六派哲学の概要:正統派(āstika)と異端派(nāstika)

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思想の市場(バザール)へようこそ

前の講で私たちは、ウパニシャッドの哲人たちが深い森の静寂の中で「私とは何か」「この世界の根源とは何か」という根源的な問いと格闘し、「梵我一如」という深遠なヴィジョンに到達した旅路を追体験しました。それは、内面への深く、垂直的な探求の時代でした。しかし、紀元前6世紀頃から、インドの知的風景は劇的な変化を遂げます。ガンジス川中流域に都市国家が興り、商業が活発化し、人々の交流が盛んになるにつれて、思想の世界もまた、静かな森から活気あふれる市場(バザール)へとその舞台を移していくのです。

そこでは、実に多様な思想家たちが自らの「商品」である思想を掲げ、人々の心を惹きつけようと競い合っていました。彼らはシュラマナ(śramaṇa、沙門)と呼ばれ、伝統的なバラモン教の枠組みにとらわれず、自由な思索と厳しい修行を通じて、人生の苦しみからの解放(モークシャ)という究極の目標を目指しました。この知的興奮と自由な探求の時代は、中国の諸子百家に比される、まさに「思想の百花繚乱」期であり、インド哲学の豊かさを象徴する黄金時代と言えるでしょう。

この喧騒ともいえる知の市場を整理し、見通しを良くするために、後のインドの思想家たちは一つの便利な分類法を考案しました。それが、**正統派(アースティカ、āstika)異端派(ナースティカ、nāstika)という二つの大きなカテゴリーです。これは、単に神を信じるか信じないか、といった単純な分類ではありません。この二つを分かつ決定的な試金石、それは「ヴェーダ聖典の権威を絶対的なものとして受け入れるか、否か」**という一点にありました。

この分類は、いわば思想地図における経度や緯度のようなものです。この軸を理解することで、私たちは複雑に見えるインド思想の広大なランドスケープを、より明確に、そして立体的に捉えることができるようになります。さあ、これからその地図を手に、古代インドの壮大な知の格闘技の世界へと足を踏み入れていきましょう。

 

分類の軸:アースティカとナースティカの定義をめぐって

まず、言葉の定義を丁寧に解きほぐすことから始めましょう。哲学的な探求において、言葉を正確に扱うことは、羅針盤を正しく設定することに等しいからです。

  • アースティカ(āstika):ヴェーダの権威を認める者たち

    アースティカという言葉は、サンスクリット語の動詞「as」(存在する)の現在形「asti」(存在する)に由来します。文字通りには「『(それが)存在する』と主張する人」という意味です。では、一体「何が」存在すると認めるのでしょうか。それが、ヴェーダの権威なのです。

    彼らは、ヴェーダ(特にその根源であるサンヒター部分)を、人間が作り出したものではない、普遍的で永遠の真理を啓示する**アパウルシェーヤ(apauruṣeya、非人為的)な聖典だと考えました。そして、ヴェーダの言葉そのものを、正しい知識を得るための最も信頼できる手段、すなわちシャブダ・プラマーナ(śabda-pramāṇa、聖言量)**として絶対視したのです。

    ここで重要なのは、アースティカであることが、必ずしも有神論(theism)を意味しないという点です。例えば、後ほど詳しく見るサーンキヤ学派は、世界の創造主としての神の存在を必要としない、ある種、無神論的な色彩の濃い哲学体系ですが、ヴェーダの権威は否定しないため、アースティカに分類されます。彼らにとっての「正統」とは、神の存在よりも、バラモン教社会の知的・文化的基盤であるヴェーダを尊重する姿勢そのものにあったのです。

    このアースティカに分類されるのが、後に「六派哲学(シャッド・ダルシャナ、ṣaḍ-darśana)」として知られることになる六つの主要な学派です。

    1. サーンキヤ学派 (Sāṃkhya)

    2. ヨーガ学派 (Yoga)

    3. ニヤーヤ学派 (Nyāya)

    4. ヴァイシェーシカ学派 (Vaiśeṣika)

    5. ミーマーンサー学派 (Mīmāṃsā)

    6. ヴェーダーンタ学派 (Vedānta)

    これら六派は、互いに異なる哲学的立場を取りながらも、「ヴェーダ」という共通の土俵の上で議論を展開した、いわば同じルールで戦うライバル同士でした。

  • ナースティカ(nāstika):ヴェーダの権威を否定する者たち

    一方、ナースティカは、アースティカの否定形「na asti」(存在しない)から来ています。「『(ヴェーダの権威は)存在しない』と主張する人」を意味します。彼らは、ヴェーダを絶対的な真理の啓示とは見なさず、その権威を根本から否定しました。

    ナースティカは、単なる思想的な異議申し立てにとどまりませんでした。彼らのヴェーダ批判は、ヴェーダをその根拠とするバラモン階級の社会的・宗教的特権や、動物の犠牲を伴う祭祀儀礼、そして硬直化したカースト制度(ヴァルナ)そのものへの批判へと直結していました。彼らは、解脱への道はヴェーダや儀式の中にあるのではなく、個人の内面的な努力、倫理的な実践、そして正しい智慧によってのみ開かれると主張したのです。

    注意すべきは、この「正統」「異端」という分類が、あくまでアースティカの側、つまり後のヒンドゥー教の主流派の視点からなされたものであるという点です。ナースティカの思想家たちが、自らを「我々は異端である」と名乗ったわけではありません。彼らこそが真理を探求していると固く信じていました。

    このナースティカの代表格として、以下の学派が挙げられます。

    • 仏教 (Buddhism)

    • ジャイナ教 (Jainism)

    • 順世派 (Cārvāka) またはローカーヤタ (Lokāyata)

    • アージーヴィカ教 (Ājīvika)

    彼らは、アースティカとは異なる土俵、異なるルールで、人生の苦という共通の敵に挑んだ、革命的な思想家集団だったのです。

 

なぜ「ヴェーダ」が争点となったのか?:時代のダイナミズム

ここで一つの素朴な疑問が浮かびます。なぜこの時代、これほどまでに「ヴェーダの権威」が思想上の巨大な分水嶺となったのでしょうか。その背景には、当時のインド社会が経験していた大きな地殻変動がありました。

第一に、社会構造の変化です。ガンジス川流域では、鉄器の普及による農業生産力の向上を背景に、余剰生産物が生まれ、商工業が発展しました。これにより、バラモン(司祭階級)だけでなく、クシャトリヤ(王侯・武士階級)やヴァイシャ(商人・農民階級)が経済力と政治力を増大させました。新たに力をつけた彼らは、生まれによって特権が保証されるバラモン中心の旧来の価値観に、必ずしも満足していませんでした。新しい時代にふさわしい、より普遍的で合理的な教えを求めていたのです。

第二に、シュラマナ(遊行僧)文化の興隆です。都市の喧騒を離れ、森や林で瞑想や苦行に励む自由な思想家たちが増加しました。彼らは、特定の師に弟子入りし、寝食を共にしながら口伝で教えを学び、またある時は他の思想家と活発な討論(vāda)を交わしました。この師と弟子の緊密な関係、そして他者との知的対決の場が、多様な思想が生まれ、洗練されていくための苗床となったのです。彼らは、形式化したヴェーダの儀式を批判し、個人の直接的な体験と実践を通して真理を掴もうとしました。仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタや、ジャイナ教の始祖マハーヴィーラも、このシュラマナ文化の潮流から現れた巨人でした。

第三に、ウパニシャッド思想の遺産そのものが、ヴェーダの権威を問い直す土壌を準備したという逆説的な側面があります。ウパニシャッドは、ヴェーダの儀式(カルマ・カーンダ)よりも、内面的な知(ジュニャーナ・カーンダ)を重視する傾向を強めました。この「外面的な儀式よりも内面的な智慧が重要である」という考え方は、やがて「ならば、ヴェーダの儀式そのものが解脱に必須ではないのではないか?」という、よりラディカルな問いへと発展する可能性を秘めていたのです。

輪廻(サンサーラ)という苦しみのサイクルからいかにして抜け出すか。この共通の課題に対して、ヴェーダの示す道が唯一絶対の正解なのか。それとも、他に道はあるのか。この切実な問いが、古代インドの知性を刺激し、アースティカとナースティカという二つの大きな潮流を生み出す原動力となったのです。

 

正統派(アースティカ)六派哲学のパノラマ

それでは、ヴェーダの権威を認める「正統派」六学派が、それぞれどのような旗を掲げていたのか、その輪郭を概観してみましょう。ここでは各派の核心的な主張に焦点を当てます。詳細は後の各論でじっくりと味わうことになります。

  1. サーンキヤ学派 (Sāṃkhya)世界の構造を解明する分析の哲学

    「サーンキヤ」は「数え上げる」を意味し、世界の構成要素を分析・列挙することからこの名がつきました。この学派は、世界をプルシャ(Puruṣa、純粋精神)プラクリティ(Prakṛti、根本物質)という、互いに独立し、還元不可能な二つの原理から成り立つとする、徹底した二元論を説きます。プラクリティは、それ自体は活動の可能性を秘めた物質エネルギーの源ですが、プルシャという純粋な意識(傍観者)によって観照されることで、知性(ブッディ)や自我意識(アハンカーラ)、そして感覚器官や元素など、世界の森羅万象へと展開していきます。苦しみは、本来は純粋な傍観者であるプルシャが、自らをプラクリティの展開物(心や身体)と混同することから生じるとされます。そして解脱とは、この混同を断ち切り、プルシャが「私はプラクリティではない」という識別知(ヴィヴェーカ)を得ることにあると考えました。

  2. ヨーガ学派 (Yoga)心を制御する実践の哲学

    ヨーガ学派は、サーンキヤ学派の理論的枠組みをほぼ全面的に受け入れ、それを実践的な解脱の道として体系化した学派です。いわば、サーンキヤが理論編なら、ヨーガは実践編という関係にあります。『ヨーガ・スートラ』の著者パタンジャリは、ヨーガを「心の作用を止滅させること(citta-vṛtti-nirodhaḥ)」と定義しました。心の波立ちを静め、サーンキヤの説く識別知を体得するために、八つの段階からなる実践道(アシュターンガ・ヨーガ)を提示しました。サーンキヤと異なり、ヨーガ学派は修行の助けとなる**自在神(イーシュヴァラ、Īśvara)**の存在を認めるため、「有神論的サーンキヤ」とも呼ばれます。

  3. ニヤーヤ学派 (Nyāya)正しく知るための論理の哲学

    「ニヤーヤ」は「論理」や「分析」を意味します。この学派は、いかにして正しい知識(プラマー)を獲得できるかという**認識論(epistemology)と、正しい推論の形式を探求する論理学(logic)**を徹底的に追求しました。彼らは、直接知覚、推論、類比、そして聖なる言葉の証言(シャブダ)という四つの正しい知識獲得の手段(プラマーナ)を確立し、他派との論争において強力な武器としました。ニヤーヤ学派にとって、世界の真の姿を論理的に正しく認識することこそが、誤った知識から生じる苦しみを断ち切り、解脱へと至る道でした。

  4. ヴァイシェーシカ学派 (Vaiśeṣika)世界を構成する原子の哲学

    「ヴィシェーシャ」は「特殊」や「差異」を意味し、この学派が世界の究極的な構成要素の特殊性を分析したことに由来します。彼らは、この世界がそれ以上分割できない究極的な実体である**原子(アヌ、aṇu)**の結合によって成り立っているとする、一種の原子論を説きました。そして、実体、属性、運動、普遍、特殊、内属という六つのカテゴリー(パダルタ)によって、世界のあらゆる存在を分類し、その構造を明らかにしようと試みました。ニヤーヤ学派が知識獲得の方法論を探求したのに対し、ヴァイシェーシカ学派は知識の対象となる世界の側を分析したと言え、両者は密接に結びつき、後に「ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派」として統合されていきます。

  5. ミーマーンサー学派 (Mīmāṃsā)ヴェーダの儀式を護持する解釈の哲学

    「ミーマーンサー」は「探求」や「考察」を意味します。この学派は、六派の中でも最も保守的で、ヴェーダの権威を固く守護する番人のような役割を果たしました。彼らは特に、ヴェーダの中でも儀礼の遂行(カルマ)を説く部分に焦点を当て、その文言の正しい解釈と実践こそが、人間が果たすべき義務(ダルマ、dharma)であると主張しました。ウパニシャッドや他の学派が思弁的な智慧(ジュニャーナ)を重視したのに対し、ミーマーンサー学派は、ヴェーダに命じられた祭祀を正しく行うという「行為」の重要性を強調しました。彼らにとって、ヴェーダは解釈されるべき哲学書ではなく、実践されるべき行動規範だったのです。

  6. ヴェーダーンタ学派 (Vedānta)ウパニシャッドの真理を探求する究極の哲学

    「ヴェーダーンタ」は文字通り「ヴェーダ(veda)の終極(anta)」を意味し、ウパニシャッドの哲学を継承し、体系化することを目的とした学派です。六派哲学の中で最も影響力が大きく、後のヒンドゥー教思想の主流を形成しました。その中心的なテーマは、ウパニシャッドと同じく、宇宙の根源的実在である**ブラフマン(Brahman)と、個人の本質であるアートマン(Ātman)**の関係性の探求です。この関係性をめぐって、後の時代にシャンカラの「不二一元論」やラマーヌジャの「限定不二一元論」など、多様で深遠な思想が展開されることになります。

 

異端派(ナースティカ)の挑戦者たち

次に、ヴェーダという土俵の外から、その権威に果敢に挑戦したナースティカの思想家たちを見てみましょう。彼らの思想は、既存の秩序を揺るがす危険なものと見なされましたが、その批判精神こそがインド哲学に新たな視点と活気をもたらしました。

  • 仏教 (Buddhism)

    仏教は、ヴェーダの権威、バラモン階級の特権、そして動物供犠を伴う祭祀を明確に否定しました。その最も根本的な挑戦は、**「無我(アナートマン、anātman)」**の教説です。ウパニシャッド以来、インド思想の根幹をなしてきた「アートマン」という不変の実体としての我(魂)の存在を否定し、人間存在はたえず変化する要素(五蘊)の仮の集合体に過ぎないと説きました。この一点において、仏教は正統派の思想と決定的に袂を分かちます。また、カースト制度を批判し、人の価値は生まれではなく行為によって決まるとし、誰にでも解脱への道が開かれていると説いたことも、その革新性を示しています。

  • ジャイナ教 (Jainism)

    ジャイナ教もまた、ヴェーダの権威と祭祀を否定しました。彼らが特に強く批判したのは、ヴェーダの祭祀における動物供犠でした。ジャイナ教は、あらゆる生命(植物や、果ては水や土の中にさえ魂(ジーヴァ、jīva)の存在を認める)に対する**アヒンサー(ahiṃsā、非暴力・不殺生)**を最も重要な徳目として掲げ、徹底した苦行と禁欲によってカルマの汚れを浄化し、解脱を目指しました。アートマンに相当するジーヴァの存在は認めますが、その解釈や解脱への道筋は、ヴェーダの伝統とは全く異なる独自の道を歩みました。

  • 順世派(チャールヴァーカ / Cārvāka)

    ナースティカの中でも最もラディカルで、徹底した唯物論を唱えたのが順世派です。彼らは、直接知覚できるものだけが実在すると主張し、神、魂、来世、輪廻、カルマといった、ヴェーダや他の宗教が説く一切の超越的な概念を「ナンセンス」として退けました。彼らにとって、意識とは物質である身体から生じる付帯的な現象に過ぎず、死ねばすべては無に帰します。したがって、天国や解脱といった来世の幸福を求めて苦行するのではなく、「今、この世(順世)」において、五感の快楽を最大限に追求することこそが賢い生き方だと説きました。「ヴェーダは、賢しらな詐欺師どもが考え出した戯言だ」という彼らの言葉は、その過激な批判精神を物語っています。

  • アージーヴィカ教 (Ājīvika)

    この学派は、現代ではあまり知られていませんが、当時は仏教やジャイナ教と並ぶ有力な思想集団でした。彼らの最大の特徴は、**厳格な運命決定論(ニヤティ、niyati)**です。この世界で起こるすべての出来事は、人間の意志や努力とは無関係に、あらかじめ定められた運命の法則に従って生じると考えました。したがって、善行を積んで良い来世を得ようとするカルマの思想も、修行によって解脱を目指す努力も、すべては無意味であると断じました。この立場は、人間の自由意志を重んじる仏教やジャイナ教からも厳しく批判されました。

 

対立と共鳴が生み出す思想のシンフォニー

ここまで、アースティカとナースティカという二つの陣営に分けて、古代インドの思想家たちの多様な顔ぶれを眺めてきました。しかし、この分類はあくまで見通しを良くするための方便に過ぎません。実際の思想史は、静的な対立ではなく、動的な相互作用の歴史でした。

彼らは互いに論敵として激しく火花を散らす一方で、知らず知らずのうちに影響を与え合い、自らの思想を深化させていきました。ニヤーヤ学派の精緻な論理学は、仏教のディグナーガ(陳那)やダルマキールティ(法称)といった優れた論理学者たちとの対決なくしては生まれなかったでしょう。ジャイナ教や仏教が説いたアヒンサー(非暴力)の理念は、やがてヒンドゥー教にも深く浸透し、その倫理観を変容させていきました。

アースティカとナースティカ。それは、互いに反発し合いながらも、一つの巨大な知的磁場を形成していた二つの極でした。この緊張感あふれる対立と、予期せぬ場所で起こる共鳴のダイナミズムこそが、インド哲学という壮大なシンフォニーに、他に類を見ないほどの豊かさと奥行き、そして力強い生命力を与えた源泉なのです。

この思想の百花繚乱の時代を学ぶとき、私たちは、自らが「正統」や「常識」と信じているものが、決して絶対的なものではないという知的な謙虚さを教えられます。そして、異なる視点を持つ他者との対話や対決こそが、私たち自身の思索を鍛え、新たな地平へと導いてくれるのだという、哲学の最も根源的なレッスンを学ぶことができるのです。

 

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ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。