidyā)、すなわち根源的な無知によって、自らを肉体や心と同一視してしまっている状態です。ジーヴァは、自分を限定された、他のものとは別個の存在だと信じ込み、カルマの法則に縛られて輪廻転生のサイクルを繰り返します。
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マーヤー(Māyā): この世界が多様で変化に富んだものとして現れる原因となる、ブラフマンの持つ不可思議な力、あるいは「幻力」です。それは、実在でも非実在でもないとされる説明不可能な力であり、唯一なるブラフマンの上に、あたかもスクリーンに映像が映し出されるように、この現象世界を現出させます。このマーヤーの働きによって、私たちは本来一つであるブラフマンを、無数の名前と形(ナーマ・ルーパ, nāma-rūpa)を持つ世界として認識してしまうのです。シャンカラは、このマーヤーによって現れた世界を**ミティヤー(mithyā)**と呼びました。これは単なる「非存在」ではなく、「見かけ上の存在」といったニュアンスです。つまり、絶対的な視点からは実在ではないが、世俗的な経験のレベルでは存在しているかのように立ち現れるもの、それが世界なのです。
これらの用語を念頭に置くと、シャンカラの命題は次のように読み解けます。「宇宙の究極の実在は、属性を持たない唯一のブラフマンだけである。我々が経験しているこの多様な世界は、マーヤーの力によって見せられている幻影にすぎない。そして、個我として輪廻していると思っている『私』の本当の姿(アートマン)は、その唯一なるブラフマンと完全に同一なのだ」。
この「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想自体は、すでにウパニシャッドで説かれていたものです。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の有名な言葉「タット・トヴァム・アシ(Tat tvam asi, 汝はそれなり)」や、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の「アハン・ブラフマースミ(Aham brahmāsmi, 私はブラフマンなり)」といった聖句(マハーヴァーキヤ)は、まさにこの真理を指し示しています。シャンカラの独創性は、このウパニシャッドの思想を、いかなる矛盾も許さない、徹底した論理体系として再構築した点にありました。
思想的背景:仏教の「空」を乗り越えるために
シャンカラの思想を理解するためには、彼が生きた時代の知的背景を考慮することが不可欠です。当時のインドでは、仏教、特に龍樹(ナーガールジュナ)に始まる中観派の**空(シューニャター, śūnyatā)**の思想が、思想界を席巻していました。
龍樹は、あらゆるもの(法)はそれ自体で存在する実体(自性)を持たず、相互依存の関係性(縁起)によって仮に成り立っているにすぎない、と説きました。この「実体がない」というあり方を「空」と呼んだのです。この徹底した分析は、バラモン教の伝統的な実体論(アートマンなど)を根底から揺るがすものでした。
シャンカラの不二一元論は、この仏教の挑戦に対する、ヒンドゥー教側からの最も洗練された応答であったと言えます。事実、シャンカラは後世の論敵から「プラッチャンナ・バウッダ(pracchanna-bauddha, 仮面の仏教徒)」と揶揄されるほど、その思想は仏教の空の思想と表面的に類似していました。両者ともに、私たちが経験する現象世界を究極的な実在とは見なさない点で共通しています。
しかし、両者の間には決定的な違いが存在します。龍樹の「空」が、あらゆる実体的概念を否定した果てにある関係性の網の目を指し示す、いわば「非実在の哲学」であるのに対し、シャンカラの「ブラフマン」は、現象世界の非実在性を認めた上で、その背後に唯一絶対の積極的な実在を打ち立てる「実在の哲学」なのです。空が「何もない」ことを指し示すのではなく、実体がないことを示すように、ブラフマンもまた、物質的な存在ではありません。しかし、シャンカラにとってブラフマンは、存在の根拠そのものであり、純粋な存在(サット, sat)、純粋な意識(チット, cit)、純粋な歓喜(アーナンダ, ānanda)として積極的に肯定されるべきものでした。
この一点において、シャンカラは仏教の論理を内側から超克し、ヒンドゥー教(バラモン教)の伝統に、揺るぎない哲学的基盤を再建しようとしたのです。
二つの真理レベル:世界を幻としながら生きるための論理
ここで、誰もが抱くであろう素朴な疑問に戻りましょう。「もしこの世界が幻ならば、なぜ私たちは善い行いをし、倫理(ダルマ)に従って生きる必要があるのか?」「ヴェーダが命じる儀式や、カルマの法則に何の意味があるのか?」。この矛盾を解消するために、シャンカラは「二諦説(にたいせつ)」という、極めて巧妙な階層的思考法を導入しました。これは仏教から借用した枠組みですが、彼はこれを自らの哲学体系に見事に組み込んだのです。
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勝義諦(しょうぎてい, pāramārthika-satya): これは「究極の真理」のレベルです。この視点に立てば、実在するのはニルグナ・ブラフマンただ一つであり、世界も個我も存在しません。これは悟りを得た者の視点であり、すべての区別が消え去った絶対的な境地です。
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世俗諦(せぞくたい, vyāvahārika-satya): これは「世俗的な、現象的な真理」のレベルです。無明の状態にある私たちが日常的に経験している世界がこれにあたります。このレベルにおいては、世界はマーヤーによって多様なものとして現れ、個我(ジーヴァ)も存在し、カルマの法則も有効に働きます。ヴェーダの儀礼や社会的な倫理(ダルマ)が意味を持つのは、この世俗諦のレベルにおいてです。
この二つのレベルを区別することによって、シャンカラはウパニシャッドの形而上学的な真理(勝義諦)と、ヴェーダ聖典が説く儀礼や社会倫理の実践(世俗諦)を、一つの体系の中で矛盾なく両立させることに成功しました。世俗の営みは、究極的には幻かもしれませんが、無明の状態にある私たちにとっては、心を浄化し、究極の真理を悟るための重要なステップとして、その価値を認められるのです。それはまるで、夢を見ている間は、夢の中の出来事がリアルであるのと同じです。夢から覚めればすべてが幻であったと分かりますが、だからといって夢の中での経験が無意味だったわけではありません。
この構造的な思考は、まるで建築家が異なる素材を巧みに組み合わせて一つの堅牢な建物を築き上げるかのようです。思想の純粋性を保ちながら、現実社会での実践の場をも確保するという、見事な知的構築物と言えるでしょう。
解脱への道:知識(ジュニャーナ)こそが光
では、どうすれば輪廻の苦しみから解放され、究極の真理であるブラフマンと一体化する「解脱(モークシャ, mokṣa)」に到達できるのでしょうか。
シャンカラは、その道を一つに絞り込みました。それが**知識の道(ジュニャーナ・ヨーガ, jñāna-yoga)**です。彼によれば、私たちが輪廻の苦しみに囚われている根本原因は、行為(カルマ)の良し悪しでも、神への信仰の篤さでもなく、ただひとえに「無明(アヴィディヤー)」、すなわち「自分はブラフマンである」という真実を知らないことにある、と考えました。
この無明を打ち破れるのは、行為でも信仰でもなく、「知識(ジュニャーナ)」という光だけです。シャンカラは、有名な「蛇と縄の比喩」を用いてこのことを説明します。
夜道を歩いている人が、道に落ちている縄を蛇と見間違えて恐怖に陥るとします。この恐怖を取り除くために、祈ったり、儀式を行ったり、棒で叩いたりしても根本的な解決にはなりません。恐怖が完全になくなるのは、ランプで照らして「ああ、これは蛇ではなく、ただの縄だったのだ」という正しい知識を得たときだけです。
同様に、私たちは無明という闇の中で、真の自己であるアートマン(縄)を、限定された個我であるジーヴァ(蛇)と見間違え、輪廻という恐怖に怯えています。この苦しみからの解放は、グル(師)の導きと聖典の学習によって、「私(アートマン)はブラフマンである」という直接的な認識(アヌバヴァ, anubhava)が訪れたときにのみ、達成されるのです。
もちろん、シャンカラは行為の道(カルマ・ヨーガ)や信愛の道(バクティ・ヨーガ)を完全に否定したわけではありません。無私の行為や神への献身は、心を浄化し、欲望や執着を減らし、知識を受け入れるための素地を整える上で、非常に重要な準備段階(サーダナ, sādhana)として位置づけられます。しかし、それ自体が直接解脱をもたらすのではなく、あくまでもジュニャーナ(知識)を得るための補助的な手段なのです。解脱とは、何か新しい状態になることではなく、何かを獲得することでもありません。それは、覆い隠されていた本来の自己の姿に、ただ「気づく」ことなのです。
シャンカラの功績と、その不滅の影響
シャンカラがインド思想史に残した足跡は、計り知れません。
第一に、彼は仏教の論理的挑戦を乗り越え、ヴェーダーンタ哲学をインド思想界の王道として再確立しました。彼の精緻な論理体系は、その後のヒンドゥー教の思想的アイデンティティを決定づけるものとなりました。
第二に、彼はウパニシャッド、ブラフマ・スートラ、そしてバガヴァッド・ギーターという、ヴェーダーンタ派の**三種の根本聖典(プラスターナトラヤ, prasthānatraya)**すべてに、不二一元論の立場から体系的な注釈を著しました。これにより、ヴェーダーンタ哲学は強固な文献的基盤を持つに至りました。
第三に、彼は思想家であると同時に、卓越した組織者でもありました。インドの四方に四つの主要な僧院(マト, maṭha)を建立し、自らの教えを継承し、広めていくための教団組織を築き上げたのです。この僧院は、今日に至るまでシャンカラ派の拠点として存続しています。
そして何より、彼の徹底した不二一元論は、後の思想家たちにとって乗り越えるべき巨大な山となりました。次講で紹介するラマーヌジャやマドヴァといった思想家たちは、シャンカラの哲学に反論し、乗り越えようとすることで、自らの思想を先鋭化させていきました。シャンカラという圧倒的な存在があったからこそ、中世ヴェーダーンタ哲学は、多様な思想が咲き乱れる豊かな森となったのです。
おわりに:分断された世界で「一つであること」を思う
私たちは今、かつてないほどに差異が強調され、世界が細かく分断されていく時代を生きています。このような時代に、8世紀の思想家シャンカラの言葉に耳を傾ける意味はどこにあるのでしょうか。
「すべては究極的には一つである」という彼のメッセージは、国籍、宗教、文化といったあらゆる境界線を超えて、私たちを根源的なレベルで結びつける視座を提供してくれます。外側の世界に幸福や安心を求め、他者との比較や競争に明け暮れる現代の生き方に対して、シャンカラは静かに、しかし力強く語りかけます。「真の安らぎは、あなたの外にはない。それは、あなた自身の内にある真我(アートマン)が、宇宙のすべてを包含するブラフマンと一つであると気づくことによってのみ、もたらされるのだ」と。
私たちが日々行うヨーガの実践もまた、このシャンカラの思想と無関係ではありません。アーサナを通して身体の隅々に意識を巡らせ、呼吸を通して内と外の境界を溶かしていくとき、私たちは「私」という固い殻が少しずつ融解していくのを感じることがあります。その身体感覚は、まさにシャンカラが説いた「個我(ジーヴァ)はブラフマンに他ならない」という真理への、一つの扉となりうるのです。身体という最も身近な現象世界を手がかりに、その奥にある、言葉を超えた静謐な実在へと至る道。シャンカラの不二一元論は、その壮大な自己探求の旅を照らし出す、不滅の灯台として、今もなお輝き続けているのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






