私たちはしばしば、自分の人生をあまりにも深刻に、重々しく捉えすぎてはいないでしょうか。目の前の問題に頭を抱え、未来を憂い、過去を悔やむ。まるで、世界のすべての重荷を一人で背負っているかのように。しかし、古代インドの賢者たちは、私たちに全く異なる世界観を提示しました。それは、この世界全体が、そして私たちの人生そのものが、神(宇宙の根本原理)によって演じられる、壮大な「遊戯(リーラ)」であるという視点です。
リーラ(Līlā)とは、サンスクリット語で「遊び」「戯れ」「演劇」などを意味する言葉です。特にヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学において、この宇宙の創造、維持、そして破壊といった森羅万象は、絶対者であるブラフマンの、目的もなければ理由もない、ただの気まぐれな遊びであると説かれます。なぜ神は世界を創ったのか?その問いに対する答えは、「ただ、そうしたかったから。それが楽しいから」という、子供のような純粋な動機に還元されるのです。
この宇宙観を、私たちの個人的な人生に当てはめてみると、驚くべき視点の転換が起こります。私たちの人生もまた、この宇宙的な演劇の一幕であり、私たちは、それぞれの魂がこの地上で特定の経験をし、成長するために、ある「役柄」を与えられて舞台に上がった俳優のようなものだ、と捉えることができるのです。あなたは今、母親、会社員、芸術家、あるいは病に苦しむ人、といった役を演じているのかもしれません。
この「人生は演劇である」という視点を持つことで、私たちは日々の出来事から健全な距離を取ることができるようになります。仕事での失敗も、人間関係の軋轢も、経済的な困難も、それが「私」という存在のすべてを脅かす絶対的な悲劇ではなく、この演劇の筋書きを面白くするためのプロット(筋立て)や、役柄に深みを与えるためのスパイスのように見えてくるのです。「ああ、私のキャラクターは今、こんな試練を乗り越える重要なシーンを演じているんだな」と、まるで映画監督のように、自分の人生を少し客観的に、そして面白がって眺めることができるようになります。
この考え方は、西洋の偉大な劇作家シェイクスピアが『お気に召すまま』の中で語った有名な一節、「この世はすべて舞台、男も女もみな役者にすぎない(All the world’s a stage, And all the men and women merely players.)」という言葉とも見事に一致します。私たちは生まれ、様々な役を演じ、そして死という形で舞台から退場していく。
この「リーラ」の観点は、現代的な言葉で言えば、「重要性を下げる」ことの智慧と言えるでしょう。ロシアの物理学者が提唱したトランサーフィン理論においても、ある物事を過剰に重要視すると、宇宙のバランスを取ろうとする力が働き、かえってうまくいかなくなると説かれています。人生を深刻な戦場と捉えれば、次々と敵が現れる。人生を楽しい遊び場と捉えれば、協力者や面白い遊具が自然と集まってくる。私たちの世界の現れ方は、私たちの世界に対する態度によって決定されるのです。
もちろん、人生を「遊び」と捉えることは、投げやりになったり、無責任になったりすることとは全く違います。むしろ逆です。名優が自分の役柄を深く研究し、魂を込めて演じきるように、私たちもまた、自分に与えられた役を真剣に、そして創造的に演じることが求められます。しかし、その根底には常に、「これは壮大な演劇なのだ」という軽やかさと遊び心がある。深刻さという重い鎧を脱ぎ捨てることで、私たちはもっと自由に、大胆に、そして喜びに満ちて、この人生という一度きりの舞台を舞うことができるようになるのです。


