パタンジャリの八支則の階梯を一段ずつ登ってきた私たちは、ダーラナー(集中)という第六の段階を経て、いよいよ第七の段階、ディヤーナ(Dhyāna)の扉の前に辿り着きました。ディヤーナは、一般的に「瞑想」と訳されますが、この言葉が持つ本来の意味合いを理解するためには、ダーラナーとの関係性を深く見つめる必要があります。もしダーラナーが、一点の対象に意識を「留めようとする努力」であるならば、ディヤーナはその努力が消え、意識の流れが対象に向かって、途切れることなく、自然に流れ続ける状態を指します。
この違いを、川の流れに喩えてみましょう。ダーラナーは、川岸に立ち、手のひらで一滴一滴、水をすくい続けようとする試みに似ています。意識は絶えず対象(水)から逸れようとし、その度に私たちは「いけない、集中しなければ」と意志の力で意識を対象へと引き戻します。そこには、常に対象と、それを見つめる「私」という分離した感覚、そして「集中する」という能動的な行為が存在します。
一方、ディヤーナは、もはや岸には立っていません。自らが川の流れそのものとなり、水の流れと一体化している状態です。そこでは、水を「すくおう」という努力は必要ありません。意識は、まるで油が一滴ずつ途切れなく注がれるように、自然に対象へと流れ込み続けます。対象と「私」との間の境界線は曖昧になり始め、「私が見ている」「私が集中している」という自我意識(アスミター)が希薄になっていきます。残るのは、ただ「見ること」そのもの、純粋な認識の流れだけです。
この境地は、禅の言葉で言うところの「三昧(さんまい)」の状態に非常に近いものです。例えば、「読書三昧」という言葉がありますが、これは本を読んでいる時、物語の世界に完全に没入し、自分の存在や周りの環境、時間の経過すら忘れてしまう状態を指します。そこには「本を読もう」という努力はなく、ただ物語の世界が、自分の内側で生き生きと展開しているだけです。ディヤーナとは、この没入の状態を、瞑想の対象に対して意図的に、そして持続的に生じさせる実践なのです。
ダーラナーからディヤーナへの移行は、私たちがコントロールできるものではありません。それは、十分なダーラナーの修練が積まれた先に、自然に「訪れる」ものです。私たちができるのは、ただひたすら、意識が逸れる度に根気強く対象に戻すというダーラナーの稽古を続けることだけです。その繰り返しによって、心の筋肉が十分に鍛えられた時、ある瞬間、ふっと肩の力が抜け、努力が手放され、意識が対象と溶け合う静かな至福の瞬間が訪れます。
引き寄せや現実創造のプロセスにおいて、ディヤーナの境地は、私たちの個人的な意図を、宇宙的な創造の流れへと合流させるための、重要な転換点となります。ダーラナーの段階では、まだ「私がこれを引き寄せたい」というエゴの意志が働いています。しかし、ディヤーナの静寂の中では、その個人的な願望は背景へと退き、より大きな宇宙の意志、全体の調和へと意識が開かれていきます。
この時、私たちの意図は、単なる利己的な欲望から、すべての存在の幸福を願う「祈り」へと純化されていくでしょう。エゴの抵抗が静まったこの状態から放たれる祈りは、何の妨げもなく宇宙の創造の場へと届き、最も調和の取れた形で現実化のプロセスを開始します。ディヤーナとは、個の力を超え、宇宙との共同創造のダンスへと参加するための、神聖な入り口なのです。


