ヨガ界隈を見渡すと、そこには巨大なマーケットが広がっています。スタイリッシュなウェア、高額なティーチャートレーニング、キラキラしたSNSの投稿。それら自体を否定するわけではありませんが、時として私たちは、そうした「ヨガビジネス」の喧騒の中で、ヨガ本来の目的を見失ってしまいがちです。ここではあえて、ヨガの本質について考えてみたいと思います。
商業的なヨガは、往々にして私たちの「欠乏感」を刺激します。
「もっと痩せなければ」
「もっと柔軟でなければ」
「もっと資格を持っていなければ」
これは消費社会の常套手段であり、私たちを永遠の消費者(カスタマー)として繋ぎ止めておくための構造です。しかし、本来のヨガ(Yoga)とは、サンスクリット語で「結ぶ」「統合する」を意味します。それは、外部から何かを付け足すことではなく、すでに自分の中に在るものに気づき、全体性を取り戻すプロセスです。
「まともに生きるのがヨガ」という言葉には、深い意味が込められています。「まとも」とは、倫理的であり、調和が取れており、地に足がついている状態です。ヨガの八支則における「ヤマ(禁戒)」と「ニヤマ(勧戒)」は、まさにこの「まともさ」を説いています。暴力を振るわない、嘘をつかない、盗まない、清潔であること、足るを知ること。これらはマットの上でポーズをとること以上に、難しく、かつ重要な実践です。
ヨガビジネスから距離を置くということは、自分の感覚を他者に委ねるのをやめるということです。「有名な先生が言ったから」「流行っているから」ではなく、自分の身体はどう感じているか、自分の心は何を求めているか、その内なる声に耳を澄ませることです。内観する力の養成は、私たちに「主権」を取り戻させます。
あるがままに生きるとは、だらしなく生きることではありません。それは、自分の役割(ダルマ)を全うし、目の前の人や物事に対して誠実であることです。丁寧に掃除をし、食事を味わい、家族や友人の話を聞く。そうした日常の些細な行為の一つひとつが、実は高度なヨガの実践なのです。人間関係の質の向上や、一つ一つのモノへの感謝の念の深化は、どんな難解なポーズができるようになることよりも、人生を豊かにしてくれます。
私たちは、そろそろ「何かになろうとする」ヨガから卒業してもいい頃です。所有からの脱却、消費からの脱却と同じように、ヨガという「ブランド」を消費するのをやめるのです。そして、ただ静かに座り、呼吸し、身体を整える。ゆるんだ人からうまくいく、目覚めていくというのは、社会的な成功を意味するのではなく、生命としての本来の機能が全開になるということです。
そうした「生活としてのヨガ」です。特別な場所も道具もいりません。今、あなたが居るその場所が聖地であり、あなたの身体が神殿です。経済的依存や外部の評価軸から自由になり、自分の足で立ち、自分の肺で呼吸する。そのシンプルで力強い「個」としての在り方こそが、現代において最もラディカルなヨガの実践なのです。まともに、健やかに、そして自由に生きていきましょう。


