「豊かさ」という言葉を聞いた時、私たちの心にはどのようなイメージが浮かぶでしょうか。多くの人々にとって、それは高級車や広大な邸宅、銀行口座の潤沢な残高といった「所有(Having)」のイメージと分かち難く結びついています。現代社会は、消費を美徳とし、より多くを所有することが成功と幸福の証であるかのように、私たちに絶えず囁きかけます。しかし、この「所有」を豊かさの尺度とする道は、果たして本当に私たちを永続的な満足へと導いてくれるのでしょうか。
ヨガ哲学は、この問いに対して、静かでありながらも明確な「否」を提示します。それどころか、ヨガ・スートラに記された禁戒(ヤマ)の一つである「アパリグラハ(不貪)」は、不必要なものを所有しないこと、執着しないことの重要性を説きます。なぜなら、所有物は私たちに安心を与えるどころか、それを失うことへの新たな不安や、他者との比較による欠乏感、そして維持管理するための心のエネルギーを奪う、重たい鎖となりうるからです。
では、真の豊かさとは何なのでしょうか。その探求の旅は、私たちの意識の進化の段階と深く関わっています。
第一の段階は、前述した「所有(Having)の豊かさ」です。これは物質的な豊かさを追い求める段階であり、多くの人が出発点とするところです。しかし、この道を突き進んだ多くの賢人が報告するように、モノで心を満たそうとする試みは、渇いた人が海水を飲むようなもので、決して心の渇きを癒すことはありません。
やがて私たちは、モノよりも「体験(Doing)」に価値を見出すようになります。これが第二の段階、「体験の豊かさ」です。素晴らしい景色を見るための旅行、未知の知識を学ぶための自己投資、心揺さぶるコンサートへの参加。モノのように形には残らないけれど、私たちの人生を彩り、内面を豊かにしてくれる「コト」消費です。これは所有の段階よりも、遥かに自由で創造的な豊かさの形と言えるでしょう。しかし、これもまた、「何か特別なことをしなければならない」「常に刺激的な体験を追い求めなければならない」という、一種の「行為への中毒」に陥る危険性を孕んでいます。
そして、ヨガの道が最終的に私たちを導くのは、第三の段階、すなわち「存在(Being)の豊かさ」です。これは、何かを所有したり、何か特別なことをしたりしなくても、ただ「今、ここに在る」ことそのものの中に、無限の価値と充足感を見出す境地です。
それは、窓から差し込む朝日の暖かさに、ただ静かに浸る時間かもしれません。一杯のお茶の香りと味わいを、五感のすべてで感じ入る瞬間かもしれません。愛する人の呼吸を隣に感じながら、言葉もなくただ共に在る静寂かもしれません。そこには、過去への後悔も未来への不安もなく、ただ「在ること」の純粋な喜び、至福(アーナンダ)が満ち溢れています。
この「存在の豊かさ」の境地に達した時、私たちは逆説的な真実に気づきます。それは、内側が「在る」ことの充足感で満たされている時、外側の世界にも、必要なモノや素晴らしい体験が、まるで引き寄せられるかのように、ごく自然に現れてくるという事実です。欠乏感から追い求めるのをやめた時、宇宙は惜しみなくその宝物庫の扉を開けてくれるのです。
真の豊かさとは、銀行口座の残高を増やすゲームではありません。それは、私たちの意識を「所有」から「体験」へ、そして最終的には「存在」そのものの奇跡へと、深くシフトさせていく内なる旅なのです。その旅の果てに、私たちはすでに自分が、探し求めていた宝物そのものであったことを知るでしょう。


