私たちは日々、カルマの法則、すなわち「行為とその結果」の織りなす世界を生きています。良い行いをすれば良い結果が、そうでない行いをすればそれ相応の結果が訪れる。この法則を理解し、意識的に善い種を蒔くことは、自らの人生をより良き方向へ導くための極めて重要な実践です。しかし、この探求をさらに深く、その根源へと掘り下げていくと、私たちはある深遠な問いに行き着きます。それは、「そもそも、その行為をしている『私』とは、一体誰なのか?」という問いです。
ヨガの叡智、特にインドの不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)が指し示す究極的な真理は、衝撃的とも言えるかもしれません。それは、「行為者としての個人(私)は、実在しない」というものです。これは、私たちが無力な存在だとか、努力が無意味だと言っているのではありません。むしろ、私たちの苦しみの多くが、「私がやっている」「私の手柄だ」「私のせいだ」という、この「行為者意識(アハンカーラ)」、すなわち我執から生まれていることを喝破しているのです。
古代の聖典『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナは戦場で苦悩する王子アルジュナにこう説きます。「汝は行為の結果に執着してはならない。行為の動機が結果にあってはならない。…賢者たちは行為から生まれる結果を捨て、誕生の束縛から解放され、苦しみのない境地に至る」。これは、行為そのものを否定するのではなく、行為の主体が「私」であるという錯覚から自由になることを教えています。
これを現代の私たちの生活に引き寄せて考えてみましょう。たとえば、あなたが仕事で大きな成功を収めたとします。その時、「私が頑張ったからだ」「私の才能のおかげだ」と考えるのが一般的でしょう。しかし、その成功は本当に「あなた一人の力」によるものでしょうか。あなたを育てた親、教育を授けてくれた師、協力してくれた同僚、あなたが使うことを許された社会のインフラ、そしてそもそもあなたにその才能や生命力を与えた、より大いかなる存在。無数の縁(えにし)が複雑に絡み合い、その結節点として「あなたの成功」という現象が現れた、と見ることもできるはずです。
逆に、失敗した時も同様です。「私のせいで全てが台無しになった」と自分を責めるかもしれません。しかし、その失敗もまた、あなたの力だけではどうにもならない無数の要因が絡み合った結果として生じた現象なのです。
この「行為者がいない」という感覚を、私たちは時折、日常の中で垣間見ることがあります。スポーツ選手が「ゾーンに入った」と表現する時や、芸術家が創作に没頭している時、「私がやっている」という感覚は消え失せ、まるで何かに動かされているかのような、大いなる流れとの一体感を覚えます。これが、行為者意識が一時的に消え去った状態です。その時、パフォーマンスは最高潮に達し、苦しみはなく、ただ純粋な喜びとフローがあるだけです。
ヨガの実践は、この「行為者なき行為」を日常にまで広げていくための稽古と言えるでしょう。アーサナをとる時、「私が」美しいポーズをとろうとするのではなく、呼吸という大いなる流れに身体を委ねる。すると、身体は自ずと最も調和のとれた形へと導かれます。
この理解は、引き寄せの法則にも革命的な視点をもたらします。エゴイスティックな「私」が、欠乏感から「あれが欲しい、これが欲しい」と力むのではなく、大いなる流れの一部として、自分を通して何が顕現したがっているのかに耳を澄ます。そして、その流れを信頼し、ただ為すべきことを為す。その時、結果への執着から解放されたあなたの純粋な行為は、宇宙の計らいと共鳴し、最も完璧な形で現実を創造していくのです。
「私」という小さな舟の漕ぎ手であることをやめ、宇宙という大河の流れそのものになった時、あなたは真の自由と平安の中で、人生という航海を謳歌することができるでしょう。


