ブラフマン:宇宙の根源、究極の実在、超越的な原理

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私たちが毎日、当たり前のように目にしているこの世界。朝を告げる太陽の光、肌を撫でる風、道端に咲く名もなき草花、そして画面越しにこの文章を読んでいるあなた自身の意識。これら無数の現象、多様な存在は、一体どこから来て、何によって成り立っているのでしょうか。この根源的な問いは、古今東西の哲学者が挑み続けてきた、人類の最も深遠なテーマの一つです。

古代インドの思想家たちもまた、この問いに真正面から向き合いました。前講で触れたヴェーダ時代、人々は自然現象の背後に神々の働きを見出し、賛歌を捧げ、儀式を通じて宇宙の秩序(リタ)を維持しようと努めました。しかし、時代が下り、ウパニシャッドの哲人たちが登場すると、思想の潮流は大きな転換点を迎えます。彼らの探求の眼差しは、多様な神々の姿を超えて、そのさらに奥にある「たった一つの、見えざる究極的な原理」へと向けられていきました。その原理こそが、**ブラフマン(Brahman / 梵)**です。

ブラフマンは、インド哲学の、とりわけウパニシャッド哲学と、その流れを汲むヴェーダーンタ哲学の核心をなす概念です。それは単に「世界の始まり」を説明する理論ではありません。ブラフマンを知ること(ブラフマ・ヴィディヤー)は、迷いや苦しみから解放され、究極の自由(モークシャ)に至る道そのものであるとされました。この講では、この捉えどころのない、しかしインド思想の全てを貫くとも言える壮大な概念「ブラフマン」の深淵へと、一歩ずつ足を踏み入れていくことにしましょう。

 

聖なる言葉から宇宙原理へ:ブラフマンの概念の変遷

「ブラフマン」という言葉が、最初から「宇宙の根源原理」という壮大な意味を持っていたわけではありません。その語源は、サンスクリット語の動詞の語根「ブリフ(bṛh)」に遡ると考えられています。この「ブリフ」には、「力強く成長する」「膨張する」「大きくなる」といった、内側から溢れ出すようなダイナミックな力のニュアンスが含まれています。

最も古い聖典である『リグ・ヴェーダ』の時代、ブラフマンという言葉は、主に「聖なる言葉」「呪力を持つ祈りの文句」といった意味で用いられていました。ヴェーダの儀式(ヤジュニャ)において、神々に捧げられる賛歌や祈りには、宇宙の秩序を動かすほどの神秘的な力が宿っていると信じられていたのです。ブラフマンとは、まさにその儀式を成り立たせ、神々さえも動かすことのできる「言葉の力」そのものでした。

しかし、ウパニシャッドの時代になると、人々の関心は変化します。儀式の力、すなわち「ブラフマン」は、なぜそれほどまでの力を持つのか。その力の源泉はどこにあるのか。哲人たちの思索は、儀式という具体的な行為から、その背後にある、より普遍的で抽象的な原理へと深く潜っていくことになります。そしてついに、「聖なる言葉の力」を意味していたブラフマンは、その言葉が指し示す対象、すなわち、あらゆる言葉や儀式、神々、そしてこの現象世界そのものを生み出し、支え、そして最終的に帰滅させる究極的な実在、宇宙の根源原理そのものを意味する言葉へと、その意味を「膨張」させていったのです。

この変化は、インド思想史における巨大なパラダイムシフトでした。外的な儀式や神々への信仰から、内的な思索と直観による真理の探求へ。ブラフマンという概念の深化は、まさにこの知的・精神的な革命の象徴であったと言えるでしょう。

 

言葉を超えた実在:ネーティ・ネーティとサット・チット・アーナンダ

では、ウパニシャッドの哲人たちは、この宇宙の根源原理であるブラフマンを、どのように説明しようと試みたのでしょうか。ここに、彼らの知的誠実さと格闘の跡が見て取れます。なぜなら、ブラフマンは、私たちの感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚)で捉えることも、言葉や論理で完全に定義することもできない、超越的な存在だからです。もし「ブラフマンはこれだ」と指し示すことができたなら、それはもはや限定された一つのものであり、万物を生み出す無限の原理ではありえません。

この困難な課題に対し、ウパニシャッドは二つの異なる、しかし相互補完的なアプローチを提示します。

一つは、「ネーティ・ネーティ(Neti, Neti)」、すなわち**「〜ではない、〜ではない」**と否定を繰り返していく道です。これは『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』などで見られる、きわめて特徴的な論法です。

「さて、アートマン(真我)についての教示がある。『非ず、非ず(ネーティ、ネーティ)』と。(アートマンは)把握されることなく、把握されない。破壊されることなく、破壊されない。付着することなく、付着しない。束縛されることなく、動揺せず、傷つけられることもない。」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 4.5.15 より意訳)

ここで語られるアートマンは、後述するようにブラフマンと同一視されるものです。この教えは、私たちが「これこそが真実だ」と考えがちな、目に見えるもの、形あるもの、名前をつけられるもの、それら全てを一つひとつ丁寧に否定していきます。それは粗大でもなく、微細でもない。短くもなく、長くもない。赤くもなく、湿ってもいない。影でもなく、闇でもない。このように「〜ではない」と繰り返すことで、あらゆる限定的な属性を取り払い、私たちの認識の網の目からこぼれ落ちてしまうような、その向こう側にある究極の実在を、いわば「輪郭」で浮かび上がらせようとするのです。

これは、対象を分析して理解しようとする西洋的な知の方法とは全く異なります。むしろ、私たちの知がいかに限界を持つかを自覚させ、言葉や思考が作り出す檻から精神を解放させるための、一種の瞑想的なプロセスと言えるでしょう。

もう一つのアプローチは、肯定的な言葉を用いてブラフマンの本質を指し示そうとするものです。その代表が**「サット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ānanda)」**という表現です。

  • サット(Sat):存在、有。ブラフマンは、移ろいゆく現象の背後にある、永遠不変の「純粋な存在」そのものです。それは生まれることも滅びることもなく、ただひたすらに「在る」という実在性そのものを意味します。

  • チット(Cit):意識、知。ブラフマンは、単なる物質的な存在ではなく、「純粋な意識」です。それは何かを対象とする意識(私がリンゴを意識する、など)ではなく、対象も主観もない、ただ「知る」という働きそのもの、光輝く意識の原理です。

  • アーナンダ(Ānanda):歓喜、悦。ブラフマンは、苦しみや悲しみ、対立や欠乏から完全に自由な、「至高の歓喜」に満ちた状態です。それは何かを得ることで生じる相対的な喜びではなく、存在そのものから湧き上がる、無条件の満ち足りた喜びを指します。

「ネーティ・ネーティ」が私たちの認識の限界を突きつけ、沈黙へと誘う道であるとすれば、「サット・チット・アーナンダ」は、その沈黙の先にある実在の輝きを、人間の最高の概念を用いて、いわば詩的に指し示そうとする試みです。これら二つの道は、一見すると矛盾しているように見えるかもしれません。しかし、それらは同じ山の頂を、異なるルートから目指す登山道のようなものです。言葉を絶した場所で、この二つの道は一つに合流するのです。

 

世界の創造主と超越原理:サグナ・ブラフマンとニルグナ・ブラフマン

ウパニシャッドの哲人たちの思索が深まるにつれて、ブラフマンの概念はさらに洗練され、二つの側面から捉えられるようになります。それが**ニルグナ・ブラフマン(Nirguṇa Brahman)サグナ・ブラフマン(Saguṇa Brahman)**です。

ニルグナ・ブラフマンとは、「グナ(guṇa)を持たないブラフマン」という意味です。グナとは「属性、性質」のこと。つまり、ニルグナ・ブラフマンは、あらゆる属性や性質、形や名前を超越した、絶対的で無差別の究極実在です。これは先に見た「ネーティ・ネーティ」のアプローチが指し示す、純粋に哲学的な、非人格的な原理としてのブラフマンです。それは思考の究極点であり、言葉では表現不可能な、絶対無のようでありながら全てを含む根源です。

一方、サグナ・ブラフマンとは、「グナを持つブラフマン」を意味します。これは、ニルグナ・ブラフマンが、この現象世界を創造し、維持し、破壊する働きを持つ人格的な神として現れた姿です。創造主、支配者としての人格を持つため、**イーシュヴァラ(Īśvara / 自在神)**とも呼ばれます。サグナ・ブラフマンは、慈悲深く、祈りに応え、恩寵を授ける信仰の対象となります。後のヒンドゥー教で崇拝されるヴィシュヌ神やシヴァ神といった偉大な神々は、このサグナ・ブラフマンの具体的な現れと解釈されることになります。

なぜ、このように二つの側面を立てる必要があったのでしょうか。それは、人間の認識能力と精神的欲求の両方に応えるための、巧みな思想的工夫であったと考えられます。純粋な哲学的原理であるニルグナ・ブラフマンは、知的探求のゴールとしては魅力的ですが、多くの人々にとって、あまりに抽象的で捉えどころがありません。私たちは、愛し、祈り、頼ることのできる、人格的な存在を求めがちです。サグナ・ブラフマンは、そのような人々の信仰心に応えるための側面です。

しかし、サグナ・ブラフマンだけでは、多神教に陥ってしまう危険性があります。ヴェーダーンタ哲学、特にシャンカラの不二一元論では、この二つの関係を明確に位置づけます。サグナ・ブラフマンは、究極的にはニルグナ・ブラフマンという唯一の実在が、後述するマーヤー(幻力)のヴェールを通して現象的に現れた姿であり、真の解脱とは、サグナ・ブラフマンへの信仰を経由しつつも、最終的にはその背後にあるニルグナ・ブラフマンと自己(アートマン)が一体であることを悟ることにある、と説くのです。

 

宇宙と私が一つであるということ:ブラフマンとアートマンの合一

ウパニシャッド哲学が到達した最も深遠で、最も影響力のある思想。それが**「梵我一如(ぼんがいちにょ)」です。これは、宇宙の根源原理であるブラフマンと、個人の内なる本質であるアートマン(Ātman / 我)**が、本質において同一であるという教えです。

アートマンとは、私たちの身体や心、思考や感情といった、常に移ろいゆく現象的な自己(小文字のself)の奥に存在する、不変の核となる真の自己(大文字のSelf)、すなわち「真我」のことです。「アートマン」の語源は「呼吸する(an)」とされ、元々は生命を支える「息」を意味していました。それが次第に、個人の生命活動の根源、意識の主体、そして不滅の魂を意味するようになったのです。

ウパニシャッドの賢者たちは、外なる世界の探求(ブラフマンの探求)と、内なる自己の探求(アートマンの探求)という二つの道を突き詰めた結果、驚くべき結論に達しました。二つの道の終着点は、同じ場所だったのです。宇宙を貫く巨大な原理と、私の存在の最も奥深い核は、別々のものではなく、全く同じ一つの実在であった。この衝撃的な発見が、数々のウパニシャッドで、繰り返し様々な比喩を用いて語られています。

その中でも最も有名な言葉が、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』に出てくる**「タット・トヴァム・アズィ(Tat tvam asi)」、すなわち「それは汝である」**という聖句です。父ウッダーラカが息子シュヴェータケートゥに、目に見えない世界の根源を教える場面で、この言葉は語られます。

「その微細なもの、これを本質として、この全世界は存在する。それが実在であり、それがアートマンである。シュヴェータケートゥよ、それは汝である(Tat tvam asi)。」(チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 6.8.7 より意訳)

塩が水に溶けて見えなくなっても、その水全体に塩味が広がっているように。巨大なニグローダ(菩提樹)の種を割っても中には何もないように見えるが、その微細な本質から巨大な木が生まれるように。世界の根源であるブラフマンは、目には見えないが、あらゆる存在の内に、そして「汝」自身の内に浸透しているのだ、と父は説きます。

この「梵我一如」の思想は、私たちの自己認識を根底から覆す力を持っています。私たちは普段、自分を「皮膚の内側に閉じ込められた、世界から切り離された孤独な個人」として認識しています。しかし、ウパニシャッドは言います。その認識は、表面的なものに過ぎない。あなたの本当の姿(アートマン)は、この宇宙全体(ブラフマン)なのだ、と。

この気づきは、私たちを孤独感や無力感、死への恐怖から解放します。なぜなら、もし私が宇宙そのものであるならば、失うものは何もなく、死すべき個体としての自己は仮の姿に過ぎなくなるからです。それは、波が自分を「小さな、はかない波」だと思い込んでいる状態から、「私は広大な海なのだ」と自覚するようなものです。波としての形はいつか消えるかもしれませんが、海としての本質は永遠に存在し続けます。この揺るぎない安心感と広大な自由の感覚こそ、ウパニシャッドが目指した解脱(モークシャ)の境地なのです。

 

なぜ世界は多様に見えるのか:マーヤーのヴェール

ここで、鋭い読者は一つの疑問を抱くかもしれません。「もしブラフマンという唯一の実在しかないのであれば、なぜこの世界は、私とあなた、机と椅子、山と川といった、無数の多様なものとして現れているのか?」

この問いに対する答えとして、後のヴェーダーンタ学派、特にシャンカラが体系化したのが、**マーヤー(Māyā / 幻力)**の理論です。マーヤーとは、ブラフマンが持つ不可思議な力であり、唯一無二の実在であるブラフマンを、あたかも多様な現象世界であるかのように見せる「幻の力」です。

重要なのは、マーヤーは単なる「無」や「非存在」ではないということです。それはブラフマンの力(シャクティ)の一部であり、それ自体は実在します。しかし、その働きは、真実の姿を覆い隠し(アーヴァラナ)、誤った姿を見せる(ヴィクシェーパ)という二重の作用を持ちます。

有名な比喩に、「ロープを蛇と見間違える」というものがあります。薄暗がりで地面に落ちているロープを、毒蛇だと思って飛びのく。このとき、「蛇」という認識は明らかに間違いです。しかし、そこには「ロープ」という基体(ブラフマンに相当)が実在しており、薄暗がりという条件(マーヤーに相当)によって、誤った認識(現象世界に相当)が生じています。懐中電灯で照らし、それがロープであると正しく認識したとき(ブラフマンの知識を得たとき)、蛇の幻は消え去ります。しかし、それによってロープ自体が消えるわけではありません。

この世界は、マーヤーによって映し出された幻のようなものです。私たちは、この幻の世界を実在だと思い込み、その中で一喜一憂し、苦しんでいます。しかし、ブラフマンを知るという智慧の光によってマーヤーのヴェールが取り払われたとき、世界の多様性は消え去るわけではなく、その全ての現れの背後に、唯一なるブラフマンの輝きを見出すことができるようになるのです。

 

ブラフマンの探求が現代に問いかけるもの

古代インドの哲人たちが追い求めたブラフマンという壮大な概念。それは、21世紀を生きる私たちに、一体何を語りかけてくれるのでしょうか。

第一に、多様性の中の統一性という視点です。人種、宗教、文化、価値観の違いによって、世界が絶えず分断と対立の危機に晒されている現代において、全ての存在の根底には、分かちがたく結ばれた一つの原理(ブラフマン)が流れているという思想は、私たちに深いレベルでの共感と寛容さの基盤を与えてくれます。他者とは、究極的には「もう一人の自分」に他ならないのかもしれません。

第二に、内なる探求の重要性です。私たちは、SNSの「いいね」の数や社会的な成功など、外部からの評価によって自己価値を測りがちです。しかし、ブラフマンの思想は、真の価値や安心感の源泉は、自己の内なる本質(アートマン)に他ならないと教えます。外の世界に振り回されることなく、静かに内側へ深く潜っていくとき、私たちは宇宙と繋がる、揺るぎない自己の基盤を発見することができるでしょう。それは、現代の言葉で言えば、マインドフルネスや瞑想が目指す境地とも深く響き合います。

そして第三に、自然との新たな関係性です。もし森の木々も、流れる川も、空飛ぶ鳥も、すべてがブラフマンの現れであるならば、自然はもはや人間が利用し、支配するための単なる「資源」ではありえません。それは私たち自身と同じ、神聖な生命の輝きを宿した存在です。この思想は、現代の環境倫理やエコロジー思想に、深遠な哲学的根拠を与える可能性を秘めています。

ブラフマンを知る道は、書物を読むだけの知的作業に留まりません。ウパニシャッド以来の伝統では、信頼できる師からの教えを聞き(シュラヴァナ)、それを論理的に深く思索し(マナナ)、そして学んだ真理を瞑想によって自己の体験として深く体得する(ニディディヤーサナ)という、三つの段階が重要であるとされます。

この本を読み、ブラフマンという概念について思考を巡らせることは、まさにその第一歩、「シュラヴァナ」と「マナナ」の実践に他なりません。この探求の先に、願わくは、あなた自身の内なるブラフマンの輝きを垣間見る瞬間が訪れますように。宇宙の根源は、遠いどこかにあるのではなく、今、ここにいるあなたの最も深い中心に、静かに呼吸しているのですから。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。