前回の記事では、偉大な師ブッダの入滅後、その教えをいかに守り、伝えるかという課題に直面した弟子たちが、教義や戒律の解釈を巡って様々なグループに分かれ、部派仏教の時代を迎えたことをお話ししました。この時代、仏教は阿毘達磨という体系的な論書群を生み出し、学問的に深く掘り下げられ、哲学体系としての側面を強化しました。それは、教えを論理的に理解しようとする人間の知性の探求を示すものでしたが、一方で、あまりに細分化された教義や、個人の解脱(アルハットになること)を主眼とする傾向が強まったことに対して、別の視点から仏教のあり方を問い直す声も生まれ始めました。
このような背景から、紀元前1世紀頃から紀元後にかけて、インドにおいて仏教の新たな潮流が静かに、しかし確実に力をつけてきました。それが「大乗仏教(だいじょうぶっきょう)」です。部派仏教を「小乗(しょうじょう)」と批判的に呼び(この呼称は現在では蔑称として避けるべきとされています)、自らを「大乗」、すなわち「大きな乗り物」と称した彼らは、個人の救済だけでなく、全ての生きとし生けるものを苦しみから救済するという壮大な理想を掲げました。本日は、この大乗仏教がどのようにして出現し、その核心である「菩薩の慈悲」と「空の思想」が何を意味するのかを、共に探求していきましょう。それは、現代社会における私たちの生き方、他者との関わり方、そして世界の捉え方にも深く関わる、普遍的な智慧の宝庫です。
もくじ.
なぜ「大乗」が必要とされたのか?
部派仏教の時代、特に有力な部派においては、ブッダが説いた教えを論理的に分析・体系化することに力が注がれました。その結果、煩瑣な教義が生まれ、出家して厳しい修行を積み、阿毘達磨に通じた一部の僧侶だけが悟りを開き、アルハット(煩悩を断ち切った聖者)になれるというエリート主義的な傾向が強まった側面がありました。在家の人々や、学問的な素養を持たない人々にとっては、仏教の門が狭く感じられたかもしれません。
このような状況に対して、「ブッダの真の精神は、一部の者だけが救われるというものではなかったのではないか?」「ブッダは全ての人々への深い慈悲から教えを説かれたのではないか?」という疑問の声が上がりました。彼らは、部派仏教が個人の解脱に終始し、ブッダ本来の「慈悲」という精神、すなわち苦しむ全ての人々を救済しようという願いが薄れていると感じたのです。
また、阿毘達磨による存在の徹底的な分析は、物事を固定的な「法」の集まりとして捉えがちになり、ブッダが説いた「諸法無我」や「縁起」といった、物事が互いに依存し合って成り立ち、固定的な実体を持たないという真理から、かえって遠ざかってしまったという批判も生まれました。彼らは、物事の「空(くう)」なる本質を見抜くことこそが、真の悟りへの道であると考えました。
大乗仏教は、このような問題意識、すなわち「個人的な解脱にとどまらず、全ての人々を救済したい」という慈悲の精神への回帰と、「存在の固定性」という誤解を打ち破り、物事の「空」なる本質を洞察したいという智慧の探求から生まれた、仏教内部からの革新的な運動でした。彼らは、自分たちの目指す道こそが、全ての人々を涅槃という彼岸へと運ぶ「大きな乗り物(マハーヤーナ)」であると宣言し、既存の部派仏教を、自分だけが乗れる「小さな乗り物(ヒーナヤーナ)」であると位置づけたのです(ただし、この「小乗」という言葉は、大乗側からの批判的な呼称であり、現在も続く上座部仏教を指す言葉としては適切ではありません)。
菩薩(ぼさつ)の理想 – 慈悲の誓い
大乗仏教が目指す理想像は、部派仏教におけるアルハットとは異なる「菩薩(ぼさつ、ボーディサットヴァ)」です。「菩薩」とは、「菩提(悟り)を求める薩埵(衆生)」という意味で、究極的な悟り(仏になること)を目指しながらも、自らの悟りを完成させることを一旦保留し、苦しむ全ての人々を救済するために、この迷いの世界( samsara )に留まり、利他行(りたぎょう:他者のために行う行為)を実践する存在です。
菩薩は、アルハットのように煩悩を断ち切り、個人的な解脱を得ることも可能ですが、その目標を達成した後も、涅槃に入ることをせず、再びこの苦しみの世界に戻ってきます。それは、苦しむ他の衆生を見捨てるに忍びないという、尽きることのない「慈悲(メッタ:他者の幸福を願う心、カルナー:他者の苦しみを取り除きたいと願う心)」の心に突き動かされているからです。
この菩薩の生き方こそが、大乗仏教徒にとっての最高の理想とされました。彼らは、ブッダが悟りを開いてから涅槃に入るまでの45年間、人々のために教えを説き続けた姿こそが、究極の菩薩行であると考えたのです。そして、ブッダと同じように、自らも全ての衆生を救済することを誓い、「四弘誓願(しぐせいがん)」(衆生無辺誓願度、煩悩無数誓願断、法門無尽誓願学、仏道無上誓願成:数限りない衆生を全て救済しよう、無数の煩悩を全て断ち切ろう、尽きることのない教えを全て学ぼう、無上の仏道を必ず成就しよう)といった誓いを立てて、厳しい修行と利他行に励みました。
菩薩が実践すべき修行の具体的な内容として、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」が説かれます。これは、煩悩の彼岸(パーラミター)に至るための六つの実践徳目です。
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布施(ふせ、ダーナ): 財物だけでなく、教え(法施)、そして恐れを取り除くこと(無畏施)によって、他者に与えること。
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持戒(じかい、シーラ): 戒律を守り、身口意を清らかに保つこと。
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忍辱(にんにく、クシャーンティ): 苦難や侮辱に耐え忍ぶこと。
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精進(しょうじん、ヴィーリヤ): 善い行いを積極的に努め、仏道修行に励むこと。
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禅定(ぜんじょう、ディヤーナ): 心を集中させ、静めること。瞑想の実践。
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智慧(ちえ、プラジュニャー): 物事の真実の姿(特に空)を見通す力。
この六波羅蜜は、単なる個人的な徳目の実践ではありません。それは全て、苦しむ他者を救済し、自らも悟りへと近づくための菩薩の利他行として位置づけられます。特に「智慧」は、六波羅蜜の中で最も重要視され、他の五つの実践を完成されたものにする力があるとされました。この「智慧」こそが、次に述べる「空」の思想と深く結びついています。
空(くう、シューニャター)の思想 – 全てのものの本質
大乗仏教を思想的に特徴づける最も重要な概念が「空」です。これは、単に「何もない」というニヒリズム(虚無主義)を意味するのではありません。それは、全ての存在や現象が、それ自体で独立して存在する固定的な実体(自性:スヴァバーヴァ)を持たないという真理を指します。
原始仏教においても「諸法無我」、すなわち個人に固定的な「私(我)」がないことは説かれていました。大乗仏教の空思想は、この「無我」の考え方をさらに徹底し、個人だけでなく、あらゆる「法」(物事や現象を構成する要素)にも固定的な実体がないことを主張します。例えば、目の前にあるコップは、ガラス、形、色、温度など、様々な要素が組み合わさって「コップ」として認識されています。しかし、これらの要素は常に変化しており、またコップという概念も、私たちの認識や用途によって変わる相対的なものです。そこに「コップ」という絶対的な不変の実体があるわけではありません。
これをさらに深めたのが、「縁起即空」という考え方です。全ての存在や現象は、何かの原因や条件(縁)によって生起し、互いに関連し合って成り立っています(縁起)。縁起によって成り立っているということは、それ自体で独立して存在する実体を持たないということです。つまり、縁起しているもの、関係性の中にしか存在しないものは、それゆえに「空」であるということです。
「空」の思想は、龍樹(ナーガールジュナ)という紀元後2世紀頃に活躍したインドの僧侶によって、哲学的に体系化されました。彼は『中論(ちゅうろん)』などの著作において、物事が固定的な実体を持つという見方(有)と、物事が全く存在しないという見方(無)の両極端を離れた「中道」こそが真理であり、その中道を洞察するのが空であると説きました。これが「中観派(ちゅうがんじゅ)」という大乗仏教の重要な学派の始まりとなります。
空の思想は、単なる哲学的な思弁ではありません。それは、私たちの苦しみを解決するための最根本的な智慧であると考えられています。私たちは、物事が固定的な実体を持つと誤解し、「これが私のものだ」「私はこういう人間だ」といった自我や所有物、あるいは理想の自分に対する執着を生み出します。そして、その執着の対象が変化したり失われたりすると、苦しみを感じるのです。しかし、物事が全て「空」であると理解すれば、執着の対象もまた固定的な実体を持たない一時的なものであることが分かり、執着から離れることが容易になります。
また、「私」という固定的な自我も「空」であると理解することは、自他という境界線への執着を和らげ、他者への慈悲の心を自然に育む土壌となります。自と他は独立して存在するのではなく、縁起によって深く繋がっている独立な存在だからです。自分が苦しむことと、他者が苦しむことは、本来分けることのできない、同じ縁起の網目の中にある現象として捉えられるようになります。このように、空の思想は、単なる理論ではなく、慈悲の実践と深く結びついた、私たちの生き方を根底から変える力を持つ智慧なのです。
『般若経(はんにゃきょう)』という大乗経典には、この空の思想が繰り返し説かれています。「色即是空、空即是色」という有名な言葉は、『般若心経』に含まれていますが、これは物質的な存在(色)はそのまま空であり、空であるからこそ様々な物質的な存在が現れることができる、という空のダイナミズムを示しています。全ては空であるがゆえに、あらゆる可能性が開かれている、とも解釈できます。
大乗経典の世界 – 救済への多様な道
大乗仏教は、部派仏教の三蔵(経・律・論)とは異なる、独自の新しい経典群を生み出しました。これらの経典は、ブッダが説かれた言葉であるとされ(ただし、その成立時期は部派仏教の経典より後代です)、ブッダの深遠な智慧や慈悲の精神、そして菩薩の理想を様々な角度から説いています。代表的な大乗経典としては、以下のようなものがあります。
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『般若経』: 空の思想を繰り返し、様々な比喩や論理を用いて説く経典群。『般若心経』や『金剛経』など、多くのバージョンがあります。智慧(プラジュニャー)の完成を説き、あらゆるものへの執着を離れることの重要性を強調します。
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『法華経(ほけきょう、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』: 全ての衆生が等しく仏になることができる(一切衆生悉有仏性:いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という真理を説き、菩薩道を実践することの重要性を強調します。ブッダが実は遠い過去から衆生を救済し続けているという「久遠実成(くおんじつじょう)」の思想や、様々な方便を用いて教えを説くことの意義(方便品)などが説かれ、中国や日本で広く信仰を集めました。
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『華厳経(けごんきょう、アヴァタンサカ・スートラ)』: 全ての存在が互いに不可分に繋がり合っている(縁起)という真理を、壮大な世界観で描く経典。一即一切、一切即一という、個と全体がそのまま結びついている相互連結性の思想が特徴です。
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『維摩経(ゆいまぎょう、ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)』: 在家の仏道者である維摩居士(ゆいまこじ)が、出家の弟子たちや菩薩たちを凌駕する智慧を示す物語形式の経典。在家者も仏道修行において出家者と変わらない境地に至れることを示唆し、大乗仏教が在家にも開かれた教えであることを強調します。
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『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』: 『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のこと。阿弥陀仏という仏の誓願によって、その名を唱えたり、彼を信じたりすることで、死後に清らかな仏国土である「浄土」に生まれることができるという教え(浄土思想)を説きます。自らの力で悟りを開くことが難しいと感じる人々にとって、他力による救済という別の道を示し、広く民衆の信仰を集めました。
これらの経典は、それぞれ異なるアプローチで大乗仏教の思想、すなわち菩薩の理想や空の智慧を説いています。この多様性こそが、大乗仏教が様々な人々の心に響き、アジア各地で多様な宗派を生み出す原動力となりました。人々は、それぞれの生き方や背景に合わせて、これらの経典の中から自らに合った救済の道を見出していったのです。
大乗仏教の広がり – アジア各地への旅
大乗仏教は、インド国内で哲学的な深まりを見せつつ(中観派、瑜伽行派など)、陸路や海路を通じて中央アジア、中国、チベット、朝鮮半島、そして日本へと伝えられていきました。これらの地域では、既存の文化や思想(儒教、道教、シャーマニズムなど)と出会い、影響を与え合いながら、さらに多様な形で発展していきました。
中国では、インドから伝えられた大乗経典が盛んに漢訳され、天台宗、華厳宗、禅宗、浄土宗といった、中国独自の仏教宗派が成立しました。これらの宗派は、インド仏教の教えを深く理解しつつも、中国の文化や思想に根差した独自の解釈や実践体系を構築しました。例えば、禅宗は、経典の学習や論理的な思考よりも、坐禅による直接的な心の探求を重視し、中国的なシンプルで実践的な仏教として発展しました。
チベットには、インド後期の大乗仏教や密教が伝えられ、チベット独特の文化や宗教観と融合し、チベット仏教という独自の形態を生み出しました。チベット仏教は、論理的な教理学習、瞑想実践、そして儀礼的な側面を重視し、ダライ・ラマを精神的指導者とする独自の階層構造を持っています。
日本には、中国や朝鮮半島を経由して大乗仏教が伝えられ、奈良時代には国家的な宗教として、平安時代には密教や浄土思想が栄え、鎌倉時代には禅、浄土宗、日蓮宗といった日本独自の宗派が次々と生まれました。日本の仏教は、先祖供養といった日本古来の信仰とも結びつきながら、人々の生活の中に深く根差していきました。
このように、大乗仏教は、単にインドから各地に伝わっただけでなく、それぞれの地域の文化や人々のニーズに応えながら、絶え間なく形を変え、発展し続けてきた動的な教えであると言えます。その根底には、全ての存在を救済したいという菩薩の慈悲と、物事の空なる本質を見抜く智慧という、大乗仏教共通の精神が流れているのです。
現代における大乗仏教の意義
グローバル化が進み、世界中の人々が相互に影響を与え合いながら生きている現代において、大乗仏教が説く「他者との繋がり」や「慈悲の実践」は、かつてないほど重要な意味を持っていると私は感じています。
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他者への思いやり: 紛争、貧困、環境問題など、地球規模の課題に直面する現代において、自国や特定の集団の利益だけでなく、苦しむ全ての人々、そして地球全体に対する菩薩の慈悲の精神は、私たちが共に生きるための強力な倫理的な指針となります。
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多様性の尊重: 大乗仏教がアジア各地で多様な宗派を生み出し、それぞれの文化や思想と融合していった歴史は、異なる価値観や考え方を持つ人々が共存し、互いから学び合うことの重要性を示唆しています。
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「空」からの新しい視点: 物事の固定性を疑い、「空」という視点から世界を捉え直すことは、私たちを硬直した考え方や特定の価値観への執着から解放し、より柔軟に現実に対応するための力を与えてくれます。それは、複雑で変化の激しい現代社会を生き抜く上で、非常に有用な思考のツールとなり得ます。
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利他行の力: 他者の幸福のために行動すること(利他行)は、単に他者を助けるだけでなく、私たち自身の心を豊かにし、人生に深い喜びと意味を与えてくれます。菩薩の生き方は、現代社会におけるボランティア活動や社会貢献といった営みにも通じる、普遍的な価値を示しています。
大乗仏教は、単なる古代の宗教や哲学ではありません。それは、人間の根源的な苦悩と向き合い、個人の枠を超えて全てと共に救われようとする、壮大な思いやりの物語です。そして、その物語は、菩薩の誓いを立て、空の智慧を求める私たち自身の人生において、今もなお紡ぎ続けられているのです。
来るべき第5回では、大乗仏教の中でも特に民衆の間に深く広まった「浄土教」に焦点を当てます。自らの力による悟り(自力)が難しいと感じる人々にとって、阿弥陀仏の誓願による救済(他力)は、どのようにして希望の光となったのでしょうか。異なるアプローチから人々を救済しようとする仏教の懐の深さを、共に探求していきましょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


