ヨーガと禅 – その源流を探る

ヨガを学ぶ

現代社会において、私たちは日々多くの情報と選択肢に囲まれ、時に心の置き所を見失いがちです。そのような時代背景の中、古来より伝わる智慧である「ヨーガ」と「禅」に、静かな注目が集まっているのは自然な流れかもしれません。ストレス軽減、健康増進、あるいは自己探求の道として、多くの方がその門を叩いています。

一見すると、ヨーガと禅は、静かに座り、呼吸を整え、心を観察するという点で、非常によく似た実践を行っているように見えます。どちらも、日常の喧騒から離れ、自己の内面へと深く分け入っていくための道を示唆してくれるものです。しかし、その源流を辿っていくと、両者が育まれた土壌、すなわち歴史的・思想的背景には、興味深い違いと共通点が存在することに気づかされます。

本稿では、ヨーガと禅、この二つの深遠な伝統の源流を、古代インドから東アジアへと至る壮大な思索の旅路を辿りながら、丁寧に解き明かしていきたいと考えています。単なる歴史の解説に留まらず、それぞれの思想が、私たちの「生」そのものとどのように関わっているのか、現代を生きる私たちにとってどのような意味を持つのか、共に考察を深めていきましょう。それは、あたかも古地図を紐解き、忘れられた宝の在処を探るような、知的な冒険となるはずです。

 

ヨーガの源流:古代インドに刻まれた心身の叡智

ヨーガの起源を正確に特定することは、悠久の時の流れの中では容易なことではありません。しかし、その萌芽は、紀元前2500年頃に栄えたインダス文明にまで遡ると考えられています。モヘンジョダロなどの遺跡からは、瞑想的な坐法(アーサナ)をとる人物像が刻まれた印章が発見されており、これがヨーガの原型ではないかと推測されています。もちろん、これはあくまで状況証拠であり、確定的なものではありませんが、古代インドにおいて既に、身体を通して精神を制御しようとする試みがあったことを示唆するものと言えるでしょう。

ヨーガ思想の本格的な展開は、紀元前1500年頃から編纂が始まったとされるインド最古の聖典群**ヴェーダ(Veda)**の時代に見られます。初期のヴェーダは、自然神への賛歌や祭祀儀礼が中心でしたが、時代が下るにつれて、祭祀の外面的な形式よりも、その内面的な意味や、宇宙の根本原理、そして自己の本質への問いへと人々の関心が移行していきます。

この思索の深化は、特にヴェーダの最後期(紀元前800年~紀元前500年頃)に編纂された**ウパニシャッド(Upaniṣad)において顕著になります。ウパニシャッドは「奥義書」とも訳され、師匠の足元近くに「(upa)近くに(ni)下に(ṣad)座る」ことから、師資相承による秘教的な教えを意味します。ここで中心となる思想が「梵我一如(ぼんがいちにょ)」**です。

  • 梵(ブラフマン Brahman): 宇宙の根本原理、森羅万象を生み出す究極的な実在。個々の存在を超えた普遍的な意識。

  • 我(アートマン Ātman): 個人の本質、真の自己。肉体や感覚、思考といった移ろいゆく現象の奥にある、不変の意識主体。

ウパニシャッドの賢者たちは、この宇宙の根源である「梵」と、個人の本質である「我」が、本来同一のものであると喝破しました。私たちが日常的に「私」と思っているものは、肉体や心の働きといった仮の姿(マーヤー、幻)に過ぎず、その奥には普遍的なブラフマンと同一のアートマンが輝いている。この真理を、瞑想や内省によって直接体験し、輪廻(サンサーラ)の苦しみから解脱(モークシャ)することこそが、ウパニシャッド、そして後のヨーガが目指す究極の目標となったのです。

また、この時代の修行法として**タパス(Tapas)**が重視されました。「熱」を意味するこの言葉は、自らを燃やすような厳しい苦行や禁欲を指します。これは、感覚的な欲望を制御し、精神力を高めるための実践であり、後のヨーガにおける自己制御(ヤマ、ニヤマ)や精神集中(ダーラナー、ディヤーナ)の原型と見なすことができます。

これらの古代インドの思想と実践の潮流は、紀元後4~5世紀頃、**パタンジャリ(Patañjali)によって『ヨーガ・スートラ(Yoga Sutra)』**として体系化されます。この経典は、ヨーガ哲学の最も権威あるテキストとされ、「ヨーガとは心のはたらきを止滅することである(yogaś citta-vṛtti-nirodhaḥ)」という有名な定義から始まります。

『ヨーガ・スートラ』では、心の作用を静め、真の自己(プルシャ)を認識するための具体的な実践道として**八支則(アシュターンガ・ヨーガ Aṣṭāṅga Yoga)**が示されます。

  1. ヤマ(Yama): 禁戒(非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪)

  2. ニヤマ(Niyama): 勧戒(清浄、知足、苦行、読誦、自在神への祈念)

  3. アーサナ(Āsana): 坐法(安定した快適な坐法)

  4. プラーナーヤーマ(Prāṇāyāma): 調息(生命エネルギー=プラーナの制御)

  5. プラティヤーハーラ(Pratyāhāra): 制感(感覚の制御、内面への引き込み)

  6. ダーラナー(Dhāraṇā): 集中(心を一点に留める)

  7. ディヤーナ(Dhyāna): 瞑想(集中の維持、静慮)

  8. サマーディ(Samādhi): 三昧(瞑想対象との一体化、超意識状態)

ここで重要なのは、アーサナが本来「安定して快適な坐法」を意味し、瞑想のための基盤として位置づけられている点です。また、**ディヤーナ(瞑想)**は、後の禅における坐禅と深く関わる概念となります。

『ヨーガ・スートラ』の哲学的背景には、**サーンキヤ哲学(Sāṃkhya)の影響が見られます。サーンキヤは、世界をプルシャ(Puruṣa 純粋意識、観照者)プラクリティ(Prakṛti 根本原質、物質原理)**という二つの原理で説明する二元論です。私たちの苦しみは、本来自由であるプルシャが、活動し変化するプラクリティ(心や身体を含む)と自己同一視してしまうことから生じると考えます。ヨーガの実践は、この混同を解き、プルシャがプラクリティから離れて自己本来の純粋な状態に気づくこと(カイヴァルヤ、独存)を目指すのです。

古典ヨーガが心の制御と哲学的理解を重視したのに対し、中世(10世紀頃以降)になると、**ハタ・ヨーガ(Haṭha Yoga)と呼ばれる流派が登場します。ハタ・ヨーガは、身体的な実践、特に多様なアーサナ(体位法)プラーナーヤーマ(呼吸法)**を積極的に用いることで、心身を浄化し、エネルギー(プラーナ)の流れを整え、より高度な瞑想状態や解脱を目指そうとするものです。『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』などの教典が編纂され、現代私たちが一般的に「ヨーガ」として親しんでいるスタイルの直接的な源流となりました。

このように、ヨーガはインダス文明の黎明期から、ヴェーダ、ウパニシャッドの哲学的探求、パタンジャリによる体系化、そしてハタ・ヨーガによる身体技法の発展という、長大な歴史を経て、心身の統合と自己の本質への回帰を目指す道として、現代に受け継がれているのです。

 

禅の源流:ブッダの覚りから東アジアへの展開

一方、禅の源流は、紀元前5世紀頃のインドに現れたゴータマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha)、すなわち釈迦(Śākyamuni)、または**ブッダ(Buddha 覚者)**の覚りにあります。釈迦は、人生における生老病死という根源的な苦しみ(ドゥッカ Dukkha)の解決を求め、当時の様々な思想家や修行者の下を訪ねましたが、満足を得られませんでした。最終的に、菩提樹の下で深い瞑想に入り、ついに「悟り」を開いたと伝えられます。

ブッダが悟った教えの核心は、**四諦(したい)八正道(はっしょうどう)**に集約されます。

  • 四諦:

    1. 苦諦(くたい): 人生は苦であるという真理。

    2. 集諦(じったい): 苦の原因は渇愛(タンハー Taṇhā、執着)であるという真理。

    3. 滅諦(めったい): 渇愛を滅すれば苦も滅するという真理(涅槃、ニルヴァーナ Nirvāṇa)。

    4. 道諦(どうたい): 苦を滅するための道(八正道)があるという真理。

  • 八正道: 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定(正しい瞑想)。

ブッダの教えは、形而上学的な議論よりも、現実の苦しみに向き合い、それを克服するための実践的な道を重視する点に特徴があります。これは、ヨーガが目指す「心の作用の止滅」や「苦からの解放」と共通する目的を持っていると言えるでしょう。特に八正道の「正定」は、ヨーガのディヤーナ(瞑想)に相当する重要な実践です。

ブッダの入滅後、仏教はインド各地へ、そしてアジア全域へと広がっていきました。その過程で、**大乗仏教(Mahāyāna)**と呼ばれる新しい仏教運動が興隆します(紀元前後頃)。大乗仏教は、従来の部派仏教(小乗仏教と後に呼ばれる)が個人の解脱を主眼としたのに対し、一切衆生(すべての生きとし生けるもの)の救済(菩薩行)を理想としました。

この大乗仏教の思想的発展の中で、禅の形成に大きな影響を与えたのが、**空(くう śūnyatā)唯識(ゆいしき Vijñapti-mātratā)**の思想です。

  • 空: 2~3世紀頃の思想家、**龍樹(りゅうじゅ Nāgārjuna)**によって大成されました。全ての事物(法)は、縁起(えんぎ pratītya-samutpāda)、すなわち相互依存の関係性によって成り立っており、それ自体で独立して存在する固有の実体(自性 svabhāva)を持たない、という思想です。あらゆるものは「空」であると理解することで、私たちは物事への執着から解放されると考えます。これは、ヨーガにおける「真の自己(アートマン/プルシャ)は現象世界(プラクリティ)とは異なる」という考え方と対比すると興味深い視点を提供します。

  • 唯識: 4~5世紀頃の**無着(むじゃく Asaṅga)世親(せしん)によって体系化されました。「唯(ただ)識(こころ)のみ」という意味で、私たちが認識している世界の全ては、心の働き(識 vijñāna)が生み出したものである、とする思想です。特に、深層心理であるアーラヤ識(ālaya-vijñāna 蔵識)**という概念を立て、私たちの経験や行為の種子(しゅうじ bīja)が蓄積され、それが現行して世界を現出させると考えました。意識の深層を探求し、その転換(識転変)を目指す点で、ヨーガの瞑想による心の浄化プロセスと通底するものがあるでしょう。

これらのインドで発展した仏教思想、特に瞑想実践を重視する流れが、中国へと伝わり、独自の発展を遂げたのが**禅(Chan)です。その起源は、伝説によれば6世紀初頭、インドから中国へ渡った達磨(だるま Bodhidharma)**に遡るとされています。達磨は、嵩山少林寺で面壁九年の坐禅を行ったと伝えられ、禅宗の初祖と崇められています。

禅宗の特徴は、**「教外別伝(きょうげべつでん)」「不立文字(ふりゅうもんじ)」「直指人心(じきしにんしん)」「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」**という言葉に集約されます。

  • 教外別伝・不立文字: 悟りは、経典や言葉(文字)によって伝えられるものではなく、師から弟子へと、心から心へと直接体験的に伝えられる(以心伝心)。

  • 直指人心・見性成仏: 言葉や思考を介さず、直接自己の心の本性(仏性)を見つめ、それこそが仏であると悟ること。

この「言葉や理論よりも直接的な体験を重視する」姿勢は、禅の核心であり、そのための中心的な修行法が坐禅です。坐禅は、特定の姿勢で静かに坐り、呼吸を整え、心を観察することによって、思考の波を鎮め、自己の本性、あるいは「空」の真理を体得しようとする実践です。その静かなたたずまいは、ヨーガのディヤーナ(瞑想)と極めて近いものに見えますが、その背景にある思想や目指す境地には、後述するような差異も存在します。

中国で発展した禅は、やがて朝鮮半島を経て日本へと伝来しました。日本では、鎌倉時代(12~14世紀)に、**栄西(えいさい Eisai)臨済宗(Rinzai)**を、**道元(どうげん Dōgen)曹洞宗(Sōtō)**を伝え、武士階級を中心に広まり、日本の文化や精神性に大きな影響を与えていきます。

  • 臨済宗: 師が弟子に**公案(こうあん kōan)**と呼ばれる禅的な問い(例:「隻手の声」、「父母未生以前の本来の面目」)を与え、弟子はその問いに参究することで、論理的な思考を超えた悟りの境地を目指します。師との対話(問答)を重視する点が特徴です。

  • 曹洞宗: 道元は、悟りを目的とするのではなく、ただひたすらに坐る坐禅の実践そのものが悟りの姿であるとする**「只管打坐(しかんたざ)」を提唱しました。坐ること自体に目的を見出す「黙照禅(もくしょうぜん)」**とも呼ばれます。

このように、禅はインドの仏教思想、特に瞑想の伝統を源流としながら、中国、そして日本へと伝わる中で、独自の深化と発展を遂げ、言葉や概念を超えた直接的な自己認識を目指す、実践的な道として確立されていったのです。

 

ヨーガと禅の交差点:響き合う響きと、それぞれの響き

ここまで、ヨーガと禅、それぞれの源流を辿ってきました。両者が、異なる大地に根差し、異なる枝葉を伸ばしてきたことは明らかです。しかし同時に、その幹の部分には、驚くほど多くの共通項が見出されます。ここでは、両者の交差点を探り、その共通点と相違点を整理してみましょう。

共通点:響き合う響き

  1. 究極の目的:苦からの解放と自己の本質への到達

    ヨーガも禅も、人間存在が抱える根源的な苦しみの原因を探り、そこから解放されることを目指します。ヨーガは「心の作用の止滅」を通して真の自己(アートマン/プルシャ)に気づくこと(解脱、カイヴァルヤ)を、禅は執着の根源である「無明(むみょう)」を断ち切り、自己と世界の真の姿(空、仏性)を悟ること(涅槃、覚り)を目指します。目指す山の頂は同じ、あるいは非常に近い場所にあると言えるかもしれません。

  2. 中心的な実践:瞑想(ディヤーナ/坐禅)

    両者ともに、静かに坐り、心を観察する瞑想的な実践を修行の中心に据えています。ヨーガのディヤーナ(Dhyāna)と禅の坐禅は、方法論に細かな違いはあれど、思考や感情の流れを客観的に見つめ、心の静寂を得て、深い洞察へと至るための重要な手段である点で共通しています。

  3. 身体と呼吸への意識

    ヨーガではアーサナ(坐法、体位法)やプラーナーヤーマ(調息法)が、禅では坐禅時の正しい姿勢や呼吸法(数息観、随息観など)が重視されます。これは、心と身体が不可分であるという認識に基づき、身体と呼吸を整えることが、心を整えるための有効なアプローチであると理解されているからです。身体感覚への気づきは、思考の迷宮から抜け出し、「いま、ここ」に立ち返るための鍵となります。

  4. 師資相承の伝統

    ヨーガにおけるグルと弟子の関係、禅における老師と修行僧の関係のように、どちらの伝統も、知識や理論だけでなく、体験的な智慧を直接伝える師弟関係を重んじてきました。これは、ヨーガや禅が、単なる学問ではなく、生き方そのもの、人格的な変容を伴う「道」であることを示唆しています。

  5. 非言語的な知の重視

    ヨーガのサマーディ(三昧)や禅の悟り(見性)は、言葉や論理による理解を超えた、直接的で直観的な体験です。両者ともに、概念的な思考の限界を認識し、それを超えた次元での知恵や認識を尊ぶ点で共通しています。

相違点:それぞれの響き

  1. 思想的背景:梵我一如 vs 無我・空

    最も根本的な違いは、その思想的基盤にあります。ヨーガ(特に古典ヨーガやウパニシャッド哲学)は、宇宙原理ブラフマンと個の本質アートマンが同一であるという**「梵我一如」の思想を根底に持ち、真の「我(アートマン)」への到達を目指します。一方、仏教を背景とする禅は、固定的な実体としての「我」の存在を否定する「無我」や、あらゆる事象に実体がないとする「空(くう)」**の思想を基盤とし、その真理を体得することで執着から離れることを目指します。目指す境地は似ていても、そこに至る地図の描き方が異なると言えるでしょう。

  2. 神の概念

    『ヨーガ・スートラ』には、八支則のニヤマ(勧戒)の中に「自在神(イーシュヴァラ Īśvara)への祈念」が含まれるように、特定の神格(個々人の信じる理想的な存在)への信仰が、修行の助けとなる場合があると考えられています(ただし、無神論的な解釈も可能です)。一方、禅、特に道元の曹洞禅などでは、特定の神への信仰は必ずしも前提とされません。坐禅の実践そのものに重きが置かれます。

  3. 身体技法の位置づけ

    ハタ・ヨーガにおいては、多種多様なアーサナ(体位法)が、心身の浄化やエネルギー制御のための重要な手段として積極的に探求されます。現代のヨーガクラスで様々なポーズが行われるのはこの流れです。一方、禅における身体技法は、主に坐禅のための安定した姿勢(結跏趺坐、半跏趺坐など)に集約され、その姿勢を保つこと自体が修行の中心となります。

  4. アプローチの違い

    ヨーガ(特にヨーガ・スートラ)は、八支則のように、段階的かつ体系的に修行のステップを示す傾向があります。対して禅は、より直接的で、瞬間的な気づきを重視する側面があります。臨済宗の公案のように、論理的思考を打ち破ることを目指したり、曹洞宗の只管打坐のように、ただ坐る実践の中に全てを見出そうとしたりするアプローチは、禅独自の特徴と言えるでしょう。

これらの共通点と相違点を理解することは、私たちがヨーガや禅を実践する上で、それぞれの教えをより深く味わい、誤解なく受け取るための助けとなります。どちらが優れているという話ではなく、異なる文化的・歴史的背景の中で、人間が自己と世界を探求してきた道のりの豊かさを示すものなのです。

 

現代におけるヨーガと禅:源流を見つめ、未来を歩む

現代社会において、ヨーガと禅は、その発祥の地であるアジアを越え、世界中で実践されています。特に西洋社会においては、宗教色を薄め、ストレス軽減、心身の健康、集中力向上といった、より実用的な側面が注目され、「マインドフルネス」という言葉と共に広く受け入れられるようになりました。

これは、情報過多で変化の激しい現代社会において、多くの人々が心の静けさや安定を求めていることの現れでしょう。日々の忙しさの中で、私たちはしばしば自分自身を見失い、外部からの刺激に反応するだけの生き方をしてしまいがちです。そのような中で、ヨーガや禅の実践は、立ち止まって自分の内側を見つめ、呼吸に意識を向け、身体の声に耳を澄ます時間を与えてくれます。それは、まるで嵐の中で、静かな中心を見出すような体験です。

しかし、ヨーガや禅が単なるリラクゼーション法や健康法として消費されてしまうことには、一抹の危惧も覚えます。もちろん、心身の健康に寄与する側面は重要ですが、その本来の深さ、すなわち自己と世界のあり方そのものを問い直し、根源的な苦しみからの解放を目指すという、深遠な哲学的・実践的な側面を見失ってはならないでしょう。だからこそ、私たちは、その「源流」へと繰り返し立ち返り、古代の賢者たちが何を探求し、何を伝えようとしたのかを学ぶ必要があるのです。

ミニマリズムという思想が、物質的な豊かさだけでなく、精神的なシンプルさ、本質的なものだけを選び取る生き方を提案するように、ヨーガや禅もまた、私たちの内面に巣食う不要な執着や思い込みを手放し、より軽やかに、そして深く生きるための智慧を与えてくれます。それは、外側に何かを付け加えるのではなく、内側にある余計なものを削ぎ落としていくプロセスとも言えるでしょう。

また、現代思想のある潮流が、近代的な理性中心主義や言語への過信に疑問を呈し、身体的な感覚や経験を通して世界を理解することの重要性を再評価しているように、ヨーガや禅は、まさにその「身体知」とも呼ぶべきものを何千年もの間、培ってきた伝統です。坐ること、呼吸すること、身体を動かすこと。それらの具体的な実践を通して、私たちは頭で考えるだけでは到達できない、自己と世界との生々しい関係性を再発見することができるのです。それは、借り物ではない、自分自身の経験に根ざした確かな感覚を取り戻す旅でもあります。

 

結論:二つの道、一つの目的地へ向かう旅

ヨーガと禅。その源流を辿る旅は、私たちを古代インドの深遠な哲学的思索から、中国、そして日本へと至る仏教思想の壮大な展開へと誘いました。両者は、ヒンドゥー教と仏教という異なる宗教的・文化的背景を持ちながらも、驚くほど多くの点で響き合っています。

どちらも、日常の意識の表層から、より深い自己の本質へと向かう道を示しています。心の静けさを求め、身体と呼吸を整え、瞑想的な実践を通して、苦しみの根源を見つめ、そこからの解放を目指します。言葉や概念を超えた直接的な体験を重視し、師から弟子へと智慧が受け継がれてきた点も共通しています。

しかし同時に、その思想的な枠組み(梵我一如 vs 無我・空)や、具体的な実践方法(多様なアーサナ vs 只管打坐)、神への捉え方などには、それぞれの伝統が育んできた独自の色彩があります。

この二つの道は、異なる風景を見せながらも、究極的には、私たちが真の安らぎを見出し、自己と世界との調和を取り戻すという、同じ頂を目指しているのかもしれません。源流を知ることは、単なる知識の獲得ではありません。それは、私たちが今、ここで行っているヨーガや禅の実践に深みを与え、その本来の意味を豊かに理解するための羅針盤となるでしょう。

ヨーガの道を選ぶ人も、禅の道を選ぶ人も、あるいは両方の智慧に学びながら自身の道を探求する人もいるでしょう。大切なのは、それぞれの伝統への敬意を持ち、その源流に流れる普遍的なメッセージに耳を傾け、自らの身体と心を通して、その真実を探求し続けることではないでしょうか。この探求の旅路が、皆さまにとって実り多いものとなることを願ってやみません。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。