私たちは日々、目の前に広がる世界を、あたかも客観的で揺るぎない「現実」であるかのように受け止めて生きています。朝になれば太陽が昇り、街は喧騒に包まれ、人々はそれぞれの役割を演じる。その光景は、誰にとっても同じように映る、一枚の巨大なスクリーンのように感じられるかもしれません。しかし、ヨガの古の賢者たちは、そして現代の思索家たちもまた、私たちに静かに、しかし根源的な問いを投げかけます。「あなたが見ているその世界は、本当に『そこ』に在るのでしょうか?」と。
この問いの深淵に触れる時、私たちは自己と世界の関係性を根底から見つめ直す旅へと誘われます。古代インドのヴェーダーンタ哲学には、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という核心的な思想が存在します。これは、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の本質であるアートマン(我)は、本来一つである、という教えです。壮大な宇宙も、ちっぽけに見えるこの「私」も、その根源においては同一の意識の海から生まれた波のようなものである、と。この視点に立つならば、「私が世界を見ている」のではなく、「私という意識を通して、世界が立ち現れている」と捉えることができます。あなたは観客席から舞台を眺めている傍観者ではなく、その舞台そのものを生み出している源泉の一部、いや、源泉そのものなのです。
また、仏教における唯識(ゆいしき)思想も、この真理を別の角度から照らし出します。唯識とは文字通り、「ただ、識(こころ)のみ」という意味です。私たちが認識する山や川、他者や出来事といった一切の現象は、私たちの心(識)が生み出した映像、つまりは投影であると説きます。あなたの心が穏やかであれば、世界は優しく微笑みかけ、あなたの心が乱れていれば、世界は脅威に満ちたものとして映る。世界の色合いを決めているのは、外的な状況そのものよりも、むしろ、あなたが世界を眺める際に用いている「心」というレンズの色なのです。
この考え方は、決して独りよがりな夢想ではありません。むしろ、極めて実践的な身体知に基づいています。私たちは、この身体というフィルターを通してしか世界を認識できません。例えば、ひどく疲れている日に見る夕焼けと、心躍る出来事があった日に見る夕焼けは、物理的には同じ光のスペクトルであるにもかかわらず、全く異なる色彩と情感をもって私たちの内に刻まれるでしょう。ヨガのアーサナ(ポーズ)やプラーナーヤーマ(呼吸法)を通して身体がしなやかに、そして軽やかになると、それまで重く感じられていた世界の扉が、まるで油を差されたかのようにスムーズに開く感覚を覚えることがあります。これは、世界が変わったのではなく、世界を体験する「私」という装置そのものが変容した結果に他なりません。身体という土壌を耕すことは、そこに芽吹く世界そのものを変えることと等価なのです。
この「創造主」であるという自覚は、世界を意のままに操る万能感とは異なります。それは、他者や環境をコントロールしようとする傲慢な力ではなく、自らの体験を選択する、静かで揺るぎない力です。誰かの言葉に傷ついた時、「あの人が私を傷つけた」という被害者意識から、「私はこの言葉を通して、傷つくという体験を選んだ」という創造主の視点へと切り替えてみる。すると、その出来事から何を学び、次にどう応答するかという、主体的な選択の余地が生まれます。
今日一日、この「私は、私の世界の創造主である」という意識を、お守りのように胸に抱いて過ごしてみてはいかがでしょうか。満員電車の中で、他者の不機嫌なエネルギーに巻き込まれるのではなく、「私は今、この空間に静けさと平安を創造する」と意図してみる。仕事で予期せぬ問題が起きた時、「これは私を試すための障害だ」と捉える代わりに、「これは私の創造性を引き出すための新たなキャンバスだ」と見方を変えてみる。
あなたの意識という名の絵筆が、現実という名のキャンバスにどのような世界を描き出すのか。そのプロセスを、好奇心をもって観察してみてください。あなたはもはや、運命という名の脚本をただ演じるだけの役者ではありません。あなたは、その脚本を書き、演出し、そして主演する、唯一無二の創造主なのですから。


