ヨガや瞑想の道を歩むとき、私たちはしばしば、自己を律し、鍛え、高めるという「タパス(苦行)」の側面に光を当てがちです。規律や努力は確かに重要ですが、その実践の土台に、深く温かい「優しさ」がなければ、それは容易に自己満足や、他者と自分を裁く厳格さへと堕してしまう危険性をはらんでいます。私たちの内なる大地が、固く、乾ききっていては、どんな聖なる種も芽吹くことはありません。その心を耕し、潤し、柔らかな土壌へと変容させるための、最も美しく力強い実践が「慈悲の瞑想(メッター瞑想)」です。
「慈悲」と聞くと、どこか宗教的な、あるいは感傷的な響きを感じるかもしれません。しかし、この瞑想の源流であるパーリ語の「メッター(Mettā)」が持つ本来の意味は、より普遍的で、私たちの心に直接響くものです。それは「友情」「友愛」「親愛の情」を意味し、英語ではしばしば「Loving-Kindness(愛しむような優しさ)」と訳されます。これは、哀れみや同情のような上下関係のある感情ではありません。それは、すべての生きとし生けるものが、苦しみから解放され、真の幸福と共にありますようにと願う、無条件で、水平な眼差しなのです。
この瞑想のプロセスがユニークなのは、その優しさのベクトルを、まず「自分自身」に向けることから始まる点です。私たちは静かに座り、心の中でこう唱えます。「私が安全でありますように。私が健やかでありますように。私が幸せでありますように。私が安らかでありますように」。これは決して自己中心的な行為ではありません。それは、私たちが他者に何かを与える前に、まず自分自身の器が愛と安らぎで満たされている必要がある、という根源的な真理に基づいています。飛行機に乗った際、緊急時にはまず自分の酸素マスクをつけてから子供のマスクをつけるように、と教わるのと同じです。
絶え間ない自己批判という内なる暴力(ヒンサー)に晒されがちな現代の私たちにとって、自分自身に意識的に優しさを向けるこのステップは、最も難しく、そして最も癒しを必要とする部分かもしれません。初めは抵抗を感じるかもしれません。それでも、ただ、言葉を種のように心に蒔き続けるのです。
自分自身の器が少しずつ満たされていくのを感じたら、次はその慈悲の輪を広げていきます。まずは、あなたが深く愛する人、尊敬する人、親しい友人を思い浮かべ、その人の幸福を心から願います。次に、好きでも嫌いでもない、ニュートラルな人(例えば、よく行く店の店員さんや、近所ですれ違う人)を思い浮かべ、同じように優しさを送ります。
そして、この実践の核心的な挑戦が訪れます。あなたを傷つけた人、あなたが苦手だと感じる人を心に思い浮かべ、その人の幸福を願うのです。これは、その人の行為を肯定することではありません。それは、その人もまた、自分自身のやり方で幸福を求め、苦しみから逃れようとしている一人の人間なのだ、という深い洞察から生まれる試みです。ヨーガ・スートラ(1.33)も、敵意を持つ相手に対して慈しみの心を育むことが、心の静けさ(チッタ・プラサーダナム)をもたらすと説いています。このステップは、許しという解放への扉を開く鍵となります。
最後に、慈悲の心を、自分の家族、地域、国、そして地球上のすべての生きとし生けるものへと、無限に広げていきます。あなたという中心から放たれた優しい波動が、波紋のようにどこまでも広がっていくイメージです。
慈悲の瞑想は、心のジムで行う、愛と共感の筋力トレーニングです。実践を重ねるうちに、私たちの脳の神経回路さえもが変容し、共感性や幸福感が増していくことが科学的にも示されています。それは、私たちを「分離」の感覚から「繋がり」の感覚へ、「判断」から「受容」へ、そして「恐れ」から「愛」へと導く、静かで、しかし世界を変えるほどの力を持った内なる革命なのです。


