「阿字観」と深刻にならないことの智慧 – 大日如来の掌の上で遊ぶように生きる

私たちの日常は、気づけば「深刻さ」という名の、目に見えない重力に引かれ、その沼に足を取られてしまいがちです。「こうでなければならない」という強固な思い込み、未来への漠然とした不安、過去の後悔という名の亡霊。それらは、私たちの肩にずっしりと重くのしかかり、心身を硬直させ、自由な呼吸の余地さえ奪っていきます。私たちは、人生という舞台の上で、あまりにも生真面目な悲劇の主人公を、必死に演じ続けているのかもしれません。

しかし、もし、その重たい鎧をふわりと脱ぎ捨て、まるで広大な宇宙そのものと戯れる子供のように、軽やかに生きる道があるとしたら、どうでしょう。その扉を開く鍵の一つが、日本の密教、特に真言宗に古くから伝わる「阿字観(あじかん)」という、美しくも深遠な瞑想法の中に、静かに隠されています。

阿字観は、単なるリラクゼーション技法ではありません。それは、私たちが普段「自分」だと思っている、ちっぽけで深刻な自己という殻を打ち破り、この宇宙の生命そのものと一体であるという、広大無辺の真実に触れるための、壮大な旅への招待状なのです。

この探求は、密教の瞑想が、いかにして私たちの「深刻さ」という病を癒し、生きることを、苦しい義務から喜びに満ちた「遊び」へと転換させる力を持つのかを、丁寧に解き明かしていくものとなるでしょう。

 

阿字観とは何か? – 月輪と蓮華に座す「阿」の字との対話

阿字観瞑想を始めるにあたり、私たちはまず、一枚の掛け軸の前に座ります。そこには、清らかな白蓮華(びゃくれんげ)の上に浮かぶ、満月のような白い円相、「月輪(がちりん)」が描かれています。そして、その月輪の中心には、金色に輝く梵字(サンスクリット文字)の「阿(ア)」の字が、静かに鎮座しています。

このシンプルな図像こそが、阿字観が観想する対象であり、密教の宇宙観のすべてが凝縮された、深遠なマンダラ(聖なる図)なのです。

  • 「阿」の字が意味するもの: 「阿(a)」は、サンスクリット語の最初のアルファベットであり、「すべての始まり」「根源」を意味します。仏教では「不生(ふしょう)」、すなわち「生まれもせず、滅びもせず、始まりも終わりもない」という、あらゆる存在の奥にある本質、生命そのものを象徴します。密教では、この「阿」の字を、宇宙の森羅万象の創造主であり、それらすべてと一体である大日如来(だいにちにょらい)そのものであると見なします。

  • 月輪(がちりん)が意味するもの: 清らかで円満な満月は、私たちの心の本性、すなわち「仏心(ぶっしん)」や「菩提心(ぼだいしん)」を象徴しています。それは、本来、欠けることなく、曇りもなく、誰の心にも完全な形で備わっている、清浄な智慧の光です。

  • 蓮華(れんげ)が意味するもの: 蓮は、泥の中に根を張りながらも、その泥に染まることなく、清らかで美しい花を咲かせます。これは、私たちが欲望や苦しみに満ちたこの現実世界(泥)にありながらも、その中に埋没することなく、本来の清らかな仏性を開花させることができるという、希望の象徴です。

阿字観の実践者は、まず静かに座り、呼吸を整え、この「阿字」の掛け軸を心静かに見つめます。そして、徐々に目に見える図像から、心の中のイメージへと移行していきます。

自らの胸の中に、清らかな月輪が浮かんでいるのを観想します。そして、その月輪が宇宙大にまで広がり、自分と世界の境界が溶けていくのを感じます。さらに、吸う息と共に、宇宙に遍満する「阿」字の生命エネルギーが自分の中に入り、吐く息と共に、自分が「阿」字そのものとなって、宇宙全体に溶け込んでいく…。「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼ばれるこの境地は、私という個人の意識が、大日如来という宇宙的な生命意識と一体化する、究極の合一体験です。

 

「真剣」と「深刻」の分水嶺

さて、ここで私たちの日常に目を戻してみましょう。阿字観が目指す「宇宙との一体感」や「広大無辺の生命」という境地は、なぜ、私たちの「深刻さ」を癒す力を持つのでしょうか。それを理解するためには、まず「真剣であること」と「深刻であること」の違いを、明確に区別する必要があります。この二つは、似ているようで、その根底にある意識の状態は天と地ほども異なります。

  • 真剣であること: これは、今この瞬間の行為に、100%の意識とエネルギーを集中させている状態です。茶道の亭主が一点の迷いなくお茶を点てるように、剣豪が精神を研ぎ澄まして木刀を振るうように。そこには、未来への不安や過去への執着はなく、ただ純粋な「今」への没入があります。真剣さは、私たちの行為に深みと質を与え、私たちをフロー状態へと導きます。

  • 深刻であること: これは、行為そのものではなく、その「結果」や「評価」に意識が囚われている状態です。その根底には、「私」という小さなエゴの存在が、肥大化して居座っています。「失敗したらどうしよう」「他人にどう思われるだろう」「なぜ私はうまくできないんだ」。この自己言及的な思考のループが、深刻さの本質です。深刻さは、私たちの心身を緊張させ、視野を狭め、エネルギーを消耗させます。

私たちは、仕事や人間関係、あるいは自己実現の道において、「真剣」に取り組むべきところを、いつの間にか「深刻」になってしまっているのです。まるで、嵐の海で小舟を漕ぐ船頭のように、必死の形相で、自分の力だけで荒波を乗り切ろうともがいている。それが、深刻な状態の私たちです。

 

阿字観がもたらす「深刻さ」からの解放

阿字観瞑想は、この深刻さという病に対して、いくつかの深遠な処方箋を提示します。

1. 視点の転換 – 「私」という小さな物語からの離脱

深刻さの根源は、すべての物事を「私」という小さな一点から見てしまう、自己中心的な視点にあります。私の問題、私の悩み、私の失敗…。しかし、阿字観の実践を通して、私たちは自らの意識を胸の中の月輪から宇宙大へと広げていきます。

自分の存在が、大日如来という宇宙的生命の一部であると体感する時、それまで絶対的なものだと思っていた「私の悩み」は、まるで広大な銀河に浮かぶ、ちっぽけな塵のように見えてきます。その悩みが無くなるわけではありません。しかし、その悩みに同一化し、振り回されていた状態から、解放されるのです。それは、嵐の小舟の中でもがいていた視点から、はるか上空からその嵐全体を静かに眺めているような、視点の劇的なシフトです。この「スケール感の転換」こそが、深刻さを相対化し、心を軽くする第一歩なのです。

2. 究極の「お任せ」感覚 – 大日如来の掌の上で

阿字観における「入我我入」の体験は、「私」が何かをコントロールしているという感覚からの完全な解放をもたらします。吸う息と共に宇宙(大日如来)が私の中に入り、吐く息と共に私が宇宙に溶け込んでいく。この時、呼吸をしているのは、もはや小さな「私」ではありません。宇宙そのものが、私という楽器を通して、呼吸しているのです。

この感覚は、人生における究極の「委ね」、あるいは「お任せ」の境地へと繋がります。深刻な私たちは、人生の舵をすべて自分で握り、コントロールしようと必死になっています。しかし、阿字観は教えてくれます。「あなたは、大日如来という、広大で慈悲深い生命の掌の上で、生かされているのだよ」と。

この絶対的な安心感、大いなるものに抱かれているという感覚に根ざした時、私たちは肩の力を抜き、人生の流れに抵抗するのをやめることができます。それは諦めではありません。最高の信頼に基づいた、積極的なサレンダー(降伏)です。もはや、一人で頑張る必要はない。そう気づいた時、深刻さは感謝と安らぎへと溶けていくのです。

3. 「不生」の真理 – 失敗という概念の消滅

「阿」の字が象徴する「不生(生まれもせず、滅びもせず)」という真理は、私たちの成功や失敗という二元論的な価値観を、根底から覆します。私たちは、何かを成し遂げれば「成功」し、できなければ「失敗」したと、一喜一憂します。この結果への執着が、深刻さを生み出す大きな要因です。

しかし、もし、私たちの本質が、始まりも終わりもない、永遠の生命そのものであるとしたら、どうでしょう。人生における一つ一つの出来事は、その永遠の生命が経験する、一時的な波の満ち引きに過ぎなくなります。失敗とは、単に「今回はそのようであった」という一つの経験データであり、私たちの本質的な価値を何ら損なうものではありません。

まるで、海そのものが「今の波は失敗だった」などと悩まないように。「不生」の境地に立てば、成功も失敗も、すべては宇宙の壮大な戯れ(リーラ)の一部として、ただ静かに受容し、楽しむことさえできるのです。

 

日常に活かす阿字観の智慧

阿字観は、掛け軸の前で座る、特別な修行の時間だけのものではありません。そのエッセンスは、私たちの「深刻になりがちな」日常のあらゆる場面で、心の杖として活用することができます。

仕事で大きなプレッシャーを感じた時。

人間関係で心がささくれだった時。

将来への不安で押しつぶされそうになった時。

そんな時、ほんの数秒でもいい、静かに目を閉じ、自分の胸の中に、清らかな月輪と、金色に輝く「阿」の字を思い浮かべてみてください。そして、一呼吸。「私は、宇宙と共にある」と、心の中で静かに唱えてみましょう。

この短い観想は、あなたを深刻さの沼から引き上げ、広大な視点と、大いなるものとの繋がりを、瞬時に思い出させてくれるはずです。それは、日常の中に持ち運べる、あなただけの「内なるお寺」なのです。

 

結論:深刻さは無知であり、遊び心は智慧である

真言宗の開祖である空海は、その主著『秘密曼荼羅十住心論』の中で、人間の心の発展段階を十段階で示しました。その最も未熟な第一段階を「異生羝羊住心(いしょうていようじゅうしん)」、すなわち「本能の赴くままに生きる、牡羊のような心」と呼びました。深刻さとは、この自己中心的な視点から抜け出せない、いわば「霊的な未熟さ」の表れなのかもしれません。私たちは、自分が宇宙から切り離された孤独な存在であるという「無知(アヴィディヤー)」のせいで、不必要に苦しんでいるのです。

阿字観とは、この無知の闇を照らし、「あなたは本来、大日如来という宇宙の光そのものなのだ」という真実を思い出させてくれる、慈悲の光です。その光に照らされた時、私たちは生きることを、重苦しい義務としてではなく、神聖な遊びとして捉え直すことができます。

人生という舞台で、深刻な悲劇の主人公を演じ続けるのを、もうやめにしませんか。代わりに、大日如来という偉大な演出家の掌の上で、好奇心に満ちた子供のように、自由に、そして軽やかに踊ってみませんか。

阿字観瞑想は、そのための、最も優雅で、最も深遠なダンスの振り付けを、私たちに教えてくれているのです。あなたの胸の中には、すでに完全な月輪が輝き、不生の「阿」の字が、あなたが気づいてくれるのを、永遠の時から、静かに待ち続けています。

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。