宇宙を織りなす三つのグナ(性質)のうち、「サットヴァ」が光であり、「ラジャス」が炎であるならば、「タマス(Tamas)」は、すべてを包み込む深い闇、あるいは大地のような不動性を象徴します。タマスとは、暗黒、停滞、無知、怠惰、重さ、そして慣性を意味する性質です。この言葉の響きから、私たちはタマスを単なるネガティブなもの、避けるべきものとして捉えがちです。しかし、宇宙の働きにおいて、タマスもまた不可欠な役割を担っています。もしタマスがなければ、ラジャス的な活動は永遠に続き、すべては燃え尽きてしまうでしょう。タマスは、活動を終息させ、休息をもたらし、物事を安定させ、形を維持する力なのです。夜の闇がなければ、私たちは深く眠り、再生することができないのと同じです。
私たちの心において、タマスが優勢になるとき、私たちは無気力感や倦怠感に襲われます。物事への興味を失い、ベッドから起き上がるのさえ億劫に感じます。頭はぼんやりと霧がかかったようで、思考は鈍く、混乱しがちです。変化を恐れ、古い習慣や考え方に固執し、新しいことを学ぶ意欲も湧きません。身体は重く、だるく感じられ、過剰な睡眠や無気力な状態が続きます。これは、いわゆる「うつ」の状態と非常に近いものと言えるでしょう。
「引き寄せの法則」の観点から見れば、過剰なタマスは、望む現実を創造する上での最大の障害となります。なぜなら、タマスはエネルギーの停滞そのものであり、変化を生み出すラジャス的な行動を妨げ、サットヴァ的な明晰な意図を持つことを困難にするからです。重く、低い波動の状態であり、軽やかで高い波動を持つ望ましい現実とは共鳴しにくいのです。タマスの霧の中にいると、私たちは「どうせ無理だ」「何も変わらない」という無力感の物語に囚われ、自ら可能性の扉を閉ざしてしまいます。
このように、過剰なタマスは確かに私たちの成長と幸福を阻害します。しかし、ヨガの叡智は、タマスを単純に「悪」として断罪し、力ずくで排除しようとはしません。むしろ、そのタマスの背後にある「メッセージ」に耳を澄ますことを促します。多くの場合、タマス的な状態は、過剰なラジャス(活動・興奮)の後の、心と身体からの「休息を求める悲鳴」なのです。燃え尽きてしまう前に、強制的にシャットダウンしようとする、身体の防衛本能とも言えます。
もし、あなたがタマス的な無気力に陥っていると感じたなら、自分を「怠け者だ」と責める前に、こう自問してみてください。「私は最近、働きすぎていなかっただろうか?」「心や身体を酷使し、その声を聞かずにいなかっただろうか?」と。タマスは、私たちに「休むことの重要性」「何もしないことの価値」を教えてくれる、厳しくも慈悲深い教師なのかもしれません。この場合、必要なのは、無理に自分を奮い立たせることではなく、質の良い睡眠をとり、栄養のあるものを食べ、安心して休むことを自分に許可することです。
しかし、その休息が十分であるにも関わらず、タマスの状態が続く場合は、意識的にそれを打ち破るための働きかけが必要になります。そのための最も効果的な処方箋は、ラジャスのエネルギーを適度に取り入れることです。
例えば、朝日を浴びながらの散歩。太陽の光と新鮮な空気は、停滞したエネルギーを動かす力を持っています。ヴィンヤサフローのような、リズミカルでダイナミックなヨガの実践も、身体に熱を生み出し、タマスの重さを吹き飛ばしてくれます。食事においては、生姜や胡椒などのスパイスを適度に取り入れることで、消化の火(アグニ)を刺激し、代謝を高めることができます。また、物理的な空間のタマスを取り除くこと、すなわち「断捨離」も非常に効果的です。使わない古いものを手放し、部屋を掃除し、風通しを良くすることで、心の停滞感も一緒に流れていくのを感じるでしょう。
タマスの本質は「無知(アヴィディヤー)」、つまり物事をあるがままに見られない状態です。この闇を払うのは、サットヴァの光、すなわち「智慧」です。聖典を読んだり、賢者の教えに触れたりすることで、凝り固まった自分の世界観に風穴を開け、新たな視点を得ることも、タマスを克服する助けとなります。
タマスは、私たちを停滞させる泥沼にもなれば、次なる飛躍のための力を蓄える大地にもなります。その違いは、私たちがタマスとどう関わるかにかかっています。自分を責めることなく、その奥にある休息の必要性を認め、そして、必要な休息が取れたなら、小さな一歩でもいい、意識的に光と動きを生活の中に取り入れていく。その賢明なバランスの中に、私たちは持続可能な活力と心の平安を見出すことができるのです。


