私たちは普段、自分という存在を、この皮膚という袋の中に収められた、確固たる実体だと感じています。名前があり、歴史があり、身体がある。そして、この皮膚の外側には「他者」や「世界」が広がっている。この「自己」と「非自己」の明確な境界線こそが、私たちのリアリティの基盤となっているように思われます。しかし、ヨガの探求は、この当たり前だと思われている境界線が、実は驚くほど曖昧で、ある種の幻想に過ぎないことを教えてくれます。
少し立ち止まって、呼吸という生命活動を観察してみましょう。私たちは息を吸い込み、外側の空気を「内側」に取り込みます。そして息を吐き出し、「内側」にあった空気を外側の世界へと還していく。この絶え間ない交換なしに、私たちは一瞬たりとも存在できません。私たちは常に、世界と浸透し合っているのです。食事も同様です。大地で育った植物や他の生命を体内に取り込み、それが私たちの血となり肉となる。昨日まで「世界」だったものが、今日は「私」になる。この境界は、一体どこにあるというのでしょう。
ヨガの実践は、この境界の溶解を、より深いレベルで体験させてくれます。例えば、クラスの最後に訪れるシャヴァーサナ(屍のポーズ)。すべての力を手放し、身体を大地に完全に委ねる時、ふと、自分の身体の輪郭がぼやけ、床や空気と溶け合っていくような感覚が訪れることがあります。手はどこまでが自分で、どこからが空間なのか。足と大地の境目はどこにあるのか。その時、皮膚という境界線は、もはや絶対的なものではなくなります。
また、クラスの始めや終わりにマントラを唱える(チャンティング)時も、同様の体験が起こり得ます。最初はバラバラだった一人一人の声が、次第に共鳴し合い、一つの大きな音のうねりとなって空間を満たしていく。その中で、「私が」唱えているという感覚は消え去り、ただ音そのものとなって、全体の響きの一部に溶け込んでいく。これは、個々のエゴを超えた、共同体的な一体感の現出です。
この体験は、仏教が説く「無我」の思想と深く通底しています。無我とは、固定不変の実体としての「私」はどこにも存在しない、という教えです。私たちが「私」だと思っているものは、身体、感情、記憶、思考といった要素(五蘊)が、縁(えん)によって仮に集まった集合体に過ぎません。そして、その集合体自体も、常に他者や環境との関係性(縁起)の中で変化し続けている。つまり、「私」という独立した存在があるのではなく、無数の関係性のネットワークの結節点として、「私」が立ち現れているに過ぎないのです。
この「境界が溶ける」という感覚は、引き寄せの法則を実践する上で、極めて重要な意味を持ちます。「自分のため」という利己的な動機から発せられる願いは、エネルギー的に小さく、限定的です。しかし、自己と他者の境界が溶け、「すべての幸せが自分の幸せである」というワンネスの意識から祈りが生まれる時、そのエネルギーは宇宙全体へと広がり、計り知れないほどのサポートを引き寄せます。それはもはや「引き寄せ」ではなく、宇宙が自らの喜びを、あなたを通して顕現させる「共同創造」と呼ぶべきプロセスでしょう。
もちろん、これは社会生活を営む上で、健全なバウンダリー(境界線)を引くことの重要性を否定するものではありません。他者の感情に過剰に巻き込まれたり、自己犠牲に陥ったりするのは、自立した個が繋がる「統合」ではなく、未分化な「癒着」です。真の統合は、まず自分がしっかりと大地に根を張り、自分自身の中心と繋がった上で、他者や世界へと開かれていくプロセスなのです。
自己と他者の境界が溶ける体験は、孤立した個人という幻想からの解放です。それは、私たちが巨大な生命のタペストリーに織り込まれた、かけがえのない一本の糸であることを思い出させてくれます。その気づきは、心細さや孤独を、大いなるものに抱かれているという絶対的な安心感と、深い繋がりの中にあるという静かな喜びに変容させてくれるでしょう。


