はじめに:『私』とは、いったい誰なのか?
私たちは日々、「私」という言葉を当たり前のように使います。私が考える、私が感じる、私の身体、私の人生。この「私」という感覚は、私たちの経験世界の中心にどっしりと腰を下ろし、あらゆる出来事の主体として、疑いようのない自明なものとして存在しています。しかし、ひとたび立ち止まり、その「私」の正体に深く問いを向けるとき、その輪郭は驚くほど曖昧で、捉えどころのないものであることに気づかされます。
この肉体が「私」なのでしょうか。しかし、私たちの身体の細胞は絶えず生まれ変わり、数年もすれば全く別の物質で構成されると言います。この思考や感情が「私」なのでしょうか。しかし、思考は川の流れのように絶えず移ろい、感情は天候のように変化します。昨日あれほど執着していた考えが、今日は馬鹿らしく思えることもあります。記憶の集積が「私」なのでしょうか。しかし、記憶は薄れ、時には誤って書き換えられることもあります。もし記憶をすべて失ったら、「私」は消えてしまうのでしょうか。
現代社会において、私たちは職業、社会的地位、家族の中での役割、あるいはSNS上のプロフィールといった、外部との関係性の中で「私」というアイデンティティを形成しがちです。しかし、それらの肩書きや役割を一枚一枚剥いでいった後に、なお残るもの、それこそが「本当の私」なのではないか、という根源的な問いが、心の奥底から静かに湧き上がってくることがあります。
この「私とは何か?」という、人間存在の核心に触れる問いに対して、古代インドのウパニシャッドの哲人たちは、驚くほど大胆で、深遠な答えを用意しました。彼らは、祭祀儀礼が中心であったヴェーダの時代から、思索のベクトルを外界の神々から自己の内面へと劇的に転換させ、その探求の果てに「アートマン(Ātman)」という概念に到達したのです。アートマンとは、単に「魂」や「自我」と訳せるような単純な言葉ではありません。それは、変化し続ける現象的な自己の奥深くに横たわる、不変にして実在なる「真我」を指し示す言葉です。そしてウパニシャッドの賢者たちは、この探求をさらに推し進め、個人の内なる究極的実在であるアートマンが、宇宙全体の根源的実在である「ブラフマン(Brahman)」と同一であるという、驚くべき結論に至ります。これが、インド思想の頂点とも言える「梵我一如(Brahman-Ātman identity)」の思想です。
本項では、このアートマンという概念を多角的に解き明かし、それが日常的に私たちが経験する「個我」とどう違うのかを明らかにします。そして、ウパニシャッド哲学の核心である「梵我一如」の思想が、いかにして導き出され、それが人間の生と死、苦しみと解放にとって、どのような意味を持つのかを、古代の賢者たちの言葉に耳を傾けながら、丁寧に考察していきましょう。
もくじ.
アートマンの探求:内なる宇宙への旅
「アートマン」という言葉の語源は、サンスクリット語で「呼吸」「息」を意味すると言われています。生命の最も根源的なしるしである呼吸が、やがて生命そのもの、そして自己存在の中心を指す言葉へと発展していったことは、非常に示唆に富んでいます。
ヴェーダ時代においても、アートマンという言葉は使われていましたが、その意味合いはまだ流動的でした。それが哲学的な中心概念として結晶化するのは、ウパニシャッドの時代に入ってからです。なぜ、思想の関心は、宇宙の秩序(リタ)を司る神々への賛歌や、正確な儀式の執行から、自己の内なる探求へと向かったのでしょうか。
その背景には、いくつかの思想的な転換がありました。一つは、前項で触れた「輪廻(サンサーラ, saṃsāra)」と「業(カルマ, karma)」の思想の確立です。死は終わりではなく、自らの行いの結果(カルマ)に応じて、無限に続く生と死のサイクル(輪廻)を繰り返すという考え方は、人々に存在そのものに対する深い問いを突きつけました。この終わりなき苦しみの連鎖から、いかにして抜け出すことができるのか。どうすれば「解脱(モークシャ, mokṣa)」を得られるのか。この切実な問いが、内面への探求を加速させたのです。儀式を正しく行うだけでは、天界での一時的な楽は得られても、輪廻の輪から完全に自由になることはできない、という認識が広がりました。真の解放は、外的な行為によってではなく、内的な「知」によってのみもたらされる、という考えが生まれたのです。
こうして、ウパニシャッドの賢者たち(リシ)は、喧騒を離れた森の中で、瞑想と思索に深く沈潜し、「私」という存在の根源を探し求め始めました。彼らの探求は、身体、感覚、意識といった、自己を構成する要素を一つひとつ丹念に吟味していくプロセスでした。それは、まるで玉ねぎの皮を一枚一枚剥いていく作業に似ています。皮を剥いても剥いても、中心には何もないように思える。しかし、その「何もない」ように見える場所こそが、すべての層を成り立たせている中心、すなわちアートマンである、と彼らは考えたのです。
アートマンの多層構造:個我(ジーヴァ)と真我(アートマン)
ウパニシャッドの文脈で「アートマン」を理解する上で極めて重要なのは、「私」という言葉が指し示すものが、一つではないという視点です。私たちは通常、この肉体と、それを通して経験する思考や感情の束を「私」だと思っています。インド哲学では、これを「ジーヴァ(jīva)」あるいは「ジーヴァートマン」と呼びます。これは「個我」あるいは「経験的主体」と訳すことができます。
ジーヴァは、肉体、感覚器官、心(マナス)、理性(ブッディ)、自我意識(アハンカーラ)といった様々な要素と自分を同一化しています。そして、この世で喜び、悲しみ、怒り、苦しみといった経験を重ねていきます。ジーヴァは、カルマの法則に従って行為し、その結果を受け取り、輪廻のサイクルを旅する主体です。つまり、私たちが日常的に「私」と認識しているのは、このジーヴァのレベルです。ジーヴァは時間と空間に束縛され、生と死を経験し、常に変化し続ける、いわば「現象としての私」なのです。
しかし、ウパニシャッドの賢者たちは、この変化し続けるジーヴァのさらに奥深くに、もう一つの「私」が存在することを見出しました。それこそが、本来の意味での「アートマン」、すなわち「真我」です。
この真我としてのアートマンは、ジーヴァとは対照的な性質を持ちます。
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不変・常住:生まれることも死ぬこともなく、時間的な変化を超越しています。
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純粋意識:思考や感情といった心の作用(ヴリッティ)そのものではなく、それらを静かに照らし出す、純粋な「気づき」や「観照者」です。
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非行為者:ジーヴァのように行為し、その結果に一喜一憂する主体ではありません。アートマンはただ「在る」だけであり、行為の主体ではありません。
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至福(アーナンダ, ānanda):苦しみや欠乏から完全に自由であり、それ自体が満ち足りた至福の状態です。
このジーヴァとアートマンの関係は、様々な比喩で説明されます。例えば、映画のスクリーンとそこに映し出される映像の関係です。ジーヴァは、スクリーンに映る喜劇や悲劇の物語です。登場人物が笑い、泣き、戦い、死んでいきます。私たちはその物語に夢中になり、自分を登場人物と同一化します。しかし、アートマンは、その映像が映し出される土台となっている、真っ白で、静かで、何も描かれていないスクリーンそのものです。どんな激しい映像が映し出されても、スクリーン自体は少しも変化せず、傷つくこともありません。物語が終われば、また元の静かなスクリーンに戻ります。
私たちの苦しみは、自分自身をスクリーンに映る映像(ジーヴァ)だと信じ込み、その物語に一喜一憂することから生まれます。解脱とは、自分は映像ではなく、それを映し出すスクリーン(アートマン)そのものであると気づくことなのです。この気づきによって、私たちは人生という劇場の観客席に座り、物語を楽しみながらも、それに完全に巻き込まれることのない、自由な視点を得ることができるのです。
ブラフマンとの合一:「梵我一如」という究極の真理
ウパニシャッドの賢者たちの探求は、個人の内なる真我(アートマン)の発見に留まりませんでした。彼らは同時に、この多様で変化に富んだ宇宙全体を貫く、唯一不変の根源的実在は何か、という問いにも向き合いました。そして、その答えとして「ブラフマン」という概念を打ち立てます。
ブラフマンとは、ヴェーダ時代における「祈りの言葉」や「呪力」を意味する言葉から発展し、ウパニシャッドにおいては、宇宙の森羅万象を生み出し、維持し、そして最終的にすべてが帰滅していく究極的な原理、超越的な実在を指すようになりました。それは、インドラやアグニといった人格神を超えた、非人格的で、形も属性もない、絶対的な存在です。それは、時間、空間、因果律といった、私たちが世界を認識するための枠組みすべてを超えています。
あまりに超越的であるため、ブラフマンを肯定的な言葉で定義することは不可能です。そのため、ウパニシャッドではしばしば「ネーティ・ネーティ(neti neti)」という消極的な表現が用いられます。「(それは)これではない、これではない」と、私たちが知覚し、思考しうるすべてのものを否定していくことによって、かろうじてその輪郭を示唆しようとするのです。
賢者たちは、内へ内へと自己(アートマン)を探求する道と、外へ外へと宇宙の根源(ブラフマン)を探求する道、この二つの道が、最終的に同じ一点で交わることを発見しました。これこそが、ウパニシャッド哲学の金字塔、「梵我一如」の思想です。すなわち、
「汝の内なる最も深い実在であるアートマンは、宇宙の究極的な実在であるブラフマンと、本質において同一である。」
この衝撃的な宣言は、人間と世界の存在論的な見方を根底から覆すものでした。私は、この肉体という有限な牢獄に閉じ込められた、孤立した小さな存在ではない。私の本質は、宇宙全体に遍満する、無限にして永遠なる実在そのものなのだ、というのです。
この深遠な真理は、師から弟子へと、具体的な比喩や対話を通して秘儀的に伝えられました。その最も有名な例が、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』に登場する、父ウッダーラカ・アールニと息子シュヴェータケートゥの対話です。
12年間ヴェーダを学んで家に帰ってきたシュヴェータケートゥは、自分が博識であると驕り高ぶっていました。父ウッダーラカは、そんな息子に問いかけます。「一つのものを知れば、未だ聞かれざるものが聞かれ、未だ考えられざるものが考えられ、未だ知られざるものが知られるようになるという、あの教えを師から受けたか?」と。息子がその教えを知らないと答えると、父はそこから、梵我一如の奥義を、9つの巧みな比喩を用いて辛抱強く説き明かしていきます。
その中でも特に有名なのが、「塩水の喩え」です。
父は言う。「その塩の塊を水の中に入れ、明日の朝、私のところへ持ってきなさい。」息子はその通りにした。
父は彼に言った。「さあ、昨夜水の中に入れた塩の塊を持ってきなさい。」息子はそれを探したが、見つけることができなかった。それは完全に溶けてしまっていたからだ。「では、その水の上の方を少し嘗めてみなさい。どんな味がするか?」
「塩辛いです。」
「真ん中を嘗めてみなさい。どんな味がするか?」
「塩辛いです。」
「底の方を嘗めてみなさい。どんな味がするか?」
「塩辛いです。」すると父は言った。「愛しい子よ、まさにそのように、この身体の中に『有(sat)』は確かに存在するが、汝はそれを見ることができない。だが、それは確かにここに在るのだ。」
「その最も微細なるもの、この全世界はそれを本質(アートマン)としている。それが実在である。それがアートマンである。タット・トゥヴァム・アシ(Tat Tvam Asi)、シュヴェータケートゥよ。」
「Tat Tvam Asi」とは、サンスクリット語で「それは、汝である」という意味です。水に溶けた塩が、目には見えなくても水のあらゆる部分に浸透し、その本質となっているように、アートマン(ブラフマン)もまた、この身体という個我の中に遍在しているが見ることはできない。しかし、宇宙の根源である「それ(Tat)」こそが、「汝(Tvam)」の真実の姿なのだ、と父は説くのです。この「タット・トゥヴァム・アシ」という聖句は、この対話の中で実に9回も繰り返され、その重要性が強調されます。
また、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「アハム・ブラフマースミ(Aham Brahmāsmi)」、すなわち「私はブラフマンなり」という、より直接的な自己宣言の形でこの真理が語られます。
この梵我一如の思想は、単なる哲学的な思弁ではありません。それは、輪廻の苦しみから解放されるための、実践的な処方箋でした。なぜなら、私たちが苦しむのは、自分を有限で死すべき個我(ジーヴァ)だと誤認しているからです。死の恐怖、喪失の悲しみ、満たされない欲望。これらの苦しみはすべて、この誤認に根差しています。もし、自分の本質が、生まれることも死ぬこともない、無限で完全なブラフマンそのものであると真に「知る(体験する)」ならば、もはや何を恐れる必要があるでしょうか。何に執着する必要があるでしょうか。その瞬間、人はすべての束縛から解放され、究極の自由(モークシャ)と至福(アーナンダ)に到達するのです。
さらに、この思想は深い倫理的な含意も持っています。もし、すべての存在の内に、私自身の本質と同じアートマン=ブラフマンが輝いているならば、他者を傷つけることは、巡り巡って自分自身を傷つけることになります。他者への慈しみや共感は、単なる道徳的な義務ではなく、存在の真実から自然に湧き上がる、必然的な心の働きとなるのです。
梵我一如を知るための道:瞑想と身体性
しかし、この梵我一如の真理は、書物を読んだり、知的に理解したりするだけでは、決して体得できません。父ウッダーラカが教えたように、それは「聞かれ、考えられ、そして瞑想さるべきもの」でした。頭で「私はブラフマンである」と理解することと、それを全身全霊で実感し、その境地で生きることの間には、天と地ほどの隔たりがあります。
日常的な意識は、絶えず外界からの刺激に反応し、思考や感情の波に揺れ動いています。この心のざわめき(チッタ・ヴリッティ)が、内なる静かなアートマンの光を覆い隠しているのです。ヨーガ哲学の祖パタンジャリが後に『ヨーガ・スートラ』で「ヨーガとは心の作用を止滅することである」と定義したように、この心の働きを静め、個我(ジーヴァ)との同一化から意識的に離れる実践が必要とされました。
瞑想は、そのための最も重要な技法です。呼吸に意識を集中し、感覚を内側へと引き込み、思考の波が静まるのを待つ。そうして心の湖が静まり返ったとき、湖の底に沈んでいる真我(アートマン)の姿が、はっきりと映し出されるのです。
ここで見落としてはならないのが、身体の役割です。ウパニシャッドの思想は、身体を単なる魂の牢獄として否定するものではありませんでした。むしろ、この身体こそが、アートマンが宿る神殿であり、ブラフマンを体験するための貴重な道具であると考えられたのです。ハタヨガの実践などで、アーサナ(ポーズ)を通して身体感覚に深く意識を向けることは、思考の支配から逃れ、より根源的な「存在の感覚」に触れるための入り口となります。身体の隅々にまで意識を行き渡らせることで、私たちは、普段は気づかない生命の働き、すなわちアートマンの顕現を感じ取ることができるようになるのです。
おわりに:現代に響くアートマンのメッセージ
「私とは誰か?」というウパニシャッドの問いと、その答えである「梵我一如」の思想は、数千年の時を超えて、現代を生きる私たちに多くのことを示唆してくれます。
グローバル化が進む一方で、個人はますます孤立し、多くの人々がアイデンティティの不安や生きる意味の喪失感に苛まれています。私たちは、成功や所有、他者からの承認といった、外部の条件によって自己の価値を測ろうとしますが、それらは常に移ろいやすく、確固たる安心を与えてはくれません。
ウパニシャッドの教えは、私たちの視点を180度転換させます。真の自己、揺るぎない安心の源は、外側のどこかにあるのではなく、私たち自身の内側の最も深い場所に、すでに完璧な形で存在しているのだと。その真我(アートマン)は、宇宙そのものであるブラフマンと分かちがたく結びついています。この視点に立つとき、私たちは、他者との競争や比較から解放され、ありのままの自分を肯定する深い受容の感覚を得ることができるでしょう。
また、環境破壊が深刻な問題となっている現代において、梵我一如の思想は、自然との新しい関係性を築くためのヒントを与えてくれます。山や川、木々や動物たち、そして私たち人間もまた、同じ一つの根源的な生命(ブラフマン)の多様な現れであると捉えるならば、自然を単なる資源として搾取の対象と見なすことはできなくなります。自然を敬い、共生することは、私たち自身を生かしている大いなる全体性への敬意の表明となるのです。
アートマンの探求とは、自己の内側への旅であり、同時に、他者や世界との本来的なつながりを再発見する旅でもあります。それは、この有限な身体を持って生きる私たちが、その内に無限の宇宙を抱いていることを思い出す、壮大な冒険なのです。ウパニシャッドの賢者たちが遺してくれたこの智慧の光を頼りに、私たち自身の「タット・トゥヴァム・アシ」を体験する旅へと、一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






