「男の子は泣くんじゃない」「泣くのは弱い人間がすることだ」―私たちは、物心ついた頃から、涙を流すことに対して、どこかネガティブなレッテルを貼るように教えられてきたかもしれません。感情を露わにすることを良しとしない文化の中で、涙はしばしば、未熟さや感情コントロールの欠如の象徴として扱われ、私たちは人前で、あるいは自分一人の時でさえ、懸命に涙をこらえる術を身につけてきました。
しかし、ヨガ的な、そしてより根源的な生命の視点から見つめ直すとき、涙は全く異なる意味を帯びてきます。涙とは、弱さの表れなどではなく、むしろ、私たちの魂が自らを浄化し、癒し、そして再生するために備わった、極めて神聖でパワフルな治癒のメカニズムなのです。
科学的な観点から見ても、このことは裏付けられています。感情的な涙には、ストレスホルモンとして知られるコルチゾールや、痛みを伝達する物質などが含まれており、泣くという行為を通じて、これらの物質が体外に排出されることが分かっています。つまり、涙を流すことには、実際に心身の緊張を和らげ、ストレスを軽減するカタルシス効果があるのです。
しかし、涙の役割は、そのような物理的なレベルに留まりません。ヨガ哲学における八支則の一つ、ニヤマ(勧戒)の最初に挙げられるのが「シャウチャ」、すなわち清浄です。シャウチャは、身体の外側を清潔に保つことだけでなく、内臓を浄化し、さらには思考や感情といった、より微細なレベルの清浄さをも含みます。この観点から見れば、涙とは、私たちの感情体、いわゆるアストラル体に溜まったエネルギー的な毒素や澱(おり)を洗い流す、魂のシャワーであると捉えることができます。
考えてみてください。私たちは様々な種類の涙を流します。深い悲しみにくれる時の涙、胸が張り裂けるような痛みの涙。しかしそれだけではありません。美しい芸術に触れた時の感動の涙、他者の幸福を心から喜ぶ時の共感の涙、そして、長く困難な道のりの果てに目標を達成した時の、安堵と喜びに満ちた涙。これらの涙はすべて、私たちの自我(エゴ)の硬い殻が一時的に溶け、魂の最も純粋な部分が、何かと深く共鳴した時に流れるものです。その瞬間、私たちは分離という幻想を超え、生命の大きな流れと一つになる体験をしているのです。それは、トランサーフィンでいうところの「過剰ポテンシャル(感情エネルギーの極端な偏り)」が解放され、宇宙的な調和へとバランスが取り戻される、自然なプロセスとも言えるでしょう。
ですから、もしあなたが泣きたいと感じた時には、どうかそれを我慢しないでください。自分自身に、安心して泣くことを許可してあげてください。それは、一人になれる安全な場所を確保し、心の琴線に触れる映画を観たり、音楽を聴いたりして、意図的に涙を誘う「涙活(るいかつ)」のような形でも良いでしょう。流される涙は、あなたの魂を洗い清め、古くなった感情のエネルギーを押し流し、あなたの心に、新たな光と恵みを受け入れるための、清浄なスペースを創り出してくれるのです。
涙は、決して恥ずべきものではありません。それは、あなたが深く感じ、深く愛し、そして深く生きていることの、最も美しい証です。流された涙の一粒一粒が、あなたの魂をより透明に、より輝かせてくれることを、どうか忘れないでください。


