私たちの生は、目に見えない糸で織られた壮大なタペストリーのようなものです。その縦糸がダルマ、すなわち魂がこの世で果たすべき役割であるならば、横糸はカルマ、私たちの一つひとつの行為が織りなす因果の模様と言えるでしょう。過去の行為、思考、言葉が今日の私たちを形作り、その結果として時に重荷を感じることがあります。それは、過去に発したエネルギーが未解決のまま、私たちの心の領域に留まっている状態です。この「過去のカルマ」という名の重荷を降ろし、魂を軽やかにするためにはどうすればよいのでしょうか。ヨガの叡智は、そのための二つの強力な実践を指し示します。それが「許し」と「奉仕」です。
まず「許し」について深く探求してみましょう。多くの人は、許しを「他者の過ちを不問に付す」という、相手に向けた行為だと考えがちです。しかし、ヨガ哲学の観点から見れば、許しとは本質的に、自分自身を解放するための内的な儀式なのです。誰かを許せないでいる時、私たちは怒りや恨みという強固なエネルギーの鎖で、その相手や過去の出来事に自分自身を縛り付けています。その鎖を握りしめているのは、相手ではなく、他の誰でもない自分自身。この状態は、心の平穏(チッタ・プラサーダナム)を著しく乱し、膨大なプラーナ(生命エネルギー)を浪費させます。許しとは、この自らが握りしめている鎖を、そっと手放す勇気ある決断なのです。
それは、相手の行為を正当化することではありません。起こった出来事が「良かった」と無理に思い込むことでもありません。ただ、「その出来事が自分のエネルギーをこれ以上支配することを、私は許可しない」と宣言することです。この宣言によって初めて、私たちは過去の囚人であることから解放され、「今、ここ」という唯一のリアルな場所に意識を取り戻すことができます。
そして、他者を許すプロセスと同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのが「自分自身を許す」ことです。私たちは、過去の自分の未熟さ、過ち、弱さを責め続けがちです。しかし、それは現在の自分が過去の自分を罰するという、内なる暴力(ヒンサー)に他なりません。過去の自分は、その時点での知識と経験、そしてカルマの制約の中で、最善を尽くしていたのです。現在のより成熟した視点から、その未熟だった自分を慈悲の心で抱きしめ、許すこと。これは、自己に対するアヒンサー(非暴力)の最も深遠な実践と言えるでしょう。この自己受容がなければ、真に他者を許すことも難しいのです。
次に「奉仕(セヴァ)」です。これはカルマヨガ、すなわち「見返りを求めない行為のヨガ」の核心です。私たちのカルマの多くは、利己的な動機、つまり「私が、私が」という我執(アスミター)から生まれます。奉仕とは、この自己中心的なエネルギーの流れを逆転させ、他者や共同体、そして世界全体へと向ける実践です。
見返りを期待せずに誰かのために行動する時、私たちの意識は「自分」という小さな檻から解き放たれ、より大きな流れと一体化します。道端のゴミを拾う、困っている人に手を貸す、自分の知識や技術を無償で分かち合う。そうした行為の一つひとつが、過去の利己的な行為によって生じたカルマのエネルギーを中和し、浄化していくのです。それは、濁った水に清らかな水を注ぎ続けるようなもの。やがて水は澄み渡り、淀みは消えていきます。
重要なのは、その行為の大小ではありません。その背後にある「意図」です。承認や賞賛を求める心なく、ただ純粋な喜びから、あるいは他者の幸福への願いから行動する時、その行為は最もパワフルな浄化の力を持つニシュカーマ・カルマ(無欲の行為)となります。
許しが内的な浄化、心のデトックスであるならば、奉仕は外的な浄化、行動を通じたエネルギーの書き換えです。この二つは、車の両輪のように連動しています。他者のために行動することで、他者を許す心が育まれ、自分や他者を許すことで、より純粋な動機で奉仕できるようになるのです。過去のカルマは消しゴムで消せるものではありません。しかし、許しという慈悲の光を当て、奉仕という清らかな水を注ぎ続けることで、その影響力を和らげ、新たな、より調和に満ちたカルマの種を蒔くことができる。それが、私たちが「今」できる、最も確かな魂の浄化なのです。


